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彼女は酎レモンを一口飲んでから話し始めた。
「わたしが生まれたのは、神奈川県横浜市青葉区ってところで、小四までそこで育ちました。小さいけどお庭があって、わたし専用のブランコがあって。近くにこどもの国っていう遊園地もあって、子供ながらに幸せだなぁなんて、生意気に思ったりしてました。知ってますか?こどもの国」
酔いが回って口調も明るくなってきた。これが彼女の本質だろうか?横浜生まれの横浜育ち、話し言葉が標準語なのも頷けた。
「ああ、緑山スタジオの隣やな」
「ええっ、行ったことあるんですか?」
「十代の終わりから五年ほど、東京で暮らしてたから。まぁ、俺のことはええからはよ喋り」
「はい」と言って彼女は座り直し、居住まいを正して話し出した。酔いが回っているのか、少しだけ左右に揺れながら。
「ええっと、小五の夏前に、お父さんがリストラになって……。お父さん、頑張ったんだけどうまくいかないみたいで……。結局、JRの東神奈川と京浜急行の仲木戸の間の、線路に挟まれた住宅地にあるアパートへ引っ越しました。前のお家とはぜんぜん違って、狭いし、古いし、汚いし、でも、お金がなくなっちゃったからしょうがないねって、お母さんと笑ってました。お父さんはスーツから作業着に仕事着が変わって、今までだったら朝しか顔を合わすことがなかったのに、わたしが起きている間に、油で真っ黒になって毎晩帰ってきた。わたし、それが良かったんです。前のお家はわたしには大き過ぎて、狭く小さくなった分、いっつも、お父さんとお母さんがそばにいたから」
酎レモンをまた一口飲むと、彼女は懐かしそうにしばらく上を向いていた。
俺は新しい割り箸を割って、つまみ易いようにひな皮と心ぞうを串からばらし、刺身わかめとオニオンサラダを彼女の取り皿にわけた。
「ありがとうございます。本当は女のわたしがしなきゃなのに」
「ええから先を話して」
彼女の母親は、古風な慣習を持ち続けた女だったようだ。北海道に縁があったから、彼女と共にこの地で暮らしていたのだろう。父親も真面目な性分らしい。リストラというのだから経営者ではない。それでも青葉区にブランコが置ける一軒家を持っていたということは、彼女の父親は資産家のボンボンか、有能な高給取りだったのか?それなら、リストラぐらいで家を売ったりはしない。有能なビジネスマンは引く手あまただ。もしや、一族経営の会社を、まんまと他人に乗っ取られたのか?彼女に色々確認したい部分があるが、これから彼女の人生転落話が始まる。いまさら何か出来ることでもなさそうだし、ただ話を聞くことしか、今の俺には出来ないのだと自分に念を押した。
「はい。わたし、転校した学校になじめなくて。いつも独りぼっちで、楽しくなくて、行きたくなくて。いつも前の学校だったら良かったのにって思っていて。でも両親が頑張っているから、わたしも頑張って、卒業まで頑張って通ってました。中学になったら状況が変わるかもしれないからって。でも、中学にいっても、小学校時代の同級生が同じクラスに何人もいて、急に変わると何か言われそうで、だから変われなくて。そのうちに、お父さんがギャンブルにハマってしまって、お母さんと毎晩喧嘩するようになってしまって。わたしもその頃から学校へ行くのが怖くなって」
煽るように酎レモンを彼女は飲んだ。俺は、酎レモンと焼酎ロックをお代わりした。
「わたし、あの頃からずっと、自分が嫌いなんです。お母さんがパートに出かけるのを近くのアパートの影から隠れて見てて、行ったあとに誰もいない家に戻って、見たくもないテレビを点けたりして、夕方までお母さんが帰って来るのを待っていたんです。すぐに先生が家に来て、わたしが学校に行っていないことがお母さんにばれちゃって、けど、嫌なら、苦しいなら行かなくていいよってお母さんは言ってくれて……。こっちに来てからも変われなくて、いつも仕方がないんだって諦めて……、だから、あの時も仕方がないんだって諦めて……」
彼女は、悲しさと淋しさと怒りと虚しさの入り混じった大粒の涙を流した。
今度は、じっと黙って泣き止むのを待つことにした。ここで俺がケツを割ったら、彼女は一生このままだ。何故だか、そう思ったんだ。
しばらくして涙が止まると、彼女は笑い出した。歪んだ笑顔の上に引き攣りが加わっていた。
「可笑しいですよね。ハハハッ。だって、全く関係ないのに、面白くもない話を聞かされて、ねぇ。ごめんなさいね」
俺は、逃げに向いた彼女に対して、冷静に正論を吐いた。
「おもろいとかおもんないとか、今の俺には関係ないねん。君が俺に聞いてくれっちゅうたんとちゃうんか?だから、俺は聞いてるねん。はよ話せや」
彼女は涙を溜めながら、迷いのある目で俺をじっと見た。ここが動き処だと昔の俺が突っついた。
「話してみいや。楽になるかならんか知らんけど、全部吐き出したら、ちょっとでもスッキリするやろ、それでええやん。一歩でも前に進めるんやったら、それでええんちゃうの」
俺はじっと彼女の目を見返した。涙が、彼女の中に溜まっていた何かを吐き出すように流れ、顎からボトボトと落ちている。余程辛かったんだろうと、違う俺が言った。
「ありがとうございます」
彼女は涙をそのままに頭を下げた。そして少しの間、小さい肩を揺らしていた。
顔を上げた彼女はハンカチで涙を拭くと、図ったように店員がやってきて、運ばれてきた新しい酎レモンを、店員の手から直で受け取り、その流れのままゴクリと喉に入れた。
それを眺めていた俺の中で『テレレ、テッテッテー』と、ガキの頃に同級生の家で聞いたことのある音が鳴った。
店員の女の子が心配そうに彼女を見た。
それに気がついた彼女は、
「大丈夫です。嬉しくて泣いているので」
そう強く言い切り、もう一度口を潤すために酎レモンを口にした彼女は、去っていく店員を気にしてか、今までよりも抑えめな声量で話し出した。
「わたし、中三の時、集団レイプされたんです」
そこまで言うと、もう一度口を潤した。
俺にとっては、過去にも何度か聞いたことのあるフレーズだった。それを言葉にする奴らはどいつもこいつも、今の自分がうまくいっていないことの理由にしていた。俺は彼女がそうではない側の人種であって欲しいと思う。必死に喰いしばって今を生きている奴にも、俺は会ったことがあったから。
だが、すべては運のなせること。俺はそう学んだはずだった。それなのに、何故だか、俺の心がチクリと痛んだ。面倒な感情を背負込んでしまったのだろうか?
「中二の夏に両親が離婚して、お母さんの実家がある苫小牧に二人で行ったんです。けど、お母さんとおばあちゃんは仲が悪くて、三ヵ月も経たないうちにおばあちゃんの家を出ることになって、札幌とか小樽とか、お母さんの知り合いの家を転々として、結局、お母さんの昔の友達を頼って、春から東川町に住んだんです」
東川といえば旭川の右下か。俺は頭の中で地図を広げた。美瑛の就実の丘を下った旭川空港がある東神楽町の隣が、確か東川町だったはずだ。就実の丘から見える風景は、いったいどんなものなのだろうか?東川町にある大雪山旭岳には、今のところ行くつもりがない。旭川へ行くにも、旭川から別の街に向かうにも、東川町を通ることがないのだ。ここもカントリーサインを撮影するにあたり、どうルートに組み込むか思案のしどころだった。
「転入すると、前の、横浜の時の何だコイツ?感がなくって。それは東川町へ道外からの移住者が多かったせいもあるけど、横浜から来た転校生ってことで、みんな優しく接してくれていたんです。けど、わたし、ブランコのあった家から引っ越してから、他人とどう接していいのか、ずっとわからなくなってて、結局、自分からクラスのみんなと距離を置いてしまったんです。
独りが定着しかけた、GWが終わって少し経った頃、クラスの伽奈って子にいきなりほっぺを叩かれたんです。『どうしていつも笑ってるの?』って。わたし、今までずっ~と、笑って誤魔化してきたから、それがいけないってことだっていうのはわかっていたし、でも、自分が傷つきたくないから、わたしはわたしで頑張っていて。横浜の時にはそんなことがなかったから、どうしたらいいのか一晩中悩んで、次の日の朝にわたし、下駄箱で待っていて謝ったんです。『昨日は怒らせてごめんなさい』って。そしたら、それを見ていたその子の友達が、『あんた伽奈になしたの?』って、急に怒りだして。
わたし、また笑っているしか出来なくて。それから、はっきりイジメられるようになって。どんどんイジメが酷くなって、エスカレートしていって……。何度も裸にされたりしておもちゃみたいに扱われていたけれど、十月になった時、トイレで裸にさせられて、それをわたしのスマホからSNSにアップされて。ああ、わたしってこういう存在なんだって思って。
みんなが笑いながらトイレから出て行く時に、伽奈って子が『すぐに消しなよ』って言ってくれて、すぐに消したんです。でも、他のクラスの男子が見つけていて、帰り道に『これお前だろ』って。ニヤケながら『お前は消したかもしれないけど、オレはちゃんと持ってるから』って。その男子に言われるまましかたなくついて行ったら、そいつの家は悪い奴らの溜まり場で、昼だか夜だかわからないまま三日間、お家に返してもらえなくて。だから、何されても人形みたいに、わたしはただ笑っているだけで……」
彼女は少しの間、冷めた目を宙に向けたあと、酎レモンを一口飲んだ。
「そのあとも何度もまわされて、妊娠したらそいつらの知り合いの病院に連れて行かれて、勝手に堕胎手術も受けさせられて、でもそのことは、お母さんには絶対に言えなかった。……けど、学校に行かなかったから、何か良くないことが起こったのはわかったみたいで、泣きながらわたしを抱き締めてくれました。そして、『無理に笑ってなくていいのよ。笑わせてしまってごめんね』って。けど、わたしには、何でお母さんが謝るのかわからなくて、途中から、北海道に連れきてしまったことにゴメンなさいって言っているように思えて。わたし、北海道、嫌いじゃないのになぁって思って。
それからすぐに釧路に引っ越すことになって、お母さんに付き添われて、また堕胎手術を受けて。外に出ると嫌なことが起こるんじゃないかと、ずっと、部屋から出なかった。けど、お母さんのお給料が安かったから、どうにかお母さんの力になりたいって思って、春になって高校へ行かなかったわたしも働き出しました。
笑わなくていい分、気分が楽だったけど、寄ってくる男、寄ってくる男、みんな出したいだけ。出せなきゃ殴ったり蹴ったり。妊娠したって言うと、お腹を蹴られて下ろされたこともあったの。そんな中でもわたしに優しくしてくれる男がいて、忘年会で口説いてきた時に付き合おうって言われて、信用してホテルに行って、全部話さなきゃって思って、レイプされたこと、何度も中絶していることを話したら、ゴミを見るような目つきに変わって、結局、やって出すだけ。それで妊娠したことを言ったら、『本当に俺の子か?ネットで股開くぐらい、誰にでもやらしてるんじゃないのか?』って。
だから、もう諦めちゃって、札幌に引っ越した時に、男には係わらないことに決めたんです。それでも、仕事場でどうしても男と係わらないといけなくて、そんな時はいつも、ただ目を瞑って時間が過ぎるのを待っていれば良かった。
二十二歳の時に、苫小牧のおばあちゃんが危篤になって、今度は苫小牧の母の実家に住むことになって、そしたらすぐにおばあちゃんが死んじゃって、お葬式の時に、おばあちゃんの友達の人に『女性ばかりの職場で工場勤務だけど、ウチで働かないか?』って言われて、男と係わらなくても良くなって、二年ごとにお母さんとスタンプ旅にも行って、めちゃくちゃ楽しい時間が戻って来たのに、今年も行こうねって約束したのに、三月に……」
彼女の瞳から涙が零れた。スタンプが二冊だったのは母親の分だ。
「夜勤の帰り、交通事故で死んじゃった」
涙をハンカチで拭いた彼女はスッキリとした表情をしていて、干からびかかったオニオンとわかめに箸をつけて、酎レモンを飲んだ。
目の前のツマミは、ほとんど俺が平らげていた。
「新しく何か頼もうか?」
「いえ、食べ物はもうこれだけで」
そう言って彼女は、残ったツマミをすべて綺麗にした。話したいことは話せた様子だった。
二人のグラスが空になったところで、二人揃ってご馳走様と手を合わせた。
会計を済ませ店を出た。店の前でほろ酔いの彼女が待っていて、俺が出てくると、深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございました。奢ってもらった上に、お願いまで聞いてもらって」
「いえいえ、ずっと一人旅をしていると誰かと食べたくなる。こっちのお願いを聞いてもらって、こっちこそありがとう」
ずっと一人旅だ。病院で目覚めた瞬間から、俺は一人、旅をしているのだ。
雨は降っていた。
俺はまだ飲み足らなかったが、彼女を送るためにホテルの方向へ足を進めた。
後ろから、傘の柄を肩にのせた彼女が、俺の服を引っ張った。
「あのう、一軒、付き合ってもらえませんか?」
「ん?」
「お母さんと行ったバーがあるんです。いっぱい話を聞いてもらったお礼に、わたしにご馳走させてください。お願いします」
そう言ってまた頭を下げた。
飲み足らない気分の俺には好都合だった。「良かった」と嬉しそうに言う彼女のうしろをついて歩いた。俺が目星をつけていたバーならいいのにと思いながら。
彼女が亡き母親と一緒に行ったバーは、俺が目星をつけていたバーそのものだった。
俺がドアを開けて彼女をエスコートした。別に彼女の話に同情したわけではない。これが俺のやり方なだけだった。
バーにとってはまだ早い時間、左手のテーブル席に四人グループが二組、長いカウンターには一人もとまっていなかった。
カウンターバックの酒の飾り棚を区切るように高そうなスピーカーセットが置かれてあった。バーテンダーのシェイクする音が流れているジャズに交じって、心地が良かった。
俺は椅子を引いて、彼女を座らせてから腰かけた。
店員が彼女の前にメニューを開けて差し出した。
少し緊張しているのか、彼女の動きに初めて会った時の挙動不審さが漂っていた。
俺が店員から受け取って彼女に見せる。じっと押し黙ったままだ。
「お母さんと一緒に来た時は、何を飲んだの?」
「最初は、三角のグラスに入った、お塩が縁についているグレープフルーツのを頼んだんですけど、わたしにはお酒が強くて。お母さんが『もっと甘くて軽いのにしたら』って言うから、ピーチの炭酸のを飲みました」
マルガリータにピーチフィズか?
「今日もそれにする?」
「一杯目はピーチのにします」
人差し指を顔の前に立てて、そう言った。彼女もいける口らしいが、酔って無邪気さが顔を出していた。
俺はドライ・マティーニとピーチフィズを注文した。
チャームが運ばれてきた。三種類のアテはどれも手が込んでいた。
酒が運ばれてくる前から彼女は興味津々で、店員の説明に聞き入っている。
「良かったら俺のもどうぞ」
「いいんですか。でも太っちゃうかなぁ」
俺が差し出した皿と自分の前に置かれた皿を見ながら、彼女は嬉しそうに言った。
カクテルが運ばれてきた。彼女の前にピーチフィズの入ったコリンズグラス。俺の前には空のカクテルグラスが置かれ、ストーナーが嵌められたミキシンググラスから透明な液体が注がれた。
彼女は「オオーッ」と、小さな感嘆の声を上げた。
俺は、注ぎ終えたバーテンダーに「これのエクストラをお願いします」と注文した。バーテンダーは「えっ、今ですか?」と訊いたので、「お願いします」と返した。
「乾杯しようか」
俺と彼女は、本日三度目の乾杯をした。
彼女は「美味しい」と言った。
俺は、バーテンダーの動きを視界の端で確認しながら三口で飲み干すと、うまいタイミングでエクストラ・ドライ・マティーニがやってきた。
俺は、スタンプ旅の先輩である彼女から、色々と道内各地の情報を仕入れ、携帯のメール作成画面にメモし、自分の携帯に送り保存していった。彼女も母親との思い出を楽しそうに話してくれた。俺は、まだ見ぬ世界を思う気持ちが高まって、ジントニックを何杯も重ねてしまった。違う俺がどこかで笑っていた。
途中、俺がトイレから戻って来ると、彼女は財布の中身を、心配そうに確認していた。
彼女が三杯、俺が六杯飲んだところでお開きにした。
勿論、ここも俺が支払った。
「わたしがご馳走するつもりだったのに、ここもご馳走になっちゃって、すみません。ありがとうございました。ご馳走になりました」
店の前で、彼女は何度も頭を下げた。その度に彼女の姿が傘の中に消え、ホテルのロゴが飛び込んできた。俺の単なるビニール傘とは違うようだ。
ホテルへの帰り道、すっかり明るくなった彼女と冗談を言い合いながら、帯広の夜の姿を見てまわった。まだ夜は長い。苫小牧の夜とは違い、まだ活気があった。
途中のコンビニに寄って、寝る前に飲むビールと、明日の朝に飲む無糖のカフェオレ、それに乾燥した部屋で寝るので緑茶を何本か買って、明日の帰り道、車の中で飲むためのドリンクを彼女に選ばせた。彼女はミルクティーを選んだ。
エレベーターに一緒に乗って、彼女の部屋の階と、俺の部屋の階のボタンを押した。今日も気持ち良く眠れそうだと思った。
無言のまま、エレベーターの箱を引き上げる機械音だけが静かに聞こえる。
扉が開いた。
俺は手で扉を抑え、奥にいる彼女が出やすいように待った。
しかし、彼女は下を向いたまま動かない。
「着いたよ」
俯いたままの彼女が、やけに小さく見えた。
少しの間待ってみたが、彼女は左手をグーパーしているだけだった。酔って寝ているのかと思って、俺は下から彼女の顔を覗き込んだ。
彼女の目は開いていた。
「大丈夫?着いたよ」
彼女は顔を上げると、じっと俺を見つめて、首を左右に振った。まるで子供がするイヤイヤをしているようだった。
「どうした?」
彼女はまた下を向くと、また左手をグーパーしながら言葉を発した。
「朝まで一緒にいちゃあ、ダメですか?」
ダメですか?の声が震えていた。何故、左手でグーパーなのか?右手で傘を持っているからなのか?
俺の指は閉のボタンを勝手に押した。扉に向かっている頭の中では、彼女が発した予想外な言葉の意味を考えていた。しかし、酒の酔いと、昔からの俺と、最近芽生え始めている俺が入り混じり、事の良し悪しを測りかねていた。
不意に背中に温もりを感じた。精一杯の思いっきりからくる震えが伝わってくる。
つまり、俺にも覚悟が必要だということだ。踏ん切りの悪さを自覚した。それなのに、勝手にボタンを押した。やはり、俺は変ってしまった。もっと簡潔に、損か得かで生きていたはずだったのに。
無情にも俺の部屋のある階で扉は開いてしまった。なるようになれと開き直れないまま、扉は開いたのだ。
俺は彼女を一度も見返ることなく、扉から廊下に出た。
足音のしない絨毯張りの廊下を進む。俺は、何をやっているのだろうか?
微かに、小さな温もりがうしろをついてくるのは感じていた。
ドアの前で立ち止まり、カードキーを取り出して、センサーにかざす。グリーンのライトに変わり鍵が開いた。
ドアを押し開いた。やっと彼女を見ることが出来た。
「わたし、汚いですよね。ごめんなさい。わたし……」
俺は、そう呟く彼女の手を掴み、ドアの中に引き入れた。
ドアが自動的に閉じる前に、彼女の小さく細い身体を、俺はだた強く抱きしめた。
強くギュッと、でも優しく、ただ抱き締めただけだ。彼女の呼吸を乱さぬよう、彼女の不意な動きにも緩やかな対応が出来るように。
俺の腕の中で、彼女が溶けていくのが感じられた。彼女自身が、そこに存在していることだけを主張しながら、俺と融合しようというのだろうか?
それを受け止める。これが良いのか悪いのか判別など出来ない。俺がやれる精一杯を、今はただやるだけだ。
彼女の首筋に薫る匂いが優しさを含んできた。
右手でうなじから後頭部へ、肩より少し短い髪を掻き揚げる。そして、手の内にある髪を、無造作に掴む。
少し仰け反った細い喉元に唇を押し当てて、鼻腔一杯に彼女の甘い薫を吸い込んだ。
見えない彼女の唇から、吐息が漏れた。
俺は彼女の瞳に映りたくなった。
彼女の瞳は艶っぽく光っていたが、それに戸惑っているようでもあった。けれど、涙の潤みは微塵もなかった。
柔らかな唇は、ただ重ねているだけなのに、交じり合う気がした。
重ねたままそれを割り入って、柔らかなベロに絡ませながら俺は、彼女の地味を一枚一枚剥ぎ取っていく。今、乱れた息遣いの中、彼女が色違いの上下姿なのかを判別することは出来ないが、何時間か前に見た、乾いて閉じたままの彼女では、全くないことは実感出来た。
俺の指先や掌が触れる部分が、今まで知っている自分の反応とは違うことに、彼女自身、戸惑いと躊躇いが入り混じり震えていた。
俺の中にずっといる俺が、彼女の反応に喜んでいた。そして、その先にある感情を抑えるように、最近出始めた俺が、愛しむように指示を出す。
彼女の両脚からズボンと靴下を脱がした。
カーテンを引いていない窓からぼんやりと入り込んだ光が、彼女の身体を照らしている。さっきと同じ、上下別色だった。
俺に見られていることに恥ずかしさを覚えたのか、あんなに大胆だった彼女は両手で胸と股間を隠し、顔を背けた。
俺は彼女をもう一度抱き締め、軽くキスしてから、細く小さな体を横抱きで抱え上げた。そしてまたキスした。
二台並んだベッドの窓側に彼女を横たえ、俺は着ていた物を脱ぎ去った。
彼女は左手で顔を隠し、右手で胸元を隠し、股間を右膝を軽く曲げて隠していた。
俺は彼女の右側から覆いかぶさり、彼女の髪を撫でた。
照れた瞳で俺を見詰めたあと目を閉じると、彼女は「変です」と言った。
俺は何が変なのかわからなかった。
「なんか、フワフワします。今までこんなことなかったのに……」
「怖い?」
彼女は目を瞑ったまま頷き、「少し」と言った。
俺は彼女の頬を撫で、口づけた。彼女の腕が俺に巻きつき、舌を絡めた。俺は彼女の肩から腰まで露わになっている部分を撫でる。これが愛しさなのだろうか?彼女は唇を外し仰け反ると声を漏らした。そして、思わず漏らした声に彼女自身驚いた様子で、慌てて左手の甲で口を押え、人差し指を噛んだ。
首筋に唇を押し当てながら、呼吸で上下している薄水色のブラジャー越しに優しく揉んだ。
彼女の口から声が漏れたあと、「いや、ダメ。やめて」と、言った。
嫌な経験を思い出してしまったのだろうと、俺は身体を離した。
「違うんです。嫌じゃないです」
彼女はそう言うと、自分から俺に抱き着いた。
「今まで気持ち良くなったことがなかったのに、気持ち良くて、変になりそうで……」
「変になっていいよ。感じるまま、感情を表に出していいんやで」
俺がそう言うと、彼女は俺の顔を覗き込んで、「嫌にならないですか?」と訊いた。
俺は、彼女の額にキスをして言った。
「俺は君が乱れてくれた方が嬉しいかな」
その言葉が彼女の中のスイッチを入れたらしく、小さくて細い指を絡ませ扱いた。
熱情は形になったが、俺の頭の片隅は冷静さを保っていた。彼女は何度も弓反りになりながら、今、自分の中で起こっている変化を言葉にした。
彼女は大きく声を上げたあと、硬直して、ガクガクと痙攣した。
横たわって動かなくなった彼女を抱き締めて、やさしく背中を撫でまわした。俺の仕事はやり終えた気分だった。
しばらくそうしていると、元気を取り戻した彼女は俺にキスをしてきた。どう自分の思いを表現すれば良いのか試行錯誤している。
彼女はキスに満足すると俺の身体の上に這い上った。彼女が触れる皮膚組織から、体温以外の感情の温かみが俺に伝わってくる。
欲張りな子栗鼠のような彼女は「わたし濡れてます」と真顔で言った。
俺は冷静に、快楽に没頭する彼女を見ていた。羨ましいと思った。
そのうちに彼女は動かなくなった。
それと同じくして俺もエネルギー切れらしい。ぐったりした彼女をベッドに残し、床に倒れていたコンビニ袋を拾って冷蔵庫に収めた。そこから、冷やし忘れてぬるくなったビールは飲みたくないので、緑茶を喉に流し込んだ。
飲みかけのペットボトルともう一本緑茶のペットボトルを持ってベッドに戻り、水滴のついたペットボトルを彼女の頬に当てた。
彼女はハッと目を開き、俺を認識するとホッした表情を見せた。
俺は新しい緑茶を開けて、彼女に差し出した。
彼女は「ありがとうございます」と言って、美味そうにゴクゴクと緑茶を飲んだ。一息吐いた彼女は、
「まだですよね。ごめんなさい、わたしばっかり……」
俺はこのままでも良かった。けれど、それでは彼女は申し訳なく思うようで、俺は彼女のなすがままに身を委ね、近頃虚しいと思っていた一瞬だけの昂りを感じた。彼女の顔には菩薩のような笑みが浮かんでいた。
愛なのか……?
俺は、まだ弄んでいる彼女を起こし、抱き締めてキスをした。舌には俺の味を感じたが、関係なかった。
舌と舌を絡めながら、彼女は涙を流した。流れた涙の味もした。
腕枕をして俺の腕の中でしばらくの間「嬉しい」「ありがとう」と泣いていた彼女も、寝息を立てだした。
そのあと、俺も知らぬ間に眠っていた。
目が覚めた時、彼女はもうこの部屋にはいなかった。
テーブルの上には、俺が脱ぎ散らかした服と干していた洗濯物が綺麗に畳まれている。
『昨夜は、幸せな時間をありがとうございました。苫小牧を通る時にまた会いたいです 彩香
PS お守りにおじさんの携帯番号ゲットしちゃいました。』
文字の下にゴメンと手を合わせている可愛い絵が描かれた、ホテルのメモ帳が畳まれた衣類の横に置かれていた。
ガラケーを開いて発信を見た。知らない番号が残っていた。
俺はガラケーを閉じて彼女を思い出すと、彼女の声や息遣い匂いまでもが蘇ってきて、股間が熱くなった。
コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
時刻は朝の七時前。彼女が忘れ物でもしたのだろうか?俺はドアまで行って、ドアスコープから外を覗いた。
ドアの外にいるのは、二人組の男だった。一人はスーツにネクタイを締めた青年で、もう一人はポロシャツにジャケットを羽織った俺と年が近そうな中年だった。
俺は返事をせずに奥に戻った。またノックされた。
兎に角、彼女が綺麗に畳んでくれたパンツやTシャツを着ながら考えた。誰だ?何の用だ?ちょっと考えてピンときた。あの二人は刑事だ。
俺はペットボトルの緑茶を持ってユニットバスに向かった。
もう一度ドアがノックされたので、「ちょっと待って」と言って、緑茶でうがいをして洗面所に吐き出し、今度は残りを全部喉に流し込みながらドアに向かった。
もう一度確認した。間違いない刑事だ。所轄の刑事だけではなく、道警の刑事も一緒ということのようだ。何だ?殺しか?
「はーい、誰?」
そう言うと、ドアスコープ越しに年長の方が手帳を開いて見せ、
「朝早くにすみません。警察です」
と、言った。
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