第12話 怪談、といえばトイレです
「……周囲を見回しましたが、もうその女の人の姿はどこにもありませんでした。女性の正体はなんだったのか、現在となっては分かりません。ただ、一つ分かっていることは、もしもあの時、誰かの声がわたしを呼ばなかったら、わたしは多分いまここにはいなかっただろうということです」
「これで、わたくしのお話は終わりです」
畳に手をつくと、深く頭を下げた。と、その瞬間、
ヒイイイイイイイイ、
「こ、怖かったあ! 正香ちゃんの怪談、めちゃくちゃ怖かったよおお!」
誰から逃げようとしているのか、涙目で床を張うが、すっかり腰を抜かしてしまって、いたずらに手足をばたばた動かすばかり。
「ほんっとビビリだなあアサキは。あたしの話はもっと怖いから、心臓止まんないよう気をつけろよお」
わははは、と
「つうかよ、いまのは怖いというよりは不思議系な話だろうが。なあ、正香。たださあ、話は綺麗にまとまっていたけれど、あのオチの部分はちょっとさあ……」
と笑いながら正香の顔を見た瞬間、カズミは、びくんっと痙攣したように肩を震わせた。
その笑みも、カチコチに凍りついていた。
正香の顔にパーツがなく、鼻のところに小さな突起があるだけののっぺらぼうだったのである。
「うぎゃああああっ!」
カズミはけたたましい絶叫をすると、お腹ずりずり妙に低い四つん這いになって、手足を物凄い速度で回転させて部屋から逃げ出そうとする。
ドアを這い上り、すがるように両手でノブを掴んだところで、涙目の青ざめた顔のまま、恐る恐るそーっと後ろを振り向いた。
「カズミさん、そんな慌ててどうかなさったのですか?」
座布団に正座したまま、正香がにっこり微笑んでいる。
目も口もある、いつも通りの正香が。
よく見ると彼女のその手には、肌色の、ゴム製かなにかグニャグニャとしたお面のような物が。
「悪戯グッズかあああああああ」
安堵と恥ずかしさの混じった長い長い息を吐くと、カズミは脱力、その場に崩れて横たわった。
「カズにゃんもさあ、アサにゃんのことビビリとかいえないんじゃないのお?」
成葉がからかうと、カズミは瞬時にムッとした表情になり、飛び跳ねて立ち上がった。
「違うっ、トイレに行こうとしただけだ!」
だんっ、と片足前に出して拳をぎゅっと握って、必死に強がった。
「ト、トイレ? 行くの? わたしも行くっ!」
アサキは、抜けた腰がいつ直ったのか、勢いよく立ち上がった。
「次のカズミちゃんの番が終わったら、もう寝る時間だしい、すっごい怖い話だとか脅かすからあ、じゃあ先に行っとこうかなと思ってえ。ではちょっと行ってきまあす」
そういいながらアサキはドアを開け、カズミの手を引いて廊下へと出た。
「お化けを連れ帰ってこんようになー」
「ぎゃーー! そういうこというのやめてよ
バタン。ノブを思い切り引っ張り、勢いよくドアを閉めた。
アサキとカズミの二人は、静まり返った薄暗い廊下を歩き出す。
「トイレ一人じゃ怖いってかあ?」
カズミが意地悪そうな笑みを浮かべる。
「そりゃそうでしょう。夜のホテルとか病院とか学校の、トイレって、そういうもんでしょお。ましてや怪談大会の最中なんだからさあ。さ、ビビリ二人で急ごう急ごう」
「あたしはビビリじゃねえって! 一緒にすんな!」
「はいはい。ちょっと正香ちゃんの悪戯にビックリしただけですよねえ」
「腹立つなあ。お前一人で行けよ! ……ま、誰かにすがってでも済ませとかないと、またこないだみたくオシッコ漏ら……」
「なんかいった?」
ぎょろん、と凄まじい目つきでカズミへと顔を向けた。
「な、なんでもないですっ! ……ごめん、そんな睨むなよ」
「別に睨んでなんかいませんよお。ふーんだ」
唇を尖らせるアサキ。
恥ずかしい話を未然に阻止しただけだ。
そのまま二人は、オレンジに照らされた薄暗い廊下を歩き続ける。
しばらく、無言のままで。
「なんだよ」
自分で作り出した無言に耐えられなくなったか、カズミはちょっと憮然とした表情になって、アサキの横顔を覗き込んだ。
「いいんだ。わたしはどうせ。ヘタレ女子で」
ず、とアサキは鼻をすすった。
「ま、まあさ、そういうお前だからこそ、出来ることもあんじゃねえの?」
散々からかっておいて、真剣に落ち込んでいると分かると慰め励ましてしまうカズミである。
「そうかな?」
「そうだよ。強くなりに合宿にきて、落ち込んでても仕方ねえだろ。よおし、トイレにどっちが先につくか勝負だあああっ!」
「もういいよお、それはさあ。なんでいつまでも、夜のホテルの廊下で、トイレの話をしてなきゃなんないのお?」
アサキは声を出して笑った。
笑いながら、胸に思った。
なんだかんだ、優しいんだよな、カズミちゃんも。
すぐ殴ってきたりプロレス技をかけてくるのはやめてほしいけど。
意外と気遣いもしてくれるしな。
「ん? なんだよ、いつまでもニヤニヤ笑っててさ。気持ち悪いな」
「なんでもない。……あっ」
アサキは不意に立ち止まった。
手を繋いでいるため、必然カズミもストップだ。
「星が……綺麗だ」
天井の電球が切れて、灯りがほとんどないところがあり、そこから、窓ガラスを通して満天に広がる星空が見えたのだ。
その美しさ、壮大さに、思わず足を止めてしまったのである。
「まあ……福島の山奥だからなあ」
「ね、カズミちゃん、星ってなんでチカチカまたたくか知ってる?」
「知らね。まん丸じゃないからじゃない? で、回転してっから、おっきくなったり小さくなったりしてんじゃないの? ほら、フライパンをくるくる回してるみたいに」
「ブブー。大ハズレ」
「じゃ、なんだよ」
「星の輝きっていうのはね、生きる人々みんなの心なんだよ。みんなの元気とか希望とかが天にのぼって、だからチカチカと、キラキラと、輝いている。と、わたしは思うんだ」
「明日、ラーメン食いてえなあ……」
「人がたまにオトメなこというと、すぐオヤジっぽいこといって茶化すんだからあ! わたし一人、恥ずかしいこといっちゃったじゃないかあ!」
「だってあたしオトメより色気より食い気だもん」
ははっと笑うカズミ。
アサキはちょっとほっぺたを膨らませたが、すぐ微笑を浮かべると、カズミの手を握る手に少し力を込めた。
トイレに行くという目的をすっかり忘れて、しばらく星空を眺め続けていた。
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