第02話 ちょっと無理して女の子へ微笑む

 ごすり


 ごすり


 聞き覚えのある、不快な音。

 湿って腐り掛けた巨木を、吊るしてすり合わせるかのような。


 アサキの脳内に、しっかりこびりついている、忘れたくとも忘れられない、誰もが生理的嫌悪感を催すであろうおぞましい音。


 角を曲がったところで、その記憶に間違いのないことを確信した。


「やっぱり……」


 住宅街の狭い道路を塞ぐように、一体の、全身ぬめぬめとした真っ白な巨人が立っている。


 ヴァイスタである。


 外見特徴の一つである、にょろにょろとした長い腕を、ムチのように振るって、空間を、異空と現界の境を、殴りつけている。


 脳に直接響く不快な音は、それによるものだ。


 ということは、現在その向こうにいるのは……

 アサキは目をしっかりと凝らした。


 ヴァイスタが執拗に殴っているのは、空間である。

 魔力の目を凝らすことで、アサキたちにもはっきり見ることが出来るが、透明ビニールを何枚も何枚も重ねたような感じである。

 透明だけども、重なり合いのために濁っていて、その向こう側にあるものが、見えそうで見えない。


 だけど、さらに目を凝らすと、なんとなく分かる、ぼんやりと見える。

 小学高学年くらいであろう、水色のランドセルを背負った女の子の姿が。


 ヴァイスタの姿など見えていないはずだが、なにかしらの気配、不安を感じているのだろう。

 女の子は足を止めては、しきりに、きょろきょろと見回している。


 このビニールのような膜の、単なる反対側ということではなく、同じ座標だけれども違う空間、つまり現界(異空にとっての異空)に、その女の子はいるのだ。


 このヴァイスタは、異相空間の境層を何度も殴り付けることで、脆い箇所を探り、破ろうとしているのだ。


 アサキの脳裏に、数ヶ月前に経験した嫌な記憶が蘇る。

 なんの力もない、ただの少女として、この異空に連れ込まれた時のことを。


 あきらはるが助けてくれなかったら、自分は現在ここにいない。


 この女の子を、あんな怖い目に遭わせるわけにはいかない。


 ぎゅっ、とアサキは力強く、両方の拳を握った。

 その隣で、


「群れからはぐれた一匹っぽいな。んじゃ、あいつから倒すかあ」


 場慣れしているためか、少しのんびりムードのカズミ。

 先ほどあんなに、数が多過ぎるだろうと文句をいっていたのに。

 だが……


 ごば


 音。

 硬く巨大なゼリーの中へと手を突っ込ませた、といえば近いだろうか。


 それは、破られた音であった。

 異空と現界の境が。


 薄いところが破られて、穴が空き、その中にヴァイスタの太く長い腕が吸い込まれていた。


「やべ!」


 舌打ちしながら、両手のナイフを素早く構え、走り出そうとするカズミ、


 の、脇をアサキが駆け抜けていた。

 おおおお、と雄叫びを上げながら。

 ヴァイスタへと向かい、走りながら剣を抜いた。


 にちにちと粘液質な音を立てながら、ヴァイスタが現界との境へと突っ込んでいた腕を引き抜くと、


 どさり、


 ランドセルを背負った女の子が、色調の反転した白いアスファルトへと落ちて、くっと呻いた。


 顔を上げ、目の前にいる真っ白な巨人の姿を認識した女の子は、張り裂けんばかりに口を開き、街中に届かんばかりの凄まじい悲鳴を上げた。

 だが、悲鳴半分で、女の子は喉が詰まったかのように苦しみ悶え始めた。


 首に、ヴァイスタの腕が巻きついていたのである。


 ぬるぬるしているとはいえ、触手のような長い腕をくるり一周させて、がっちり固定させた状態で締め上げているのだ。

 ただの人間、しかも小さな女の子が、どうしてたまろうか。


 このまま一瞬にして首の骨を砕くことも可能なのであろうが、しかしヴァイスタは、少しずつ力を込めて行く。

 完全に絶望させてから食らうために、ということなのだろう。

 それがヴァイスタなのである。

 だが、


 そうはさせない!


 と、アサキは、ヴァイスタの背中へと自らを突っ込ませた。


「その手を離せええええええ!」


 雄叫び張り上げながら、体当たり。

 突っ込む勢いをまったく殺すことなく、自分の肩をヴァイスタの背というか腰の辺りへとぶつけた。


 だが、ヴァイスタの巨大な身体は、ぴくりとも揺らぐことなく、ぼよん、とした弾力に、アサキの勢いは、ただはね返されただけだった。


 踏ん張り、右手の剣を背中へと叩き付ける。

 焦るあまり、魔力を込めるのがおろそかになってしまい、これもまた弾かれるだけだった。


 振り向くこともせずにただ女の子の首を締め続けるヴァイスタであるが、しかし、認識はしているのだろう。

 アサキのことを。

 鬱陶しい存在であると。

 直後、ヴァイスタの空いている方の腕が、音もなくアサキを襲ったのである。


「ぐ」


 アサキの呻き声。

 顔を、苦痛に歪めた。


 左の二の腕、ちょうど防具のない部分の皮膚が、ざっくりえぐられており、どろりと血が垂れた。


 ヴァイスタの、腕の先端にある無数の牙に、腕の肉を食いちぎられたのである。


 腕を一本、持っていかれてもおかしくなかった。

 無意識に避けはしたものの、完全にはかわし切れなかったのだ。


 また、二本の触手が、大蛇となりアサキを襲う。


 剣を両手に持ったアサキは、下から跳ね上げた。

 そのままヴァイスタの脇を駆け抜けて、女の子の首を締めている太く真っ白な腕に、


「やあああ!」


 大きな声で叫びながら、剣を振り下ろした。

 早く助けないと、という焦りのため、またも魔力を込め切ることが出来ず、両断することは出来なかった。

 だが、締めつける力が緩んで、その隙に女の子の腕を掴んで引っ張り出すことが出来た。


 女の子は、青ざめた顔のまま、げほごほとむせている。


「もう、大丈夫だからね」


 アサキは女の子に、柔らかな笑顔を見せた。

 本当は怖いけど、ちょっと無理をして。

 腕の怪我、泣きたいほど痛いけど、ちょっと無理をして。


「アサキチ、やるじゃねえか!」


 狭い道路、ヴァイスタを挟んだ反対側で、カズミがガッツポーズを取った。

 弟子の成長が嬉しい、とそんな顔である。

 本人に聞いても、そうとは認めないだろうが。


「アサキちゃん! そいつとはうちらが戦うけえ、女の子を現界へ戻してあげてくれる? 記憶の消し方は、分かる?」


 治奈の叫び声に、アサキは頷いた。


「前に、教えて貰ったから!」

「怪我、治してからきてな」

「分かった! ……それじゃ、行くよ」


 アサキは右手で、女の子の左手をしっかり握りながら、左腕を立ててカーテンを開くように横へ動かした。


 一歩前へと足を出すと、そこにはよく知った住宅街があった。


 歪んでおらず、色も普段通り。

 青い空に、

 輝く太陽、

 爽やかな風。


 現界である。


 アサキは、太陽の眩しさに目を細めた。


「あれ?」


 女の子が怯えと疑念の混じった表情で、きょろきょろ周囲を見回している。


 そうもなるだろう。

 ほんの数十秒前には、万物おぞましく歪んだ瘴気漂う世界で、顔のない巨人に首を潰されかけていたのだから。


 アサキも、素早く首を動かして周囲を確認した。

 魔道着姿のままなので、誰かに見られることのないように。


 誰もいないことを確認すると、アサキは女の子に微笑み掛けながら頭の上に軽く手を乗せた。


 その笑みは、少し寂しげだった。


「ごめんね」


 アサキは謝った。

 これから、この女の子の記憶を消すことに対して。


 ヴァイスタに引き込まれ襲われた、この数分間の記憶を消すだけ。

 でも、ほんの僅かのこととはいえ、記憶を消すことに変わりはない。


 記憶というのは、本当は誰かにどうこうすることなど出来やしない、してはいけない、その人間を作り上げる大切なものだと思っている。

 だからアサキは、この子を救うためとはいえ、ちょっと寂しい複雑な気持ちになっていたのだ。

 必要悪と割り切るしかないのだろうが。


 あれ……

 わたしも小さな頃にヴァイスタに襲われて、魔法使いのお姉さんに助けられたことがあるけど、どうして記憶を消されなかったんだろう。


 それだけじゃない、

 わたしは、どうして記憶を消すことに対して、ここまでの嫌悪感があるんだろうな。


 こんな恐怖なら、忘れた方がいいに決まっているのに。

 どうして……

 まあ、いいか、そんな話は。

 いまは戦いの最中なんだ。

 ヴァイスタを倒さなくちゃあ、この子の記憶どころか世界そのものが消えてしまうのだから。


「ごめん」


 もう一度、囁くようにいうと、


「フェアギス」


 呪文を唱えた。

 その効果で、女の子が、とろーんとした表情になった。


「怖い思いさせちゃってごめんね。もう誰もあんな目に遭わないで済む世界、いつか絶対に作るから」


 そういうと、リストフォンをはめた左腕を立てて、瘴気溢れる異空へと再び入り込んだ。

 青い空から、一瞬にしてくすんだオレンジ色の空へ。


 真っ白い色をしたアスファルトの上に、アサキは立った。


 歪んだ住宅街には、誰の姿もない。

 治奈たちがいたはずであるが、きっとヴァイスタを倒して昇天させ、先へと進んだのだろう。


 リストフォンを見て、みんなの位置を確認すると、予想通り、みな先に進んでいる。

 浅野谷九号公園の付近で、ヴァイスタと交戦中のようだ。


「急がなくちゃ」


 ぼそり口を開くと、誰もいない捻じれ歪んだ住宅街の中を走り出した。

 肉を噛みちぎられた左腕の、ずきずきとする痛みを堪えながら。

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