紫陽花に想う

九十九 那月

紫陽花に愁う

 六月の天気は、まるでお転婆な女の子のように移り気で、どんよりと曇った空が続いたと思ったら、時折嘘みたいに眩しい晴れ間を覗かせたりする。

 そして、閉じた傘の先からまだほんのりと雫を滴らせ、やるせなく歩いている私は、まさにそんな移り気に振り回された中の一人だった。


 どうしてこんなことになっちゃったのかな。

 自問して、だけど答えは明確だったから、すぐに「バカみたい」とぼやいて考えを打ち消す。結局は、後悔するとわかっているやり方を選んだ私が悪いのだ。


 今朝、恋人とケンカした。

 別に、それ自体は特別なことじゃない。私だってそれなりに歳を重ねてきて、他人と言うのは自分とは違うんだということは十分に理解している。

 それでも、わかっているということと、それを実際に体験するのとではやっぱり違うものがあって。あとは、大事な人だからこそ許せることがあれば、大事な人だからこそ許せないことがあって。

 結果として、デートで訪れるはずだった場所に、今私は一人で来ている。


 ため息が漏れてしまう。すると口癖のようにずっと言われていた「幸せが逃げるよ」という言葉が脳裏に浮かんできて、けれど今の私はとりあえず幸せからはだいぶ遠い位置にいるので、余計に憂鬱ゆううつな気分が深まってしまう。

 ほんとに、もう。

 ぼんやり見渡す視界の中には、突然の晴れ間を喜ぶ人たちの姿が映る。

 閉じた傘を片手に提げながら、もう片方の手を繋ぎ合うカップル。袖や裾を絞りながら、眩しそうに空を見上げている男の子。そこら中にできている浅い水たまりを気にもせずに駆けていく子供たち。

 そんな中で、私一人だけが取り残されている。


 だけど。

 そんな私の気分とは関係なく、どうしたって綺麗なんだよな、と思う。

 視線をずらす。その先で、既に今日何度も眺めた花が、やっぱり変わらず、小さな花弁を折り重ならせるようにして咲いている。


 あじさい。

 私はこの花を、恋人と一緒に見に来たかったのだ。


 そもそも、誘ったときは、それほど悪い手ごたえでもなかったのだ。

 この日出かけない? と私が口にして、いいんじゃない、と返事があって。それでつい浮かれてしまって。

 だけど私はつい、相手の性質を失念していたのだ。

 そう、あの子はとにかく朝に弱い。あとは、気圧の変化にも敏感で、雨の日とかはよく体調が悪そうにしている。

 だから、今日みたいな日に連れ出すのはちょっと難しかったのかも、というのは、後になって気づいたことで。


 でも、でもだ。たしかに私の思慮がちょっと足りていなかったとも思うけど、やっぱり相手も悪いと思うのだ。

 だってここのところ、何度かデートを企画しては、ことごとく気乗りしないという理由で断られている。

 たまにはちょっと頑張って付き合ってくれてもいいじゃないか。このままだと家デートくらいしかできなくなってしまう。

 そう、私は怒っているんだから。だから今朝ついケンカしてしまったのも仕方がなかったんだって。


 ……やめよ。

 握っていた拳をそっと解く。意地を張るのにも疲れた。

 そうやって無駄に張り合って一人で家を出た結果、こうして今寂しい時間を過ごしているんだってことは、誰よりも私が知っていることだったし。

 過ぎたことをいくら言っても仕方がない。一緒に来たかった、と、そう思うのだったら、家に帰ってからちゃんと仲直りをして、そしてまた出直す、それしかないのだ。


 あぁ、でも。

 目の前に広がる、青く色づいた花々を見下ろす。

 季節ごとに様々な花が見られるこの場所だけれど、私はあじさいの季節にここに来るのが一番好きだった。色とりどりに咲き誇るあじさいと、光る雨粒。この光景を私は、恋人に見せてあげたかった。

 だけどそれはきっと叶わない。次に二人そろって休みが取れるのはそれなりに先のことで、そしてその頃にはあじさいなんて大体散ってしまっているはずだから。


 改めて今朝の自分の失敗を悔やんで肩を落とす。

 だけどもうどうしようもない。せめて来年、付き合ってくれるといいなぁ、なんて。


 そう思ったところで、突然鞄の中でスマホが震えて、私はびっくりして飛び上がりそうになってしまう。

 取り出して、画面を見る。メールが一通。差出人は恋人の名前、そして本文には短く一言、「今どこ?」の文字。


 驚いて、それからつい笑ってしまいそうになる。

 そっけないメール、だけど私だけは、それがただ居場所を聞いているだけのものではないことを知っている。


 嬉しくて、だけどあまのじゃくな私は、ちょっとしたイタズラで、本文に「大庭園」とだけ入力。

 きっとこれで通じるという信頼と、でもちょっとは困ってくれるといいなというせめてものワガママとを込めて送信ボタンを押す。


 正常に送信されました、の文字が出て、スマホを鞄にしまいなおした頃には、さっきの気分はどこへやら、私は晴れやかな気分でいっぱいになっている。

 ちゃんと合流できたら、とりあえずまずは謝ろう。それでちゃんと仲直りできたら、その時は今度こそ、二人でこの満開のあじさいを見て回るのだ。

 その光景を、そして恋人の憎まれ口と笑顔を想像して、ついつい笑顔になってしまう。そうして浮かれた気分のまま、私は自然と動き出す足に逆らわずに、ゆっくりと歩き出した。


 ……あぁ、だけど。

 それはそれとして、デート数回分の埋め合わせはしてもらわなきゃ。

 ちょっとだけ減ってきたような気がするお腹に手を当てて、それから時々ある屋台だとか、レストランだとかを見て、何か一品おごり、で手を打ってあげよう、と、私はそんなことを考えるのだった。

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