第07話 私の名は希望(ナディア)

 すべてが乱れている。

 そして、すべてが歪んでいる。

 ある意味では、秩序に基づいた乱れではあるのかも知れないが。

 量子ビットの素子が荒れ狂う真っ白な海の中に、アサキの身体は浮いている。

 そのビット列を読み解けばなにかしら意味はあるのだろうが、読み解く意味がない。アサキは現在、サーバーの管理者マスターそのものと向き合っているのだから。

 濃密な、荒れ狂う雲の中で。


 向き合っているといっても、その姿は見えていない。

 見えてはいないが、間違いなくそれはここにいる。

 受け取る側であるこちらの感覚や解釈の問題であるが、ただ間違いないのはここに強烈な意思があるということ。

 別にそれを証明しようというわけではないのだろうが、意思は突然に語り掛けてきた。


「ようこそ、神の塔へ。わたしは待っていた」


 一言一句、「日本語」としてはっきり言語化された声が、アサキの心の聴覚を刺激した。

 これは、個人の感覚とか勝手な解釈などではない。アサキは間違いなく、意思と繋がっており、その言葉を聞いたのだ。

 圧倒的であった。

 姿が見えないのに、あまりの存在感に爆発しそうなほどに膨れ上がっている。

 大気などないのに、それでも摩擦で発火しそうなほど激しくうごめき流れている。

 圧倒的であるのも当然だ。

 気の遠くなるほどの昔に作られた人工惑星の制御AI、つまりこの惑星そのものの意識の中心にアサキはいるのだから。


 神の塔、と意思はいっていたが、物理的には高みではなく低みである。人工惑星の最中心部、核部分まで降りたところなのだから。

 反応素子の白い雲が濃密にまとわりつく、ほとんど精神世界といって過言でない、そんな空間である。

 そこでアサキは、視認こそ出来ないが確実に存在する濃密な意思に包まれ、視認出来ないながら対峙しているのである。


 風が猛々しく荒れ狂っている。

 反応素子エーテルが激しく揺れ、うねり、流れ、アサキの肌を叩く。

 ばさばさと、赤毛がなびいている。


「まずは、疑問があれば受けようか」


 意思。

 今度は、どこの言語でもない単なる思念。

 意味合いだけが、脳に染み入ってきた。


「わたしが知りたいのは、理由」


 アサキは口を開く。

 荒れ狂う反応素子の風に全身を揉まれながら、でも平然と。

 なんの理由であるかは問われなかった。問うまでもなくすべて分かっているのだろう。ここは自分の内部なのだから。

 アサキにしても別に口頭発声せずとも思うだけでよいのだが、そうしないのは自分は人間だというこだわりのためである。

 知りたいのは、殺し合いの理由だ。

 どうして、あれほどに過酷で残酷な仮想世界などを作る必要があったのか。

 この現実世界でも、どうしてあのような殺し合いをさせたのか。

 自然発生ならばともかく、わざわざさせたのは何故か。

 それを、尋ねたのである。

 つまりは、アサキには分かっていたのだ。

 仮想世界の中で起きた悲劇も、この現実世界において奇跡を生み出すために作られた悲劇も、この人工惑星のAIにより仕組まれたものであることを。

 薄々と感付いていた、といった方が正しいだろうか。


「西暦3823年、地球人類の歴史においてなにが起きたか。既に知っているだろう」


 意思は、静かに問う。

 アサキは小さく頷いた。

 ドイツ人女性、グラティア・ヴァーグナー博士が超量子コンピュータを開発した年である。

 アサキの感覚としては、遥か未来のことに感じる。

 しかし実際は、アサキが誕生する二千億年近く昔のこと。

 不思議ではあるが、これが現実である。

 とにかく、その遥か昔である3823年に、革命的な開発がされた。そして、さらに数年後、同じくグラティア・ヴァーグナー博士によって、宇宙に漂う物質エーテルを物理層に使う超次元量子コンピュータが誕生。

 コンピュータ工学や、関連する物理学が大きく向上することになったのである。


「わたしは、希望ナデイア。博士より、そう呼ばれていた。博士が、かの技術を使って生み出した、最初の知能である」


 意思、ナディアは語り始めた。

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