第66話 貧困7
目を覚ますと、若葉は風呂に入っていて、アオイとハルナはベッドルームで寝ていた。夜中の三時だった。携帯を見ると、中原さん、綾子、杉本くんからそれぞれ着信があった。中原さんには明日きちんと報告して、金の流れを確認しなければならない。今日はさすがに寝ているだろう。杉本くんの用事はなんとなくわかる。問題は綾子だ。株式会社TIAとの打ち合わせの報告、それに神谷ハウジングの中村社長からの手応えも聞きたかった。
(一応、メッセージだけでも送るか?)
そう考えもしたが、明日の朝一でいいという結論になった。さすがにこんな時間まで待ってはいないだろう。今連絡をするのはおかしい。
バスルームからは、ドライヤーの音が聞こえてきた。若葉が髪を乾かしている。若葉は、もうこの仕事から足を洗うだろうか。はっきりいって、それだけが気がかりだ。俺との関係とか、そういうことではなく、子供たちの手前、今の状態が良いことだとは思わない。
アオイとハルナは確かによく出来た子供だ。小学生にしてはかなり物事や状況がわかっている。だが、我慢していることも多いはずだ。
また、俺はサナとナユと接していく中で、もしくはヒロコや斉藤(失踪より)と関わった経験から、子供は間違えるのが当たり前だと思うようになった。だが、アオイとハルナは間違えることが許されない環境に身を置いていないだろうか。そうやって育った子供は、その先どうなるか。自分で何かを決めることができるだろうか。若葉は確かに、今まで一人で子育てを頑張ってきた。俺なんかに言われなくてもわかっているかもしれない。でも、やっぱり確認しておきたい。そして、あの子達のためにも仕事をやめてほしいと伝えたい。そう、俺は決めた。
「一樹くん」
若葉がバスルームから出てきた。バスローブかと思ったが、ちゃんと服を着ていた。
「飲み過ぎたよ」
「私も」
若葉は照れるように笑った。そして、俺の隣に座り、すぐに俺の身体に寄り掛かってきた。
「一樹くん…」
俺の胸に顔を埋めて、両手を俺の背中に回した。俺は別に止めなかった。若葉の心境を考えれば、これくらい当然のことだ。
「本当にありがとう」
「頑張ったのは若葉たちだよ。当然の権利だと思う」
「大好き!」
若葉は顔を上げて、俺にキスをしてきた。俺は若葉の頭を撫でた。
「頑張ったね」
若葉は、犬みたいな顔をして喜んだ。そして再び俺の胸に顔を埋めた。
「若葉、これから、どうするの?」
「なにが?」
「仕事のこと。続けるの?」
「……うん。なんで?」
「別の仕事じゃダメなの?」
「うーん、私にはこれしかないから、働けるうちは働くよ。やめてほしいの?」
「別に偉そうなことを言うつもりはないけど、あの子達のことを考えたら」
「ストップ」
若葉は俺の言葉を遮り、顔を上げて俺を見た。そしてソファーに座る俺の膝の上に跨がり、俺の首に両手を回した。
「一樹くんはどうなの?私にやめてほしいの?」
「うん。やめてほしい」
「なんで?」
「だから、アオイとハルナのことを…」
「そうじゃなくて!あの子達のことじゃなくて、一樹くんはどうしてほしいの?私がこの仕事、続けるのは嫌なの?嫌じゃないの?」
「俺は、個人的にはどっちでもいいと思う。風俗だって立派な仕事だし。需要があって商売が成立しているし、ただ、あの二人のことをかんがえたら…」
「もう!」
若葉は俺から離れ、電子タバコを取りに行った。
「若葉、ここ禁煙…」
「一樹くんって、人のこと考えているようで考えてない。全部自分の都合ばっかり!私の気持ちも考えてよ!」
若葉は迷わずに電子タバコに口をつけ、一塊の煙を天井に向かって吐き出した。それを三回繰り返して、電子タバコ自体をゴミ箱に投げ捨てた。
「風俗だって立派な仕事?ふざけてるの?」
「いや、ふざけてないけど」
「やったこともないくせに、知ったふうなこと言わないで!」
「ごめん」
沈黙が流れた。俺は、どこをどう間違えたのかを考えたが、脳がフリーズしてしまい、一つの答えにもたどり着けなかった。ただ、俺が若葉の気持ちを無視していたことだけは確かだった。
「もーお」
若葉はバッグの中からペットボトルの水を取り出し、それを一口飲むと、立ち上がって再び俺の前にきた。そして乾かした髪をくしゃくしゃにした。
「私が言いたいのはこんなことじゃないのに…。」
そして、俺の両手を取り、「立って」と言った。その場で立ち上がると若葉は俺の胸の中にすっぽりと収まった。
俺たちは、恋人同士みたいに抱き合った。
「一樹くん、私たちもう会えないの?」
「いや、いつでも会えるよ」
「じゃあ毎日会いたい」
「それは無理だよ」
「なんで?」
「俺の仕事は結構忙しいし、それに俺、千葉の大学にも通っているから毎日は来れないよ」
「だから、さっきから私が聞いているのはそういうことじゃないの!逃げないでちゃんと答えてよ」
若葉は俺の身体から離れた。そして上に着ているシャツを脱ぎ捨てた。ホットパンツも脱ぎ、赤いブラジャーとパンツだけになった。
「一樹くんも脱いで」
「するの?」
「いいから早く」
急かされて、俺もパンツ以外の服を脱いだ。すると若葉は俺に抱き着いてきた。肌と肌が密着し、若葉の胸が俺の腹に当たった。瞬時に、俺は勃った。
「私と付き合ってくれたらこの身体、使い放題だよ。どこ使ってもいいから。毎日エッチしよ。」
若葉はそう言って、俺のパンツに手をかけた。
「待って!大事な話なんだ」
「エッチしながら話そ?」
俺は若葉の押しに負けてしまった。俺はそのままソファーで若葉を抱き、お互いがいった後、すでに明るくなっていた空を眺めながら、今後について話し合った。
「一樹くん、本当は結婚してほしいの。だけどそこまでわがままは言わない。でも、風俗をやめる代わりにお願いがあるの。」
「なに?なんでも言って」
俺も若葉も裸だった。若葉は俺の腕の中で、俺の胸を指でなぞりながら話した。
「あのね、一ヶ月に一回、ううん、二ヶ月に一回でいいから、顔を見せに来てほしいの。そのときだけ、あの子達のお父さんになってほしい。ダメ?」
「そんな、若葉にはもっといい人がいるよ」
「そんな人いない。私ね、一樹くんと全然釣り合わないのはわかってる。だから毎日じゃなくていい。一年に一回でもいいから帰って来てほしいの。私と、あの子達の心の支えになってほしいの。本気だよ」
「若葉……」
「それがダメなら私は今まで通り風俗で働くよ。一樹くん、風俗も立派な仕事って言ったけどさ、風俗は仕事じゃないよ。風俗はね、やめたら行き場所がないの。ドラッグと一緒。お金と人肌が欲しくて、やめてもまた手を出しちゃうの。私たちは他の仕事なんてできない。運良く誰かに拾ってもらうか、人生を諦めるかしかないの。だから、簡単に風俗やめてなんて言わないでほしいな。」
若葉の身体は柔らかかった。胸も尻も、太ももやふくらはぎも、頭や肩の骨さえ柔らかい。俺の節くれ立った腕の中に、若葉の柔肌はすっぽりと収まった。
俺は、なんて答えたらいいのかわからなかった。心の中で答えは出ていた。イエスだ。だが、果たしてその提案に乗っても良いのかどうかがわからなかった。そんなこと、倫理的に許されるのだろうか。
「一樹くん、真面目だからちゃんと考えてくれてるんでしょ?」
「うん。そのつもり」
「一樹くん、真面目だけじゃやっていけないよ。」
「そうかな」
「本当に真面目なんだから。でもね、聞いて。これは私とあの子達のためなの。私、風俗をやめてあの子達をちゃんと育てるから。一樹くんはそれに協力するだけだよ。一樹くんに恋人がいるかどうかはわからないけど、私はいても何も言わないよ。思い出したときだけこっちにきてくれればいいの」
「うん」
「私は一樹くんとのこと、誰にも言わない」
「若葉は本当にそれでいいのか?」
「だから、本当は結婚したいの。だけど私にだって釣り合うか釣り合わないからくらいわかる。この部屋だって、一泊五十万円はするでしょ?それにさっきの人たちはなに?ガードマン?普通はガードマンなんて雇えないよ。そういうの見てたら、とてもじゃないけど釣り合わないって思うな。だから、これは私なりの妥協案なの。入籍とか面倒くさいことは言わないわ。書類とかもいらない。一樹くんが嫌になったらいつやめてもいい。一樹くんが今、うん、って言ってくれたら、私はそれが一番幸せなの」
若葉は自らに言い聞かせるように言った。俺はもう断るどのような理由もなかった。ここまで言ってくれているのだから、これ以上困らせるわけにはいかない。何より、ここまでお膳立てしてくれているのに、断るのは失礼だ。若葉はさっきから何本もスルーパスを通してくれている。俺はそれを後ろ向きで受けて、そして若葉に返しているのだ。これは、誰も傷つくことのない、優しい契約だ。
俺は返事の代わりに若葉を振り向かせ、長いキスをした。
「わかった。若葉がそれでいいなら、俺はあの子達の親になる。そして若葉の側にいる。毎日は来れないけど、いつでも若葉の味方だから、何かあったら遠慮しないで連絡して?」
「本当?嬉しい」
俺たちは再び抱き合った。身体の向き合った部分のすべてを密着させるように、きつく抱き合った。
朝方、少し冷えたので俺は風呂に入り、若葉はアオイとハルナのいるベッドルームへと入っていった。俺は風呂に入っている間中、今後の人生を想像した。家に帰ると若葉たちが出迎えてくれる。若葉の手料理を食べ、アオイとハルナの学校の話を聞いて、彼女らの成長を見守る。そういう人生だ。それも確かにいいかもしれない。
そこまで考えたとき、そうじゃない未来も頭に浮かんだ。それは、若葉が引き続き風俗で働き、たくさんの男と肌を重ねる未来だった。俺はお湯の中で身震いした。俺の選択は、やはり正しかったと思う。そんなことを考えたとき、バスルームのドアが勢い良く開いた。
「お父さん!」
アオイとハルナが満面の笑みで、こっちに身を乗り出してきた。
「すぐ出るから待ってて」
俺は少し焦ったが、なるべく笑顔でそう言い、アオイたちをいったん外へやった。手早く身体を乾かし、ボクサーパンツを履いてサンローランのTシャツを羽織ると、アオイたちの待つリビングに出た。アオイとハルナは、まるで室内犬のように俺に飛び付いてきた。俺が二人を抱き締めると、その後ろで若葉は顔を覆って泣いた。サナとナユには持つことのなかった感情を、俺は二人に抱いた。守るべきものが増えた気がした。
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