第十四謎:遺された五線譜 IQ150(全七話)
朝の言弾(ことだま)
鉄骨階段を歩く時のカン、カンという独特な音が好き。上る時よりも下りる時の方が響くのは気のせいかな。
部屋を出て愛車に跨り、事務所を目指す。
ゴールデンウィークも終わって穏やかに晴れた朝は、風を切って走るのが心地いい。見馴れた景色も新鮮に感じる。
十五分ほどで大通りから一本入った道を右に曲がり、しばらく行った十字路を左へ進むと右手の角に煙草屋が見えてきた。珍しく人影はない。
しめた、と通り過ぎようとしたら無警戒の左側から声を掛けられた。
「おはよう、お兄さん。今朝は自転車日和だねぇ」
煙草屋のおばちゃんがほうきとちり取りを持って満面の笑みを浮かべている。
僕は愛車――俗にいうママチャリを停めた。
「おはようございます。今日はお掃除でしたか」
「ほら、晴れて気持ちもいいからね、たまには掃除しようかと思って店の前を掃いていたらこっち側も気になっちゃって。煙草屋だからさ、タバコの吸い殻が投げ捨ててあると気になって仕方ないのよ。見てよ、こんなに――」
おばちゃんのマシンガントークが始まってしまった。
こちらが相槌を打とうが打つまいがお構いなしに、自分の言いたいことを次から次へと繰り出してくる。
相手をしていると大変なので、会釈だけで通り過ぎたことがある。
すると翌日にはコンビニや定食屋さんや先輩にまで、「お年寄りには優しくしてあげないと」と言われる始末。あのおばちゃん、一体何を言いふらしたのだろう。
それ以来、出来るだけ見つからないように通り過ぎることを目標に、万が一見つかった場合はあきらめて相手をすることにしていた。
「すいません、遅くなりましたぁ」
二十分ほど
「おはよう。遅いから先にいただいているよ」
いつものマイセンのカップを手にしながら、ソファで先輩は新聞に目を通している。
「またつかまっちゃいました」
机の上にバッグを置き、とりあえず座って休憩。気持ちのいい朝だったのに、既に精神的にはぐったりだ。
「煙草屋のおばちゃんかぁ。昔から全然変わらないからな、話好きなのは」
「先輩はおばちゃんにつかまらないんですか。駐車場は煙草屋の真ん前なのに」
「まあね」
カップを置いてニヤリと笑う。
「あ、何かコツがあるんですね。教えて下さいよ」
「探偵の基本は観察力だよ」
座ったまま、こちらへ向き直った。
「まず相手をよく観察する。駐車場に車を停めた後もすぐに降りず、車内からおばちゃんを観察するんだ。ずっと座っているわけじゃなく色々と雑用もしているから、奥へ引っ込むタイミングを見逃さずに通り過ぎる。これにつきるね」
「うーん。それは
「とっておきは電話作戦かな」
「まさか煙草屋さんに電話をかけて、無理やりおばちゃんを奥へ追いやるとか」
電話の呼び出し音につられて、おばちゃんが急いで奥へと入っていく姿が目に浮かぶ。
「そんないたずら電話みたいなことはしないよ。電話が掛かってきて通話しているふりをしながら車を降り、会釈して通り過ぎる。アイコンタクトを忘れずに」
「なるほどぉ。今度おばちゃんに話しておきますね」
「おいおい、鈴木くん! それはずるいよぉ」
相変わらず冗談も真に受けてしまうんだから。その素直さが先輩の並外れた洞察力を生み出しているみたいだけれど、こうして困った顔を見せてくれるのも面白い。
うん、今日もうちの事務所は平穏だ。
落ち着いたので珈琲を飲もうと立ち上がると、入り口のドアを三回ノックする音が響いた。
「おはようございます、鈴木さま」
「おはようございます、美咲さん。今日も早いですね」
「早く伺っては、お二人のお邪魔でしたか」
オフホワイトのブラウスに紺のプリーツスカート姿の美咲さんが、僕を軽くにらんできた。先輩のフィアンセを自認している彼女は、僕を恋敵のように思っている節がある。そんな趣味はないし、二人のことを応援もしているのに。
彼女の誤解を解きながら中へ案内した。
「おはようございます、美咲さん」
読んでいた新聞をたたんだ先輩に声を掛けられると、それだけで彼女の機嫌が直った。
二人分の珈琲を入れて美咲さんの前と僕の机に置く。
カップに口をつけると、彼女が遠慮がちに切り出した。
「耕助さま、お仕事はお忙しいですか」
先輩は僕をちらっと見る。正直に答えていいか困っているんだな。
仕方ない、代わりに答えてあげるか。
「それほどでもありませんよ」
まぁ相変わらず暇なんですけど。
「それならお願いがあるんですけれど」
「なんですか」
「再来週に市民ホールで岩見沢洋樹さんの生誕百年記念コンサートがあるので、聴きに行きませんか」
「駅前にもポスターが貼ってありましたね」
「その方って有名なんですか」
二人の会話に割って入った僕の質問が場違いだったのか、一瞬、事務所に静寂が訪れた。
今度は先輩が仕方ないなと言った感じで口を開く。
「我が百済菜市が生んだ世界的な作曲家だよ。現代音楽では評価が高く、『百済菜の丘』は有名だから鈴木くんも聞けば分かるんじゃないかな」
「あ、あれですね。題名は聞いたことがある気もします」
取り繕って適当に合わせたけれど、この二人にならバレていないはずだ。
「今からでもチケットって取れるんですかね」
クラシック系のコンサートってどんな感じなのか想像がつかない。
アイドルやロック系と違って、歓声を上げたり立ち上がったりすることはないし、上品に座ったまま音楽を鑑賞するイメージだ。
その日のためにちょっとお洒落していくんだろうな。
再来週って言ってたけれど、有名な方の記念コンサートならチケットはもう完売していてもおかしくない気がする。
「そこは耕助さまからお願いして頂けると……」
「分かりました。頼んでみましょう」
「わぁ、うれしい! ありがとうございます」
え、何だか話の流れについて行けない。
どうして先輩がコンサートのチケットを取れるんだろう。そんな知り合いがいた話も聞いたことがない。
よほど僕が不思議そうな顔をしていたのか、珍しく先輩が気づいたみたいだ。
「市民ホール建設の際にはエムケー商事から多額の寄付をしたんだ。百済菜市にも文化を根付かせようって。それが縁で、おじい様が名誉館長をしているんだよ」
大変よく分かりました。
先輩のおじい様は、日本有数の総合商社で百済菜市に本社を置くエムケー商事の創業者、現会長だ。ミステリー好きな方で、先輩の名前もおじい様が某有名探偵から採って決めたらしい。
「要はコネを使うんですね」
「おじい様に甘えるだけだよ。これも孝行の一つだから」
「そういうことにしておきます」
僕たちのやり取りを見守っていた美咲さんも、先輩から「今夜にでも連絡しますから」との言葉を聞いて、嬉しそうにお礼を言い帰っていった。
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