嫌がらせを受けて、人間の善性とは何なのか、考えてみた
和泉茉樹
第1話 実に奇妙な表現
職場で嫌がらせを受けました。
管理する立場の人に相談し、何度かその管理者と僕の間で話し合いが持たれましたが、これが全く解せない。
いくつかの象徴的な言葉がありますが、まずは次の言葉。
「社会にはいじめや嫌がらせがあるじゃないですか」
「社会からいじめは無くせないでしょう?」
この発言の意図は分かりそうなものですが、重大な陥穽がある。
たしかに世の中には無数にいじめや嫌がらせが存在する。それは動かしがたい事実ではある、非常に悲しいことですが。
ただし、僕が問題にしているのは、社会という巨大なくくりの中にあるいじめではない。
今、あなたの前にいる、僕が、実際に直面した、嫌がらせを問題にしている。
社会がどうこうというのは、明らかに論点を外し、焦点を変えている。
そもそもこの「社会には」の理論の根本は、はっきり言って責任放棄、思考停止としか思えない。
もし社会に殺人や窃盗が満ち満ちたら、あなたは殺人や窃盗を行うのか?
その質問が浮かぶ。
推測するに、「殺人や窃盗は犯罪ですからやりません」と返答されると思われる。
犯罪、つまり法律で禁止されている、という主張と捉えると、これもまた大きな錯覚がある。
法律と社会、この二つに対する姿勢が、非常にきな臭い。
もし法律が全てなくなったら、どうするのだろう?
つまり「社会は」と「法律が」の二つは、巨大である、動かしがたいほど強力である、という側面で捉えて、彼らはそれを自分の後ろ盾、裏付けとしている。
こういうことを想像してみるとよく分かると思う。
あなたは車を運転していて、電話がかかってくる。相手は母で、父親が交通事故に遭って瀕死の重傷で病院にいる、と告げられる。
その病院まで、今の速度で走ったら、一時間はかかる。もちろん法定速度ぴったりで走っている。
あなたはどうする?父親の死が迫っていても、法定速度を守るだろうか?
本音は別として、公的な場では、まさか法律を無視する、時速100キロでも出して病院に向かう、とは、「法律が」と主張する人は言わないだろう。
では、そんな人たちに新しい設定を用意する。
あなたのいる世界には何の法律もない、という設定だ。もちろん、警察も監視装置もない。何もかもが許される世界。
そうなるとどうだろう。法定速度がないけれど、「法律が」の理屈を口にする人は、どの程度のスピードを出すのか。
言葉で言うのは簡単だ。事故が起こらない程度に急ぐ、という具合になる。
こうなると「法律」と呼ばれるものが、実際には「法律」ではないと感じ取れる。
法律は様々なことを規定するが、そもそも法律を守るのは人間の「善性」に過ぎない。
そう考えると、変なすれ違いも見える。
「法律が」と言っている人たちは、法律が守られるのが当然と考えているし、自分も守る、という姿勢でありながら、法律で定義されていない事態になると、途端に「善性」さえも曖昧になる。
僕が直面した嫌がらせは、もちろん物理的な暴力ではなく、精神的な負担であるから、法律には詳しくないが、暴行罪などは適用されない。脅迫罪にもならないだろう。
「法律が」と口にする人は、嫌がらせという「悪意」を、まるで裁けないようである。なるほど、法律が定義している悪の範疇ではないため、裁けないのだろうが、彼らに善悪の感覚、倫理などは存在しないのだろうか。
「社会に」と口にする人は、社会の中に悪意が渦巻いている、とこちらに暗に示していて、実際の目の前の僕に焦点を合わせようとしないが、それ以前に、「社会に」で括られる範囲が不明なものの、計り知れない人間集団が悪意のままに、動き始めることは考えないのか。ここにも責任放棄と思考停止がある。
「社会に」の中にあるものは全て無条件に受け取らなければいけないのか?
「常識」とか「世間では」といった表現にもこれと同じ要素がある。
もちろん、守るべきものは多くある。ただし、もしものすごい過激な理論が集団を席巻し、その流れが止められなくなれば、どうなる?
本当にこの話題はデリケートだけれど、第二次大戦前夜のドイツが真っ先に思い浮かぶ。
しかし、「社会には」という主張には、それとは少し違う側面がある。徹底的な思考停止、とでも呼ぶべき側面である。集団の流れに迎合し、それが自分に好ましいとも悪しいとも感じないほどの、極端な思考停止である。諦め、とも呼べる。
そうなると「社会には」と僕に言っている人の意見に、一つの意図が見える。
お前も何も考えるな。
お前も何も感じるな。
そういう主張ではないだろうか。
実際のところとして、嫌がらせに関して話をしていると、その加害者を正そうという行動どころか、その意思さえも見えない。ひたすら僕にさまざまな言葉、「社会には」といった大きなものをチラつかせた言葉を向けて、僕の方が変われば問題が解決する、という意図が見え隠れする。
これもまた奇妙な展開ではある。僕が辞めたり、黙り込んだら、何もかもが無くなる、と考えているとは思えないが、実際には僕にだけ働きかけ、加害者ではなく、僕こそが和を乱している、不穏である、という態度ではある。
僕に向けられる言葉で、象徴的な言葉のもう一つが次の言葉。
「彼ら(加害者)は変われないから、変われるあなたが変わりなさい」
その時は何かに納得した僕だが、これもまたきな臭い。
この発言をした人は、いったいどんな感覚の持ち主なのか、考えると不安になるのは僕だけだろうか?
この発言をした人は、変わらない人間なのか、変われる人間なのか。
答えははっきりしないが、ただ話をしていく中で分かることもある。
変われるあなたが変わりなさい、という言葉の裏にあるのは、職場、その環境は、変わらない、ということなのだろう。
職場に善性があるなら、嫌がらせを放っておくわけがない。加害者が変われない、ということを明確にした発言は、つまり、加害者を変える気がない、ということの裏返しではないだろうか。
変われるあなた、と認定された僕の立場で考えても、よくわからない事態になる。
社会や世間や常識というものを今までの人生でよく見てきたつもりである。色々な場面があり、色々な出来事があり、色々な言葉を聞き、十分な経験を年相応に積んだつもりではある。
そんなあれこれから、僕の中には僕の考える社会像や、常識、一般と呼ばれる範囲が、形成されていると思っている。
これはほとんどの人がそうであるはずだ。個人差はあっても、小さい範囲なら家族などから、とにかく人間は全てにおいてバランスを取るし、そもそも人間は集団生活をするから、必ずその集団の中での利、不利や、益、不益を考えざるを得ないだろう。
その中で構築される最たるものが価値観だろう。
常識と呼ばれるものも、個人の中で組み立てられる中で、実際の他人とのやりとりや関係、集団の様子などで洗練され、磨かれていくものと考える。
さて、あなたは自分の中にある価値観や常識を、簡単に変えられるだろうか?
それも、周囲にある悪意を受け入れる、許容するような自身の変更、改変が、即座に可能だろうか。
少なくとも僕には不可能だし、この変化を受け入れてしまうと、どうなってしまうのか、不安しかない。
重大に捉えれば、職場という組織が悪意を容認し始めたら、僕の中では職場に対する不信感が爆発的に増すし、それは職場を代表している管理者が「社会には」などと巨大なものを口にすることと相まって、その巨大な何か、社会とか世間とか呼ばれている、輪郭が曖昧な大きなものに対する不信感が制御不能になりそうである。
どういうわけか、管理者の立場になると、個人の善性では動けないようである。職場の善性(善かは不明だが)に従う、というようだが、しかし僕が見る限り、職場の善性は明らかに硬直が進んでいて、誰がそれに影響を及ぼせるかは不明だし、おそらくそれを変えるべきでは、と主張すると、先に書いた通り「社会には」という主張が返ってくるだろう。もはや、職場としても思考停止が常態化していて、そこでは価値観さえもガチガチに固定されているらしい。
いったい、社会は何なのか、を議論するしかないが、もちろん、思考停止しているので、議論にはならないだろう。
「社会」は、都合のいい言葉になっている。誰も「社会」の全体像を詳細には把握できていない。ただ「社会」という表現を使えば、それは疑う余地がなく、揺らぐこともなく、絶対多数が支持している、という印象を作れる、ということだろう。
先に書いた「社会にはいじめがある」という表現がまさにそれで、その発言をした人は、社会全体を知っているわけではない。新聞かテレビかネット上の情報を総合的に加味して、社会にはいじめがある、と主張しているだけで、よく考えれば背景は骨組みしかない。
これは暴論になるが、様々なメディアでいじめの有無が報道されるが、あり得ないことだが、実はメディアが報道するいじめ以外にいじめがどこにもない、という事態の可能性を想定したら、社会という言葉が示す対象、その像、輪郭はどう解釈できるだろう?
つまり、現代人の口にする社会は、何十年も前の社会という言葉の示すものよりはるかに巨大になったために強い説得力を、虚ろながら持つ代わりに、あまりに大きすぎて輪郭が消滅したと言える。
先に書いた、報道されるいじめ以外にいじめがない、というシチュエーションを補足する。
仮定として、一つの村の一つの学校の一つのクラスでいじめがあったとする。その村という社会では、いじめがある、という認識が精確だし、正しいと言える。
では、その村のある県に範囲を広げてみよう。すると、県にある無数の学校の中で、始めに設定した村の学校以外にいじめがない、となる。
ここで報道があり、県中に、いじめがあった、と報道されると、では、県民はどう考えるのか。社会にいじめがある、と認識するかはこれでは微妙だが、一部の人は「県」と「社会」を結びつけかねない。
この仮定をもっと広げていくと、現実に近くなる。全国ニュースで、いじめに関する報道が流れ、○○県ではいじめの報告が○○○件ある、などと報道されると、実態が精確にわからないまま、「社会」にはいじめが「溢れている」という解釈が成立してくる。
常識や一般、みたいなものが、こうなると疑わしい。範囲が無制限で、実際を無視した強制力が成立しないだろうか。
僕と話し合っている管理者はとかく、視点をマクロにしたり、ミクロにしたりして、あの手この手でこちらの主張をぼやかして、はぐらかしてくる。
同時に自身の立場も曖昧だと言わざるを得ない。「社会には」と言うが、その管理者が社会の全てを知っているわけもない。職場の管理者だが、職場の環境を整える気もないようである。ほぼ確実に「職場」と「社会」をイコールで繋いでいて、「社会」という後ろ盾、破壊不可能な構造を頼っている。
不自然な点は無数にあるわけだが、一番は「社会」という点だろう。
僕も「社会」の一部に属している、極めて極めて、本当に極めて小さい存在だが、「社会」の一員であるはずだ。
しかし、彼らからすると、僕は「社会」に含まれない存在らしい。
極めて不本意だが、こうなっては、人間社会に善性が存在するのを、疑わざるを得ない。
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