「過去」のち「真実」

『宿場町ハラン』から『バベル王国』へと続く広大な大草原、その手前に広がる雑木林の道から脇に逸れ人目の付かない木陰の隅で、荒い息を立てながら座り込む漆黒の刀を携えた男が一人。その姿は満身創痍で、口を開いたまま虚空を見つめている。

俺は一体何者なんだ、あの気色の悪い声や黒い手はなんだったんだ、あれが俺の正体なのか?俺の身体どうなってしまったんだ……

答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐると回りその表情は焦燥に満ちていく。

リリスから離れ闇雲に走り続けたエリヤは体力が限界に来た所で雑木林に入り込み、人気のない場所に身を潜めていた。エリヤから出現した『黒い手』はリリスから離れると、目的を無くしたかの様に動きを緩めエリヤの体内へとその姿を消していった。

エリヤを包む様にリリスの行使した光の膜が薄っすらと優しく彼を包んでいたが、その効果も間も無く消えてしまうのだろう、徐々に光が弱くなり始めている。

エリヤは光に包まれた右手を顔の前にかざし、その煌めきを愛しそうに眺めた。

リリス、怪我大丈夫かな……また傷付けてしまった。そもそも俺に好意を寄せる資格なんてあるのかいや、俺にはそんな資格ない…なのにあんな事リリスに言ってしまって、最低……だな。

自己嫌悪に陥りながら自身への苛立ちに歯噛みしていると、辺りの草木が揺れ複数の気配を感じるが、余りにも弱々しい気配に思わず接近を許してしまっていた。

「誰だ?出来れば今は関わって欲しくないんだが」

問いかけた瞬間、周辺から無数の石がエリヤ目掛けて投擲される。

しかし光の障壁に阻まれ石は辺りに転がった。光は役目を終えたように四散して消えていく。

投擲された石にそこまでの脅威はなかった為、エリヤ自身特に回避もしなかった、服に付与されている物理耐性で十分防げたからだ。

「出てこい、イタズラなら勘弁してやるから––––」

複数の影がその姿を露わにする、木々の間から現れたのは薄い緑色の皮膚にギザギザの歯をした、まだ子供のゴブリン。

「やっと、やっと見つけた、殺してやる!絶対に殺してやる!」

村にいた子供達の中でも人間で言うと十歳程のゴブリンが三匹姿を見せ鬼気迫る面持ちでエリヤを睨み付ける。

「ゴブリン?まさか、お前たちはあの村の?!」

「そうだ!お前が皆殺しにしたんだ!父ちゃんと母ちゃんを返せ、返せよ!」

「俺たちから大切な家族を奪ったお前だけは絶対に許さない」

子供のゴブリン達が石を削ったような、身の丈に合わない槍を持ってエリヤに構える。

その手はガクガクと震え、しかし目の前にいる仇を刺し違えてでも殺すという覚悟が滲みでている。

エリヤはただ困惑するしかなかった、身勝手な行動により、奪った命……怨まれる覚悟も、命を背負う自覚もなかったエリヤにとって、理不尽に家族を奪われた目の前の子供達にかける言葉などある筈が無い。

そして、今目の前にいるのは紛れもなく命だった。

姿形は違えど言葉を喋り、自我を持っている。外見以外に人の子となんの違いがあるだろうか、違いなどない……彼らの人間に対する在り方を知らなければ…

しかしエリヤは無残にもゲーム感覚で摘み取ったのだ、そんな自分の愚かさに現実と対峙して初めて気がつく。

俺は何て事をしてしまったんだ…これじゃ、一緒じゃないか…あの女と、俺から大切な存在を奪った理不尽な存在と同じ……

エリヤは汚れてしまった自分の手を見つめ、脱力し膝をつき崩れ落ちる。

どうやって、償えば…俺は、俺は……

『殺せェ…それは、人間の敵ィだ…殺せ、殺せ…殺せ』

ねっとりとした醜悪な声が耳にこびりつく…

「黙れ…俺に…話しかけるな…」

『じゃぁお前ェが死ね…お前ェに、愛ィされる資格なんて無ァいんだよ殺人鬼ィ…償いィたいんだろ?死ねョ死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねェ』

怨嗟の言霊が頭の中に渦巻き、エリヤの理性を蝕んでいく…心を砕き、咀嚼し、髄液を啜られる様に精神を喰らい、貪られ––––––。

「…そうだょな、それしか、ないよな……すまないリリス」

「俺は予想以上にダメな奴だったらしい…すまない……レイン」

エリヤはゆっくりと腰から刀を抜くと、自身の首筋にそっと刃先を添える。

突然の行動にゴブリンの子供達は戸惑いながらも、固唾を呑んで見守っていた。

「お前ら、すまない事をした…これでお前らの両親が戻る訳ではないが、幾分か気も晴れるかも知れない。本当にすまなかった」

刀を持つ手が震える、死ぬのが怖い……こんなにも恐ろしい事だと今更気がつくなんて、本当に愚かだな……悪い夢でも見ていた様な感覚だ『リリス』君のおかげで最後に正しい選択が出来そうだ

ありがとう––––––。

意を決して刀に力を込めようとした刹那。

白銀に光る閃光がエリヤと辺りにいたゴブリン達目掛け一直線に飛来する。エリヤは本能に従いゴブリン達を庇うように前に出て刀を構え白銀の閃光を漆黒の刀身で受け止め、弾いた。

「お前ら、俺の後ろに下がれ!!」

ゴブリン達は戸惑い、突然の状況に追いつけていない。

「俺の首なら後でやる!だから今は後ろに下がれ!!」

ゴブリン達は逡巡しながらもエリヤの後ろに隠れ、白銀の閃光が飛んで来た方向に視線を向ける。

「今の一撃を躱すか、それなりには出来るようだが……貴様の力は我が命を燃やせるか?」

突如目の前に現れたのは肩まで伸びた銀の長髪が印象的な色白で長身の男、その容姿は美しい女性と見紛う様な顔立ちだが、鋭利な三白眼は視界に入れた者を射殺すかの如き鋭さ。

「誰だ、お前は!なんのつもりだ?!」

「力を持つ者同士が雌雄を決するのに、理由など必要ない。強いて言うならば貴様は聖霊器の所持者だろう、私はそれを破壊する」

男は言い放つと長い鍔が印象的な両刃の剣をエリヤに向ける、刀身は美しく十字架の様な剣。

柄頭からは黒い鎖が伸びている。

男は有無を言わさず、疾風の如くエリヤに斬りかかった。エリヤは刀で受け止めるも勢いに押し負け僅かに後退する。

「ちょっと待て、意味がわからない。それにこいつらは関係ないんだ!見逃してくれないか?!」

男はエリヤの後方で怯えているゴブリンを興味なさげに一瞥しエリヤに向き直る。

「貴様は狂人か?『人喰いの小鬼』を使い魔にするとは…酔狂な事だ。貴様の事情などどうでもいい、そんなに『それら』が大事なら精々守る事だ」

「人喰い?どう言う意味だ?」

しかしエリヤの問いになど応えるつもりなど無い男は、再び剣を振り上げ斬りかかる。エリヤはその剣撃を辛うじて受けているが一瞬でも気を抜こうものなら、そこには明確な死のビジョンしかない。

一度経とうとした命だ、今更惜しくない。と言うと嘘になるが、もしここで倒れれば後ろの子供達がどうなるかわからない……命を落とすとしても、ここで引く訳には行かない。

エリヤは刀を握る手に力を込め、男が振り下ろした剣筋を峰で逸らす様に打ち上げ男の懐へと斬りかかる。

しかし男はしなやかに身体を後方へ逸らすとがら空きになったエリヤの首筋にその刃を容赦なく振り下ろす。

「っ––––––!」

エリヤは咄嗟に真横に飛び退き、身を転がして何とか回避するも切っ尖が首筋を撫で、薄っすらと血が滴り…初めての命のやり取りに全身から滝の様に汗が吹き出す。

一瞬でも回避が遅れていれば首が飛んでいたかもしれない、映像が脳裏を過ぎり死の恐怖がエリヤを襲う。

「貴様、何のつもりだ?」

男はどこか不服そうにエリヤに問いかけた。

「お前こそ、いきなり何なんだ!それにさっきの––––」

「質問をしているのは私だ、貴様は私を舐めているのか?なんだその動きは、その脆弱な力は、聖霊器の使い手ならば早くその力を示せ、全力で来い。今の貴様には剣を振るう気すら起きぬ」

「言ってくれるじゃねぇか、お望みどおり全力を出してやる、後悔すんなよ」

エリヤは『神速(カムイ)』『鬼人剛招(オーガストレングス)』を同時に行使、そして刀にマナを流し込みながら必殺の一撃を打ち込むべく足に力を込めて踏み込み、地を蹴った。

地面が陥没し、凄まじい勢いで男に斬りかかって行くエリヤだが。

「ふん、芸のない」

「––––––!」

男の懐が顔前に迫った所でエリヤは腹部にとてつもない衝撃を受けその身体は宙に浮く。

「ぁっ––––」

メキメキと肋が粉砕する音を立て口から血飛沫を吐く。エリヤは何が起きたのか理解出来ずに一瞬男の顔を見るが次の瞬間には視界が歪み横顔にめり込んだ男の蹴りによって吹き飛ばされ細い木々をへし折りながら最後は大木に打ち付けられずり落ちる。

「拍子抜けだな、貴様など剣を振るう価値すらない、その剣も聖霊器を模しただけの模造品か?貴様の様な脆弱なゴミが聖霊器など手に出来る筈がない」

エリヤは薄れゆく意識とボヤける視界の中で男の姿に全身が震えているのを感じる。

怖気、恐怖––––。

今までに感じた事のない恐怖が全身を支配しその細胞を震え上がらせ…

逃げなければ…殺される…怖い、怖い…死にたくない…死にたく––––––。

圧倒的な力量の差。男は実際エリヤが全力を込めた時点でその力量を見定め、剣を鞘に収めた。それは言外に男にとってエリヤは剣を交じえる価値すらなく、敵にすらなり得ないという事だ。そしてただ真っ正面から突っ込んで来るエリヤを無雑作に蹴り上げ、蹴り飛ばした、特段男が足技を得意としているわけでは無い。エリヤがその程度であっただけだ。

エリヤは自身がいかに自惚れ、高慢になっていたかを思い知らされ、己の情け無さに、愚かさに、心の底から歯噛みするも『絶対の死』を前にして完全な恐怖の奴隷となりかけ––––。

目の端に映ったゴブリンの子供達、せめて愚かな行いの責任だけは償わなければと満身創痍の身体に最後の力を込め、震える膝を叩き…エリヤを睥睨する男に右手を翳す。

「たのむ……届け!」

エリヤの右手に漆黒の炎が現れ、荒れ狂う『獄炎(ヘルフレイム)』が全てを呑み込まんと極太の火柱となり男目掛けて放たれる。

「黒い炎?見た事の無い魔法だな、だが…それがどうした?」

男は涼しい顔で目の前に迫り来る極太の黒い火柱に向かって、手を翳し無言のまま拳代の炎を放った。

男が行使した初級魔法。『炎撃(フレイムショット)』は、荒れ狂う獄炎と真正面からぶつかり、あろう事かその黒い炎を四散させ尚勢いを衰えさせる事なくエリヤに向かい飛来する。

「貴様の力は見てくれだけで中身がない。自らの脆弱さを呪って朽ちろ」

エリヤは最早呆然とその場に竦み上がる事しか出来なかった。

俺は、何を間違えた?俺に……力なんてない、俺は無力だ––––。

あぁ……そうか、俺はただ与えられる事しか願わなかった。自分で何かを成そうなんてしてなかったな。あの時お前を失った日…俺は事実や自分への責任から目を背けた。

理不尽な出来事に縋り、自己憐憫に溺れて、お前を慈しむ事を忘れていた。

…痛かったよな…苦しかったよな。それでも逃げなかったのはきっと…俺を……あの場所を命がけで守りたかった…そうだろ?レイン––––––。

俺は…自分の事ばかりだった……叶うならもう一度…あの空色の瞳を…

「滑稽だな…レインが見たら笑うだろうか…」

「……笑わない。よく頑張った…イイコ」

気がつくと目の前に黒いフードの外套を羽織り、黒髪に猫耳を生やした少女がエリヤの前に立っていた。その華奢な背中が今のエリヤにはとても大きく見え、そして何より彼女の纏っている雰囲気がとても懐かしく暖かい。

しかしエリヤは意識を前方に向けると、男の放った…エリヤの渾身の一撃を易々と打ち砕いた炎が少女の目前にまで迫っていた。

エリヤは動かない身体を無理矢理起こし叫ぶ。

「レイン!!」

もう、失いたく無い…レインに辛い思いはさせたく無い…エリヤは何とかレインの前にでて庇おうと身体を動かすが全く言う事を聞かない。

無意識に…だが確実に理解できた。根拠はない…けれど、きっと目の前にいるレインはあの『レイン』で間違いない。黒猫なのに…人間みたいな仕草でいつも困らせたり、笑わせたり、暖かい時間をくれた愛しい存在。

「……ゆうまの優しい匂いがする」

レインは青空を閉じ込めた様な空色の瞳をエリヤに一瞬向けると、向き直り顔前まで迫っていた炎を片手で払うと、いとも簡単に消し去った。

エリヤはその光景を驚愕の表情で見つめている、渾身の一撃を容易く凌駕した男の魔法をレインはまるで羽虫を落とすかのように消し去ったのだ。

事実、エリヤは弱い。

彼が手に入れた力は確かに凄まじい…しかし、実際その一割も引き出せていない。こちらのセカイに来る前の彼はごく普通の一般人であり、命をかけた戦いなど無縁。スポーツを多少やっていた程度で通用する程甘い物ではない。

以前の体に比べ身体機能も著しく増加していた彼だが、身体の使い方がわからなければそれは何の意味も為さない。

筋肉や関節の動き、体重移動や足捌き、その様な一挙手一投足が命を掛けた戦闘では命運を分ける。

圧倒的な経験値の差、実際彼の実力は近接格闘に置いて天賦の才を持つエステル、一年間死に物狂いで死線を潜り抜けてきたレインの足元にも及ばないのは自明の理。そして彼が山の主、シルバーウルフなどを相手取れたのは…平和なギルボア山に住む魔獣のランクが単純に低い事と、ギデオンが陰ながらサポートをしていたからに他ならない。

そんなエリヤが、世で言う所の達人クラスをも凌ぐ強者を相手に赤子同然なのは至極当然の結果。

エリヤは自身の弱さ、そして守りたいと願っていた存在に守られると言う現実にただただ落胆し…ただ命を落とす前に『自身の弱さ』に気が付けた事は『僥倖』なのだ。

レイン…俺は何処まで情け無いんだ。あの時ギデオンの言う事にしっかりと耳を傾けていれば……

様々な感情がエリヤの頭を駆け巡る中レインの語った『名前』が頭に過ぎる。

『ゆうま』って誰だ……胸が苦しい…何か大切な事、俺から抜け落ちている何か––––––。

エリヤが逡巡し頭を抱えているのを他所にレインは銀髪の男をジッと見据えている。

「貴様、名はなんと言う」

銀髪の男がレインを興味深そうに見つめ問いかける。

「うるさい…厨二野郎––––。名前はレイン」

男の外見をこちらのセカイでは通用しないワードで貶しながらもしっかりと名乗り応えるレイン。

確かに鋭利な眼光に銀の長髪、男の外見は超有名な伝説的RPGのあの御方を彷彿とさせる。銀髪男がその事実を知りエリヤ達の世界に来たならば、自身の外見に身悶えする事は間違いなく、今にも名前入りのテーマソングが流れて来そうな雰囲気。

そんな事を知る由も無い男は嘲笑混じりに軽く受け流す。

「ふん、威勢がいいな…レインと言ったか、貴様も風変わりだが、聖霊器の使い手だな?それに少しは楽しめそうだが」

「……厨二と楽しむ趣味はない…ワタシは……健全なニートでありたい」

最早、意味のわからないレインの返答に訝しむ男、微妙な空気が流れる空間にポツポツと雨が降り出した。

「チッ、雨か…今日はどうにも卿を削がれる。レインとやら命拾いしたな、しかし次は無い」

男は言い終えると踵を返し、一瞬エリヤとその後方を一瞥するが興味はないとばかりに向き直り去っていく。

「使い魔にも噛まれるとは、つくづく哀れな男だ…」

銀髪の男は静かに言い残すと振り返る事なくその場から去っていった。

エリヤは生気の抜け落ちたような表情でレインと男のやり取りを眺めながら、ぐるぐると回る思考の中に溺れていた。

『ゆうま』…ゆうま、誰だ……いや俺は知っている、その名前を…頭の中の抜け落ちたピースが嵌るような…俺は––––––。

「……ゆうま…なの?」

レインが男の去って行く姿に警戒を解きエリヤの方に目線を向け声をかけるのと同時。

ズブッと嫌な音と共にエリヤの背中の肉を石の刃が裂き、斜め下から突き立てられたその槍は心臓の一歩手前で動きを止める。

「やった、仇を討った!いい奴のふりしたって無駄だぞ、早く死んじまえ!」

「––––––!!」

レインは穏やかな様相を一変させ、獅子の様な眼光でゴブリンの子供達を睨みつける。

萎縮した子供達はゆっくりと後ずさり逃げるようにその場を離れた。

エリヤは背中に感じる生暖かい感触と次第に遠退いていく意識の中で様々な記憶が映像となり、まるで8ミリフィルムの映画を鑑賞するかのように脳内で記憶が上映され––––。

……俺死ぬのか…これが、走馬灯……本当に、死––––––。

ドクドクと背中から血が流れる、電流を流し続けられているような感覚。この感覚、前にも覚えがある…

その瞬間、エリヤの脳内で流れ続けていた8ミリフィルムの映像が眩い光を放ち、勢いよく逆再生を始める。

そして気がつくと、見覚えのある二階建てのアパートの玄関に立っていた。

部屋の中から微かに女性の声が聞こえる…

扉に恐る恐る手をかけるとスッとその手は扉をすり抜けた。どやら現実では無く、立体的に見ている映像のようだ。

意を決し、扉に向かって歩くと全身が扉をすり抜け玄関の中へと入っていった。

そこには、男を膝の上に寝かせ頭を撫でながら何かを囁いている女性の姿––––。

脂ぎった髪、返り血を浴びた白のワンピース。

間違いなく『あの女』だ、そして膝の上に抱えられている男性は短髪でスーツ姿そして何より異常なのはその背中に深々と突き刺さった包丁の存在だろう、既に男性は生き絶えているように見える。

「ゆうま君、私のゆうま君、もぅ邪魔は入らない…これからは私がずっと一緒いるからね私とあなたは結婚するの、フフ、フフフフ」

異様な光景に息が詰まる、こみ上げる感情は情動はどの感情なのかも分からない…本能が、魂が叫ぶ…ここにいたくない、今すぐに逃げ出したい…しかし同時に膨れ上がる容認しがたい記憶、記憶、記憶、記憶……

「思い……出した…これは……俺だ、潜んでいたあの女に俺は背後から刺されて…」

記憶が蘇った事で刺されて死んでいるのが自分自身だと言う事実に言い様の無い不快感と吐き気が込み上げ…吐く、何も出ない、押さえられない吐き気に何度も嘔吐を繰り返す。実態ではないエリヤは実際に吐く事は無い…ただこの不快感を出したい、全て吐き出したい衝動に駆られ––––––。

「ゆ…うま…あか…つき…祐真……紅月…祐真」

思い出した…本当の名前、何故忘れていたのか……そして記憶の片鱗が結びつき形を成していき…

それは目の前にいる女への憎悪となって膨れ上がり、瞬間、飛び掛かった。

「おまえさえ!おまえさえ現れなければ!!何故俺から奪った!俺はお前なんて知らない!誰なんだ、何なんだよ!」

必死に拳を突き立てるが、虚しくすり抜けるだけで変化はない。

その時、刺され無残な姿へと変わってしまった自分の身体から柔らかい陽光色の光が滲み出てその身体を包む、そしてゆっくり宙に浮くと光は眩さを増し始める。

「ちょっと!どこに連れて行くつもり?!これは、これは、ワタシのモノよ!!なんとかしなさいよぉお!」

けたたましい叫び声を発して女は祐真に縋り付く、そして女の首筋に赤黒い筋が無数に走り眼球はぐりぐりと非対称に動き回る。

悍ましい様相へと変貌した女の全身から禍々しい黒い靄状の手が何十本と出現し祐真の身体を覆い尽くしたかと思った次の瞬間、女と共に忽然と姿を消した。

「なんだ、今のは……あの黒い手、俺はどうなったんだ」

閑散とした部屋に風の音だけが響く、呆然と立ち尽くす祐真は未だ状況が呑み込めないまま虚空を見つめていた。すると部屋の風景が次第に歪んでいきそれらを呑み込む様に空間の渦が出現すると全ての『色』を呑み込み、宵闇の広がる空間へと様相を変える。

「もう、訳がわからない」

永遠と続く薄暗い空間、そこには何も無い。

祐真の身体だけがポウッと弱い光を纏っている。ふと身体に目をやると、スラックスにシャツ姿をした過去の自分。

まるで弄ばれているかの様な、次々と変わっていく状況に焦燥感を募らせ辺りを見渡す。

そこは暗闇だが、見回すと何となく視界は確保できていた。身体が光っているおかげかも知れない。

すると突如として、空間が捻れ始め渦状に大きな穴が開いたかと思うと、直結4メートルはありそうな禍々しい暗黒色の球体が現れた。球体の周りから無数の黒い手が生え蜘蛛の足の様に球体を支え立っている。

「な、なん、なんだ…これは、気味が悪い……」

呟いた瞬間、球体に何百と言う『眼』が出現しその全てがエリヤを睥睨する、その目線は怨念のこもった人間の––––––。

「なんだよ…お前は一体なんなんだ!化け物」

目の前に現れた、異形としか表現できない悍ましい姿に萎縮しつつも感情のまま言葉を投げつける。

『ただの傀儡がァ、どこまでもォ手間ァをかけさせるなァあ!』

「傀儡?ど、どういう意味だ!」

『お前ェ、自分が本当にィ『祐真』だと、思っているのかァ?』

「だから、どういう意味なんだ?!俺は祐真、紅月祐真だ!そしてこのセカイに来た時名前が思い出せず、『エリヤ』と言う名前を新たに得た!それだけだ!」

『ははははははははァ、お前ェごときがァ『エリヤ』なはずがァないだろう?ましてや、お前ェは祐真ですらァない、お前ェはただの人形、お前ェの、大っ嫌いィな女がァ祐真を愛でる人形ごっこォの為だけに、利用してぃたァ哀れな傀儡だァ、それがァ自我ァを持ったァだけェのゴミ人形だァ』

戦慄の表情を浮かべ、異形の語る言葉を聞き絶句する。

「なんだよそれ、俺が祐真だ…デタラメを言うな!!お前の言葉なんか信じられるか!」

『あァ、祐真って名前ェの人形ォだよ、本物ならァ何故、あの黒猫はァ反応しなィ?姿が変わっても、本物ならァ直ぐにわかるさァ、何故わからないかァ、お前ェが偽物、本物を閉じ込める為のォただの入れ物ォだからだァそれにィお前ェの手はもゥ血みどろじゃないか、ただのォ殺人狂だなァ、誰もお前ェなんか愛さなィ、お前ェなんかに興味ない、お前ェは傀儡ただの汚れた人形ォ、あの金髪の女ァも、お前ェの本性知ったァらどぅなるかなぁ、ァあそしたら、また襲うといぃなァそのまま次はぁ殺してしまェよ』

『はははははははははははははははははは』

「やめろぉ、やめろぉおお、あぁああああ」

膝から崩れ落ち頭を掻き毟りながら発狂するエリヤの頭に聞き慣れた懐かしさを感じる声––––。

『あいつの言葉に耳を貸すな、あいつはお前の精神を壊したいだけだ』

祐真の姿に重なる様に薄っすらと半透明なエリヤが現れ、祐真に声をかける。

『お前は、相変わらず病んでるな、もっとスパッと割り切れよ』

「エリヤ?割り切れって…俺には何がなんだかわからない…あんたも本当は誰なんだ?」

『俺は俺だ、誰がどう言ったにせよ、それは俺が決める事だ…誰にも関係ない』

『彼』は力強く言葉を放つと、エリヤに立つ様に促した。エリヤは『彼』の言葉に何故だか底知れない安心感を与えられ、立ち上がる。

『出て来たなァ『兄さん』…お前ェも哀れな奴だ、1000年前ェに消滅しておけばァこんな、屑と惨めに共存せずにすんだのになァ』

異形は全身の目で睥睨しながら纏わりつく様な声で『彼』に話しかける。

『気持ち悪いんだよ、お前、喋り方も見た目も』

『ははは、強がるのも今の内だなァ、そいつは時期に壊れる、そしたらァ哀れにも、ゴミとくっついちまったァお前ェはぁ終わりだなァ、俺はァお前ェの大事なァ大事なァ光を絶望させて喰らうとするョ、あの時みたいにイィ』

下卑た雰囲気を纏わせながら、勝ち誇った様に夥しい量の目が嘲笑の笑みを浮かべる。

『お前だけは、必ず滅ぼす…』

『状況をォわかって、いないョうだ、お前ェは生かされているゥだけェ、今ここでぇそいつを壊す事も、出来ィるゥんだぞ』

異形の周辺から大量の黒い手が出現しエリヤ目掛けて襲い来る。

『チッ、煩わしい…おい!ボサッとするな、とりあえず……走れ』

「わ、わかった、でもどこへ?!」

『お前が決めろ、お前が望む場所はお前にしかわからんだろうが』

次々と黒い手が四方からエリヤに襲いかかる、それを必死に振り払いながら闇雲に走る。

「あんたが、怒らせたんだろ!なんとかしてくれよ!それに、アイツの言う事が本当なら、俺は…」

『また、誰かのせいか?アイツの言う通りだったらなんだ?今のお前が変わるのか?お前が今どうあるかじゃない、これから先どうありたいかだ。それはお前がお前自身の言葉で勝手に紡いでいけ』

エリヤの雑だが真っ直ぐな言葉は塞ぎ込んでいた心を再び揺すり起こす。その言葉は力強く、そしてとても眩しく思えた。

深海の底、一条の光も差込まない漆黒の闇の中を彷徨う心に、軌跡を示す様に真っ直ぐ進むべき道を照らしてくれている、そんな気がした。

「言葉で紡ぐ…俺は、俺の望みは……あんたみたいに…なりたい」

『ぁ?お前俺の事知ら無いだろ?』

「あぁ、確かに知らない。けど俺がエリヤとして手に入れた力……あれはあんたの力なんだろ?そしてあいつの話からすると、あんたは『本物のエリヤ』てやつで俺とは別の存在……」

「俺が弱いせいであんな奴に乗っ取られて、あんたの力をとんでもない事に使ったしまった……」

「だけどあんたはこんな状況でも俺の心を生かそうとしてくれている、そして何よりあんたの言葉には…俺に無い『信念』を感じるんだ」

エリヤは何も成してない…何も守れていない…運命に翻弄され、傀儡にされ…二度も殺され……

だから、だからこそ––––––。

「…弱い自分に胡坐をかくのはもう嫌だ…俺も、大切な人を、こんな俺を想ってくれている人を守り抜き、闘う信念、本当の力を手にする為の信念を持ちたい…そして」

「––––––俺は生きたい」

強く願い心に誓う、生きたい…願わくば…大切な人と…もう一度––––––。

『そうかよ、じゃぁ望むと良い。お前の信じたい事を信じろ。その想いを見失うな、今から何が起きても絶対にその覚悟、掴んで離すなよ』

そう言い残すとエリヤは再びその姿をエリヤの中に消していった。

『お前ェに未来はァない!お前ェの本性を知ればァ誰からも遠ざけられる、お前ェの居場所など何処にもなァい!』

更に勢いを増して苛烈にエリヤを襲う異形。

「もう、逃げない……ここは俺の世界だ…勝手に入って来て好き勝手してんじゃねぇよ」

不意にその足を止め、異形の方へと向き直る。その眼に先程までの恐怖の色は無く、眼前で蠢く異形の姿をしっかりと見据えた眼光には猛々しい怒りを込め己を貶める理不尽に対し真っ正面から向き合う。

強くなったわけでは無い、今は特別な力がある訳では無い。しかしその瞳は未だかつて無いほど力強く、その意思は何よりも強固であった。異形の黒い手が取り囲み全身に纏わりつく。

『なんだァ?お前ェごときに、何ができるゥ?何者でもない、無価値なお前にィ、汚れた手はもう何も救えない、今更ァ開き直っても行いはァ消えない、お前ぇは弱い、お前ェは汚辱にまみれている』

下卑た耳障りな声で異形は近づきその悍ましい黒い手を首筋や腕、胴体に絡ませ締め上げる。

「あぁ、俺は弱いさ…それに自分が誰なのかも分からない、そして許されない罪を犯した…」

「だからなんだ?お前には関係ないだろう?これは俺が向き合うべき問題で必ず生きて乗り越える、許されない罪は贖い続ける」

「俺は俺だ!名前なんてどうでも良い!!俺を俺足らしめる存在が、記憶が、魂が有る限り、もう誰にも、何者にも侵させない!とっとと出て行け、キモいんだよ…お前」

『脆弱な存在がァ!!!調子にィ乗るなぁァ!!』

黒い手は全身を埋め尽くし、意識もろとも黒く塗り潰していく。

その時、不意に感じた…無数に群がる『手』の中にその身体を抱き慈しむような優しい『手』––––。


『傀儡がァ調子に乗りィやがってェ、お前ェには最高の悲劇を見せてやるお前ェの手が次に汚ォれるのはァ愛しのクソ猫の血だァははははは』


意識を取り戻し目を開くとそこには、しゃがみ込んでこちらを見つめる空色の瞳があった。その表情は心配と言うより、観察しているようだ。

改めてその容姿を目の当たりにすると、その美しさに心奪われる。

透き通る程白い素肌に艶のある唇、整った目鼻立ちは美麗と評するに相応しい。

「……起きた?」

「手当てしてくれたのか…ありがとう」

「……ん」

レインが僅かに固まりジッと瞳を覗き込む。その瞳を見つめ返しレインの華奢な両肩に手を起きその柔らかく細い身体を自身の方へと引き寄せ、抱きしめる。

「レイン、君に伝えなきゃならない事があるんだ、俺だよ、俺が祐真なんだ……レインわからないかもしれないけど、信じて欲しい」

その軽はずみな言葉はレインの決して触れてはならない逆鱗に触れた。

「…ふざけるな……おまえみたいな下衆が…ゆうま?––––死ね」

「えっ、ちょっと待って話しを––––––」

レインはおもむろに右手を相手の胸に添える、途端、全方位からの重力場が発生、十字架に貼り付けられた囚人のごとく身動きを封じられる。

「二度と…その口開けなくしてあげる…」『猫技乱舞(びょうぎらんぶ)<虎爪蓮華(こそうれんか)>』

レインによる圧倒的な蹂躙劇、毎秒数十発の虎の爪に見立てた拳の連撃が身体中のありとあらゆる肉を裂き、血飛沫の華が咲き乱れる。そしてレインの重力魔法により逃げる事も、吹き飛ぶ事すら叶わない。

まるで、猫に弄ばれる虫ケラの様に僅か数秒でその身をズタズタにされ、

見るも無残な様相へと変貌。そしてトドメとばかりに両手の付け根を組み合わせ捻りを加えた両掌打ちが身体の中心を穿つ。

『猫技乱舞(びょうぎらんぶ)<獅子咆哮(ししほうこう)>』

その瞬間、重力を反転させ両掌を叩き込むと同時に数百キロ級の重力負荷––––––。

レインの両手を中心に放射状に広がり圧をかける。中心部から周りだけをまるで剥ぎ取る様に…

レインの両手程の肉塊を残してその全身は数百メートル以上後方に吹き飛んだ。

「……あの時のお返し…あんたの目を…ワタシが…忘れるはずないでしょう?……くそ女」


レインが凄惨な蹂躙劇を繰り広げる少し前『ハランの街』を立ちエリヤが居るであろう方角に足を進める祐真一行。

「祐真さんとえりやくんが元は一人の人で、別の世界からですかぁ…少し荒唐無稽すぎて俄かに信じ難いですが、現に祐真さんは同じ顔ですし」

祐真に事のあらましを聞かされたリリスは困惑していた。

「リリスちゃんの言ってる黒い手は、わたしなんと無くわかりますよぉ~わたし達エルフ族は人外の物を感じる力が強いのですが、エリヤさんは何というか兎に角異質でした!こう~いっぱいいると言うか、複数の『何か』が同時に重なっている様な‥‥その中でも特に禍々しく蠢いている様な『何か』を感じたので……ところで、リリスちゃんはエリヤさんの何処が良かったんですかぁ?」

自論を展開し終えるとニマニマとした顔つきでリリスとの距離を一瞬で詰めるエステル。

「ひゃうっ!え、えりやくんはその…私もまだちゃんとは分からないんですけど、とても…寂しい心が見えたんです、そしたらなんか私がこの人を守ってあげなきゃって思って……私も一人で生きてきて、寂しい気持ちを重ねたのかも知れません…会って直ぐでバカだなって、思いますよね?私も信じられないんです、ただ嵐みたいに現れて私の気持ち一気に全部持っていかれちゃった…ていうか…あと、めっちゃタイプで……えへ」

頬を赤らめ思いのほか盛大に惚気るリリスに笑顔のまま若干舌打ちをするエステルを他所に祐真も疑問を投げかける。

「リリスさんは、そんな思いをして……アイツの事が怖くないんですか?」

祐真は僅かに懐疑的な気持ちを抱きながらリリスの表情を見遣る。

「リリスで良いですよ。そうですね…不思議なんですが、全然怖いと思わないんです。もしかしたら過去に過ちを犯してるかもしれない、そうも考えるんですが…これから先えりやくんが向き合っていくなら私も一緒に背負いたいと思えちゃって……えりやくんならそれも出来る気がする。なんだろう、うまく言えないけど…大好きぃ……なのかなぁ」

マイペースにがっつり惚気て甘い空気を醸し出すリリスに対してエステルと共に満面の笑みで舌打ちする祐真。

アルベルトがそんな様子を日の光が注ぐ木陰をゆっくりと歩きながら微笑ましく見守っている。現在『ハラン』から『バベル王国』に向かう途中にある雑木林に差し掛かった所だ、時刻は正午。

そもそも、何故あの後直ぐ出立した祐真達が『ハラン』に到着するのに翌日の昼までかかったかと言うと、大凡このじじバカが原因だったりする。

祐真達のいた地点から『ハラン』まではまともに歩いて4時間程の距離だが、エステルやアルベルトと話していた時はまだ陽が落ちて間もなかった、つまり深夜を廻る前には到着していてもおかしくない。

祐真がゴブリンの為に殆どの力を使い果たし、エステルの元に飛んで行った事でエネルギーが底を尽き同じ移動手段が取れなかった事も原因の一つではあるのだが、夜という事もあって好戦的な魔獣との遭遇率が高かった。

しかし問題はそこでは無い……エステルが全力で魔法剣士として毎回勝負を挑むのだ、こちらとしては拳の方で秒殺願いたいのだが、疲弊し守られている側の祐真が文句を言える筈などなく…アルベルトだけが頼みの綱だったが、有ろう事かこのじじバカはその無駄に高い技術を駆使してエステルが剣で敵を倒した様に見せる為のフォローに陰ながら全力を注いでいた。エステルが、斬った!と、実際には全く当たって無いのだが‥思いこんでいる瞬間に完璧なタイミングで風の刃を飛ばし敵を両断。

「エステルファイヤーブレード」と痛い名前を叫びながら剣が虚空を裂いた瞬間、またもや完璧なタイミングで最上級の炎魔法を使い、大袈裟に雑魚を殲滅。

そして盛大にエステルを褒め称えると言う、絶対的に間違った接し方を繰り返しながら進むので、それはもう遅々としていた。

何度か、もう置いて行こうかな……と心底思ったが、今の状況を解決する為にアルベルトの力を頼ったのだ、本人を置いていっては本末転倒。

やっとの思いで『ハラン』までたどり着いたのだが、このじじバカと孫娘は疲労困憊で町に着くなり脱兎の如く逃走、追いかけてみれば手近な宿の店主を明け方に叩き起こし、その名声を遺憾なく発揮して優雅に宿で爆睡する始末…

ギデオンが本気でアルベルトの寝首を搔こうとしたのは言うまでもない。

ただ、そのおかげか祐真も張り詰めていた緊張の糸が切れ、僅かだがゆっくりと休息が取れたのだが、木々の合間から差す陽光に照らされ、賢者っぽい雰囲気を涼しげな表情で醸し出すアルベルトを見ていると無意識にギデオンを投擲したくなるので視界から完全に追い出す。

そんなこんなで、今は合流したリリスが最後に行使した魔法の感覚を頼りエリヤを追跡していた。

「祐真さん、この道沿いを少し離れた林の奥で魔法の感覚が消失しました……

急ぎましょう、恐らくそこから動いては無いと思います!」

「あぁ、そうしよう!あいつを正気に戻して、その『何か』って奴が何なのか確かめないと」

「そうですねぇ!エリヤさんぶっ飛ばしましょう!」

「エステルさん!えりやくんはぶっ飛ばしちゃダメです、黒いのだけにしてください!お願いします」

「リリスちゃん、言ってることはわかるんだけど多分その黒いのとエリヤさんは……」

エステルの言葉を遮る様に木々の薙ぎ倒されるような音と穏やかなこの場所には似つかわしく無い異常な空気が漂ってくる。

『この気配…並みの使い手では無いな、急げ祐真……エリヤがもし接触していたら危険だ』

「そんな、ヤバそうな奴がいるのか?!皆んな急ごう!」

「そうだね、この気配……おそらく聖霊器の使い手だ、しかも尋常では無い…祐真君、もし戦闘になったらギデオンに主導権を渡すんだ、エステルと遭遇した時無意識にやったようにね、でなければ今の君の技量では酷だが足手纏いになりかねない」

アルベルトはいつになく真剣な面持ちで祐真に包み隠さず本心を告げる、それ程危険な相手がエリヤと対峙しているかもしれないのだ。

祐真は改めて戦力外と告げられる事に無念さを噛み殺し、決意を新たにする。

俺は弱い、改めて感じるがこのセカイで弱さは死と直結する…守られる側に入るか、守るか––––。

前者は勘弁だな、俺はもう二度と失いたく無い。

その為には強くならなきゃな……今は恥を呑み、必ず次に活かす!

「アルベルトさん、わかりました。もし俺自身に何かしらの決着がついて無事だったら、その時は俺に稽古をつけて下さい!」

「祐真君、君は賢い……その決意忘れない事だ、そして必ず生き残ると言う覚悟を持ちなさい」

「はい!ありがとう御座います!」

祐真達は次第に近くなっていく喧騒の元へ急ぐ、途中静かに降り出した雨に妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。


レインは両手大に剥ぎ取ったような肉塊を静かに見下ろしていた。

すると次第にその肉塊はボロボロと風化する様に崩れ、その跡にはまるで黒曜石の様な艶のある美しい、しかし何処か儚さを漂わせた闇色の球体が姿を現す。一見すると世にも美しい漆黒の宝石と見紛う様なその球体は、宵闇の様な心静まる闇色の光を発すると、人間の男性の体躯を形作り、漆黒の髪に切れ長の目をした色白の男性、レインに『エリヤ』と名乗った男性の姿へ変わっていく……その姿形は先ほどレインが吹き飛ばした存在と瓜二つであった。

レインは静かな雨に打たれながら、未だ目を覚まさないエリヤの目の前にしゃがみ込み優しい微笑みを浮かべ––––––ずびしっ

「はうぁっ!」

喉を突いた。

「ちょっと?!寝てる人の喉を『ずびしっ』てやっちゃ行けません!はうぁってなるから!」

「……ん、すぐ起きないから…」

「一応、奇跡的に助かったんだけどなぁ、もう少し愛が欲しいよ?」

「……ワタシの…愛は、ゆうまだけの……あなたは…ゆうま…なの?」

「自分でも、分からないんだ…ただ君と過ごした記憶はあって……」

エリヤは逡巡する『彼』から聞いた話…祐真という人格は二つ存在する…

そして、恐らくレインの思う方はもう一方の––––––。

「俺は一部だよ…祐真の…一部」

「…ん…納得……会いたかった……」

レインは最初にあった時とは比べものにならない程、優しく穏やかな眼差しをエリヤに向け潤んだ空色の双眸が愛しくエリヤにその想いを注ぐように向けられ。

「まだ身体の感覚がないな、なんかフワフワする…助けてもらって何だけど……レインは…どうして俺の存在がわかったんだ?」

「……勘」

「まじ?」

「……まじ」

あわや、レインの一撃で存在ごと消えていたかも知れないと思うと冷や汗が流れる、しかし彼は意識を塗り潰される直前その命をかけてレインを信じたのだ、勝算も打診もない、一か八かの賭けだった。

本物のエリヤが異形と向きあう瞬間伝えてくれた事、あの肉体こそが祐真を閉じ込める肉の檻であったと言う事実、そして異形の目的は肉体を通じて受ける死や、罪悪、絶望により祐真『エリヤ』と言う存在を壊す事。

元々肉体と祐真の霊魂は亜空間に隔離され、じわじわと崩壊させられていた所にギデオンと言うイレギュラーな存在が干渉した事で、一時的にその鎖が綻びこのセカイに新たな肉体を構築し顕現できた。しかし、その肉体を支配されていた俺は意思決定を自分で選んだかの様に誘導され、結果無意識に操られていた。

異形が結果を急ぎ、エステルとのやり取りで大きく感情を爆発させた隙を見て、肉体を離れようとするが、阻まれる…その際エリヤは『––––』とギデオンだけを切り離す事に成功。

やるべき事を『記憶』として植え込み離脱させた。

しかし異形はイレギュラーな事態も逆に利用しようと考え更に揺さぶりを掛け、祐真の魂を破壊しようとするが、再び予想外のイレギュラーが現れる……リリスだ。

彼女の真っ直ぐな感情は祐真の魂を強く揺さぶり、一時的に肉体の意思決定権をエリヤによって阻害され、祐真の魂が覚醒を始める。

『エリヤの真の力』が覚醒する事を恐れた異形は、肉体による死を急がせた。肉体が死しても祐真の魂が滅びるわけではない、目的は死を受け入れさせ、無意識に死を魂自ら望ませる事だ。そうする事で、魂は崩壊する。

しかし、それが裏目に出た……祐真は潜在意識の中で己の罪や弱さと向き合い完全に覚醒する。

異形は業を煮やし遂に強行手段に出た––––。

完全に祐真の魂を閉じ込め、最も影響を与える存在をその手で暗殺し、自ら手を下した様に仕向けようとした。

しかしその計略も目の前の『規格外』な黒猫少女により完璧に潰えた。

まさか、いきなり何の躊躇もなくあれ程まで蹂躙されるとは夢にも思わなかっただろう。

これはエリヤの狙いでもあった、必ずレインならば異形の目論見を打ち破り、肉体を破壊してくれる。異形が焦り、祐真の魂を隔離した今だからこその賭け、そしてそこに必ず勝機が垣間見えると。

ただ祐真の魂の核だけを正確にくり抜きそれ以外の肉体を完膚無きまでに、打ちのめすレインの所業には、最早脱帽するしかない。

エリヤはまるでレインの事を知り尽くしているパートナーの様に信頼していた、その信頼が無ければ成し得ない結果であったと言える。

「……ゆうまの匂いが、一ヶ所に集まってた……間違えようがない」

「そうか、レインは凄いな…救われるのはこれで『3回目』か、そろそろ借りを返し切れなくなるな」

「くっ––––––」

「……ゆうま?」

「すまない、この身体はマナが実態化したような物らしい…この姿になる時に……使い果たしてしまったみたいだ……せっかく助けてもらったのにな…レイン、あの時は‥守れなくて…すまなかった」

形成された身体が徐々に薄く半透明になり、原型を留められなくなったマナが黒い粒子となって空気中に四散して行く。

降りしきる雨が幻想的な光景を生み出し2人を優しく包み込む。

「まるで、あの日みたいだ…こんな雨の日に俺は君と出会った…あの時と立場は逆だけどな」

「なんで、ワタシの事……わかったの?」

「勘だ」

「……まじ?」

「まじだ」

「フフ、俺がレインの瞳を見間違えるはずないだろ?」

通じ合った様に見つめ合い、心の底から微笑み合う二人。

「……死ぬ?」

台詞とは裏腹にその表情はどこか懐かしむようで楽しげな雰囲気。

「はは、そうなりそうだ…俺は‥選択を…間違えたらしい…どうしてこうなったんだろうな?」

なんともない様に少し戯けた表情で応える。

俺があの時、もっと心を強く持っていれば、絶望に浸らない信念があれば、何か変わったのかもしれない。この光景、夢で見たな…あれはレインの見せてくれた力だったのかな……

意識が遠くなってきた……最後にこれだけは、伝えないと。

「レイン…もうすぐ…ここに本当の『祐真』が来るはずだ…良かったな?やっと会えるぞ?」

レインは優しく頭を撫でた、柔らかく暖かい手。

「まだ、死んじゃダメ…よし…よし」

レインはとても穏やかな表情で空色の瞳を覗かせる。

「……あなたも、ゆうま……ゆうまの一部……ワタシには……どっちも必要」

「レイン…」

その言葉に表情は崩れ大粒の光る雫が瞳から溢れ出る。

レインが天使の様な笑みを浮かべ、その手をもう半分以上消えかかっていた胸の上に置く

すると、レインの身体に陽光色の光が灯りその手を通して『命』が流れ込んでいく。

「レイン?なにを……」

「ワタシをあげる、あなたは生きて……」

「ダメだ、それじゃ、意味がない!やめろレイン!やめてくれ!俺は、もうおまえのいないセカイなんて生きたくない!!」

「ふふ……ワタシは、ゆうまの一部と一緒になれるなら…幸せ……」

レインはその命を犠牲に自身の力を注ぎ続ける。

「レイン、ダメだ……くそ、アイツは何やってんだ!!早く来い!祐真!おまえは俺なんだろ!!早く来いよ!祐真ぁああああ!!」

その時、あたり一面を黒い靄が包み込んだ。

『おま、お前ェらは、コロス、殺す、コロぉおす!!ゴミ猫ガァああァまた私をぉお!!クそねごぉオおおお』

元エリヤの肉体から無数の禍々しい黒い手を生やした異形がレイン目掛け迫る。その身体は至る所から巨大な火脹れの様にボコボコと黒い膜が膨れ上がり元エリヤの肉体を中心に黒い球体を形成しようとしている、黒く肥大した膜には夥しい数の目が開き、膨れ上がった元エリヤの背中から、あの女が悍ましい形相で生えている。

その目は真っ黒に染まり皮膚は裂け所々から黒い体液を流していた。

最早人であった原形など残していないその異形は悍ましい様相でレイン達に襲い掛かる。

「こんな時に!一番お呼びでない奴が来やがった!!レイン、逃げろ!頼むから、逃げてくれ」

レインのおかげで半分戻った手を使い必死にレインの腕を掴む、レインは肩で息をしながら、動じずに自身の命を注ぎ続ける。

「……ワタシは、もう引かない…二度と同じ思いは……しない––––」

その眼光は鋭く、そして力強く目前に迫った異形を射殺す様に睨みつけていた。

異形の放った無数の手がレインの頭を掴もうとした刹那。

「レインちゃんに、そのキモイ手で触ったら……ぶち殺しますよ?」

レインに迫っていた黒い手がその勢いのまま途中で引き裂かれレインの頭上を舞い後方に落ちる。淡い桜色の長い髪を優雅になびかせ、レインをかばう様に異形の前へ立ちはだかる美少女が一人、その碧眼は恐れるどころか、異形をゴミ屑を見る様な無機質な瞳で睥睨している。

エステルは右手を高く天空に掲げると瞬時に100を優に超えるであろう魔法陣を展開、そして出現したのは怨敵を焼き尽くさんと猛々しく燃え盛る拳大の炎。

「燃やし尽くせ、炎帝の怒り<炎々煉獄葬(れんごくそう)>」

エステルの固有技。初級魔法である『炎撃(フレイムショット)』を縦横無尽に操り、止む事の無い炎の嵐が敵を炭と化すまで襲い続ける。

原理は単純だが、だからと言って常人に真似できる代物ではない。並外れた魔法のセンスと底知れないマナの量を有するエステルだからこそ行使できる技と言える。

数百を超える『炎撃(フレイムショット)』の嵐が吹き荒れ、異形を焼き尽くす。

エステルもまたこのセカイに置いて、その力量は間違いなく規格外。


「レインちゃん、死んだら許さないからね?」

エステルが振り向きざまにレインの方へニコッと笑いかける。

若干レインにブルリと悪寒が走った様な気がしなくもない……

「…ん……ありがと、エステル」

「レイン!!」

レインを呼ぶ男性の声、振り向くとそこにはエリヤの色彩を反転さた様な真っ白な青年が、憂いを帯びた表情で立ち尽くしていた。

レインは無垢な笑顔を浮かべ、姿形は変わっても疑う余地などない、その匂いが、瞳が、表情が、言外に彼だと語っている。そして優しく声をかけた。

「…ん……ゆうま……おかえり」

「あぁ、ただいま……レイン、遅くなって、すまない」

二人は見つめ合いお互いの存在を噛み締め、実感し合う。

そして、彼もまた、そんな様子を少し遠い目でしかし暖かく眺めるのだった「来るの、おせぇよ」。

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