19 睡蓮

 睡蓮

 

 ……誰か、冷たい川に落ちたみたいね。


「私の名前は『睡蓮』(すいれん)といいます。名字はありません。ただの睡蓮です。ですから私のことは敬称をつけずに睡蓮と呼んでもらって構いません」と睡蓮さんが言った。……睡蓮さん。(睡蓮さんは、白くて、澄んでいて、冷たくて、儚くて、……本当にその名前の通り、花のように美しい人だった)敬称はいらないと言われたけれど、小唄は睡蓮さんと、さんをつけて、その名前を頭の中で一度、繰り返して呼んだ。

「あなたの名前を私に教えてくれますか?」と睡蓮さんは言った。


「僕の名前は……」とそこまで口にして、小唄はそこで動きを止めてしまった。なぜなら自分の『名字』を思い出すことができなかったからだ。小唄、という名前は覚えている。自分の名前だ。でも『自分の名字をどうしても思い出すことができなかった』。

 ……名字がない? 小唄は焦ってすぐに自分の名字を探した。でも小唄の頭の中のどこを探しても、自分の名字を見つけることはできなかった。小唄の頭の中から小唄の名字は消えていた。小唄は自分が自分の名字をなくしてしまったことに、今初めて気がついた。小唄は『自分の名字を大切にしてこなかった』。だからどこかに自分の名字を落っことしても、それに気がつかないままで、今まで行動してきたに違いなかったのだ。小唄は自分が名字を失ったことで少なからず狼狽した。そして小唄は救いを求めるような目をして、目の前にいる睡蓮さんを見た。睡蓮さんはそれでなにかを察したのか、にっこりと笑い、「いいの。名前なんてあっても、なくっても、どっちでもいいのよ」と小唄に言った。

 小唄はその言葉と睡蓮さんの笑顔を見て、自分の気持ちを落ち着かせることができた。そうだ。睡蓮さんの言う通りだと思った。名字なんて、あってもなくても同じなんだ。

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