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海から昇る朝日に起こされたのは、漁業利権関係の拗れで和歌山の太子町に乗り込んだ時以来だった。いつまで朝の光で目覚めることが出来るのかはわからない。有難く、今日の訪れを受け入れる。
昨夜の晩飯は期待を裏切る豪勢さで、海鮮以外にも熊肉の鍋もあって美味かった。それに釣られて、仲居さんに「大丈夫ですか?」と尋ねられるほど地酒を堪能した。
ぐっすりと眠れたお陰か、今朝は随分と調子が良いようだ。
PCも使えない昔ながらの民宿旅館の造りだったが、ユニットバスもあって居心地は良かった。朝の情報番組をザッピングしながら、天気予報やここから帯広か釧路までの道中の情報収集を試みたが、今日は曇りで、夜には雨が降り出すということしか有益な情報は得られなかった。兎に角、雨だけは勘弁だ。それだけを思った。
朝食は食堂で食べることになっていた。テーブルに配膳された様子から、泊り客は全部で三組。一人客は俺と、昨日風呂で会ったおじさんだけだった。少し間はあるが、おじさんと会話しながらの和朝食、しばらく経験することのなかったことだった。女将さんは普通に会話していることに「知り合いだったの?」と驚いていたが、偶然の裸の付き合いがもたらした結果だった。
食事の終わりに、ここを紹介してくれた女性のことを女将さんに訊ねてみた。
彼女は“ケイ君嫁のシマちゃん”だという。漁師をやっている“ケイ君”の嫁だそうで、その“ケイ君”はこの宿にも魚を卸しているそうだ。
昨日は充分な礼を言えなかったことを話すと、「大丈夫、気にしないで。いつものことだから」と言われた。何処がどういつもなのかわからないまま、もう一組が入ってきたので会話は終わった。
部屋で荷物をまとめロビーで会計を済ませた。女将さんに「これからどっちに向かうの?」と訊かれたので、「明日から雨なので、暇を潰せる大きな街へ向かうことになる」とだけ言った。
外は曇り空で、寒かった。
荷物をシーシーバーに括り付けていると、裸の付き合いをしたおじさんが宿から出てきた。
朝食時の会話で、函館北斗から新幹線で青森に渡って福島に帰ると話していたおじさんに、俺は「良い旅を」と声をかけた。
レンタカーに乗り込むおじさんは「あなたも良い旅を」と言って、暖機もなく駐車場を出て行った。
静まり返っていて、風の抜ける音だけが聞こえる襟裳の町に気を使いながら暖機運転をしてから、おれは相棒のクラッチを繋いだ。帯広か釧路か決める前に、まだ立てぬ“先っちょ”に立とうと向かった。
朝のえりも岬の町は人の動きがあって、小学生や制服を着た学生達が歩いていて、出勤だろうか車が何台も走っていた。そして、風が強く吹いていた。
襟裳岬の方向に走り出し岬の手前で左折する。そこからは海風の吹きつける狭い道を進み、質素な祠址の質素な鳥居の手前まで進んで停めた。その先には二本の丸太が、何故だか地面に突き刺さっていた。
草が生えているギリギリまで歩みが止まらなかった。
やっとこの先に地面がない“先っちょ”に辿り着いた。
風は休みなく吹き付けたが、俺にとっては、とても心地の良いものだった。だから、少しの間、頭も心も空っぽになっていた。そうなっている自分に気づいた時に、現実が押し寄せる。
まだ開店には早いが、準備をしているだろうとあたりを付けて、昨日世話になった彼女にありがとうと伝えることにした。
感謝など、少し前の自分には無かった言葉だった。すべてに裏があり、結局は金の為だった。
不思議に、ポワポワとした、そんななんともかんとも言えないな感じで、来た道を戻り、襟裳岬の駐車場に向かった。
価値観はいつも、完膚なきまでに叩き壊されて、崩れた残骸の上に無理やり新しい完美な価値観を築かれた。その繰り返しだった。最後に築かれた価値観は、自らの経験から築いたものだ。だからこそ、今生きている。だからこそ、少しの猶予ある未来への希望が生まれた。そして今の自分は、残り少しになったクロスワードパズルの空白を、一つずつ埋めるための作業に他ならない。悔いは残っても後悔はしたくない。無事に旅が終われば、けじめをつける。どうつけるかはまだ決めていない。
土産物屋の入り口を、昨日いたおばさんが箒で掃いていた。
俺は、ケイ君のところのシマちゃんは来ているかと尋ねたら、今日は休みだと言われた。昨日大変お世話になったので、「ありがとう」そう伝えて欲しいとおばさんに託した。残念だがしかたがない。
新しい光で目覚めたはずのえりもだったが、いつの間にやら、押し寄せてくる灰色の分厚い雲に空が半分失われていた。そのせいで、昨日バックミラー越しに見た素敵な景色の道道34号線は、ただ移動のためだけに走る、そういう気分にさせる道になっていた。
広尾町へ向かう国道336号線は、様似町からえりも町まで通って来た国道336号線よりも、険しい崖と波の荒い海岸線に挟まれた所に道は通っていて、黄金道路と呼ばれる由縁の長いトンネルがいくつも続いていた。それほど金がつぎ込まれて、なんとか通された道だった。
空の色の悪さと強い風、荒い波が、こんな道も良いものだと楽観的に心地良いスピードで走っている俺の心に、薄っすらと不安の影を落としていった。
橋の手前にサンタ?の描かれた広尾町のカントリーサインが現れた。全くもって意味不明。それよりも長いトンネルの多さに辟易していた。あとで広尾町のHPで調べたら、ノルウェイのオスロからサンタランドに認定されたと書かれてあった。納得だ。
広尾町に入って、トンネルは右側が格子状で海が見えている洞門ってやつに変わった。少し気分はマシになったが、三つ目の洞門の途中で、トロトロ走っている軽トラックに出くわした。昆布漁師の車かと思ったが、サイドミラーに映ったのは、少々年季の入り過ぎた爺さんで、どうしてだか荷台の横にあのマークが貼り付けてあった。
トンネルが終わるまで抜くことはしたくなかった真面目な俺は、充分距離を開けて追走した。時速20キロで、左右に揺れながら走っている。
このご時世に、いつまで運転してるんだ。この瞬間だけを切り取れば、俺もそう思っただろう。しかし、この土地で生きるためには車は必要不可欠だ。免許返納など、死ねと喉元にポン刀を突き付けられるも同然だ。
トンネルを抜けて、周りに停まっている昆布漁師の車にも気を付けながら、高齢運転者標識の付いた軽トラックを追い越した。
世の中は難しいことばかりだと考えながら走っていると、広尾の街に入った。交通量がいきなり増えた。
この曇り空も相まって、俺には、広尾の街に哀愁が漂っているように見えた。
元広尾駅からほど近いコンビニでコーヒーブレイクにした。海風は知らぬ間に俺の身体から熱を奪っていたらしい。カフェオレがじんわりと奥から温めてくれた。空を見ながら地図を確認する。雲の切れ間が広がってきていた。兎に角、距離13キロのほぼ直線道路・道道1037号線を走ろうと決めた。
国道336号線は楽古川を過ぎた辺りから大きく左へカーブを描く。カーブの終わりあたりで道道1037号線へ右折した。
右折して左カーブを過ぎて、直線が見えるとすぐに相棒を路肩に停めた。
延々と真っ直ぐにアスファルトは引かれてあって、否が応でも期待を募らせてしまう。真っ直ぐに続く道は、都会に住んでいる者にとって憧れだ。
一息、大きく吐き出して、クラッチを握り、シフトダウンする。ゆっくりとスロットルを開けながらクラッチを繋ぐ。ドコドコと、のんびりと相棒を走らせる。
巨大な畑や牧草地、牛の牧場が続く道。時々、乗用車やトラックとすれ違い、時々、それらに抜かれていく。
北の大地を今、俺は走っている。そう実感出来た。ただこの空間に漂っていたいと思うのだ。頭の中では、千春が熱唱していた。
夢は儚くというが、ニ十分ほどで道道1037号線は道道501号線に突き当たった。その先は、細い砂利道だけが続いていた。
その丁字路で相棒を停めて、しばらく来た道をボーッと眺めて、そのあと、その風景を切り取った。
やっと湧いて出た感動が身に染み入った。
来た道を引き返す。進んできたアップダウンのある直線道路先は、また違った景色を見せてくれる。そして、途中途中で気に入った景色にカメラを構えて、それをSDカードに収めていった。そして、気に入った区間を行ったり来たりして堪能した。
イイ感じに流していると、豊似川の手前の十字路で嫌な気分になった。右折した前の車を追うようにして1台の車が、俺の目の前を平然と右折していったのだ。こっちは全くスピードを出していないので、慌てることなくフットブレーキだけで減速する。カチンときたので、後を追って……。一瞬そういう気分になったが、
十字路の真ん中で停まった俺は、舗装されていない道をゆっくりと進む二台の車を見送った。一台目は銀色の『わ』ナンバー。レンタカーか?続く二台目は、白のセダン。京都ナンバーだ。
車は舗装されていない道をどんどんと進み、森の中に消えていった。森の向こうには海があるはずだった。
厚い雲が海上を右から左へ進んでいた。
チェッと舌打ちしたが、それ以上の怒りにはならなかった。が、何か胸の奥にチクリと棘のようなものが突き刺さるのを感じた。
気持ちを切り替えて、北海道を堪能する。この北海道では当たり前の場所でテンションが上がるのなら、思いの強い富良野や美瑛を走る時には、どんだけのテンションになるのか、俺には全く予想がつかなかった。
国道の姿が目に入ってきた時、帯広にするか釧路にするかを悩んだ。合流地点で一度路肩に停めて時間を確認した。そして、さっきの雲の流れを思い起こし、釧路方面へは向かわず大樹町から帯広へ向かうことに決めた。
国道336号線を進み豊似に入ると、一つ目の浦河へ行く国道236号線・天馬街道が合流する。そこから先は重用区間で、豊似の町外れで帯広・大樹に向かう国道236号線は道なりに、釧路・浦幌に向かう国道336号線は右折車線から斜めに方向に曲がることになる。
遠く左に見える日高山脈の山並みには、白い雪が綺麗に振りかけられていた。
ここが雪国だということを再認識させられた。
車の流れに乗って大樹町に入った。ハザードを焚いて路肩に停めた。
大樹町のカントリーサインは、宇宙の町らしくロケットが描かれてあった。
らしくない道の駅・コスモール大樹に着いた頃には、厚い雲は過去に置き去りになって、頭の上には薄い雲が覆っていた。
今回の俺の選択は間違いなかった。
ふと懲役帰りの先輩の話を思い出した。
人生は選択の連続で、イエスかノーかの二択しかなく、選択肢がいくら増えようとも、それぞれに対して二択なのだ。そこに保留はない。保留はノーの選択だ。そして選択はどんな時でも自分の望む方を選んでいる。誰かや何かに押し付けられて仕方がなくやったとしても、やらないよりやるの方が、何かしらの自分の利益になるから選択したに過ぎない。究極的に簡単に言えば、「殺されたくなければ殺してこい」と脅されたら?人殺しが嫌ならやめればいい。自分が殺されればすむ話だ。逆に脅した相手を殺す?それは結局人殺しだ。それに、あとで他の奴に殺される。最後はすべて自分が決めているんだ。自己責任だ。
そう鰻を食いながら、米粒飛ばして話していた。
施設に入ってスタンプを押した。上部の三分の二が緑色で残りの下部は赤だった。芸が細かかった。
休憩することなく次の忠類へ向かう。大樹の街には見たこともないチェーン店の看板が色々あって、俺の目を楽しませてくれたし、役場の裏の公園には機関車が置いてあるのが走っていて見えた。
街を過ぎると急に長閑になり、道幅も広く車の流れも丁度良かった。蕩けるように走っていると直ぐに、ナウマンゾウがゴルフをしている幕別町に入った。よく見ると、ナウマンゾウが持っているクラブが変だった。
道の駅・忠類へ入って相棒を停める。ここではウトナイ湖で店員に勧められて買ったランチパスポートを初めて使う。ゆり根のコロッケと塩バターパンとコーヒーのセット。小さく写真が載っている純白ゆり根シュークリームにも気持ちが持っていかれていた。
逸る気持ちを抑えながらスタンプを押す。牛の上にナウマンゾウが乗っていた。
スタンプブックを振って乾かしながら売店に向かった。
トレイにのったコロッケとパンを、朝飯を食ったはずなのに一気に平らげた。どれも普通に美味かった。コロッケは、大阪・天神橋筋の『中村屋』の甘さの方が、俺は好きだった。
コーヒーを一口飲んで、次は真っ白いゆり根のクリームがたっぷりと詰まったシュークリームだ。包装にもナウマンゾウが描かれてあった。サックリとした皮と柔らかなクリームのマッチングが、心地の良い歯応えだ。はみ出たクリームは名前通りの純白で、くどくない甘さと軽さが俺好みだった。
余程体調がいいのか、全て平らげてもまだ胃袋には余裕があった。だが、もっと別のもので満腹を感じたかった。
少し腹ごなしの散歩をした。道の駅横の公園ではナウマンゾウの親子が暴れていた。カントリーサインのナウマンゾウが持っていたのは、パークゴルフの道具らしかった。俺はプレイの経験が無いので、実際の道具がどんなものなのかハッキリとはわからなかったが、シャフトが太くて頑丈そうなので、ゴルフクラブよりも確実に、一発で頭をかち割ることは出来そうだった。
どんどん空に青が広がってきている。
浮かれ気分になって相棒に跨った。暖機運転しながら地図を確認する。先ず道の駅・さらべつに行って、道の駅・なかさつないへ。それから、旨いと評判で、いつかは訪れてみたいと思っていた『じんぎすかん白樺本店』で満腹になろう。そう決めた。
国道236号線を少し走ると、どんぐりのマスコットが描かれた更別村のカントリーサインを見つけた。
上更別の交差点を道道238号線へ右折。
本当に北海道はいい。何処をどう走っても北海道だ。そう素直に思う。浮かれ気分が止まらない。初日、あの海辺の景色に出会うまで感動を覚えなかったのは、俺がまだ見ぬ北の大地に対して、知らぬ間に警戒感を抱き、心が緊張していたせいだったのか。全くもって馬鹿馬鹿しくなってくる。
道道210号線との交差点に道の駅・さらべつはあった。忠類からは十分ちょっと、あっという間だった。
スタンプを押してすぐに出た。パスポートに載っている「さらべつ和牛のローストビーフ丼ミニ」に心惹かれていたからだ。次に行くなかさつないの「とんとんせいろ」は、写真に写っている店内が座敷だったので、ブーツを脱ぐのが面倒なのでパス出来た。
道の駅から出て少し走ると、見たことのあるナウマンゾウがパークゴルフをしているカントリーサインが突然現れた。
俺は慌てて路肩に相棒を停めて地図を確認した。出る方向を間違えていたようだ。俺としたことがこんなイージーミスを犯すなんて。腕時計がないことを確認したあと、ガラケーで時間を確認するべくヒップバッグの中に手を入れ探った。何処を探っても指先にプラスチックの硬い感触が当たることはなかった。そうだ。タンカースの左ポケットに入れていることを思い出した。ふと、力が抜けて笑いが込み上げてきた。俺にはもう何もないのだ。縛るものもなければ、守るべきものもない。あるとすれば、死ぬまでの時間と僅かな金だけだ。本当に可笑しくてしようがなかった。俺は身体全部で笑っていた。こんなに笑うことが俺の人生であっただろうか?そんな小さなことを考えて、また可笑しくなった。
行き過ぎるトラックの運転手が首を傾げて通り過ぎる。
流石にいつまでも笑ってはいられない。いくら俺に時間があっても、お天道様は登れば沈むのだ。
ハタと疑問が浮かんだ俺は、地図に引かれた幕別町の境界線をなぞってみた。幕別町はさっきの忠類から十勝川まで南北に細長くて、中心地の幕別は北にあった。
変に感心しながら道道210号線をUターンして、国道236号線へ戻った。
どんどん天気が良くなっていく。
空がとてつもなく広かった。時折流れてくる牧場の香りも慣れれば安らぐ香りだ。
心地いい流れのまま走り、街に近付くと何故だか交通量が増えた。いや、そんな感じがするだけなのかもしれない。
中札内村に入った。停まるのが嫌になるほど心地が良かった。花とハットを持った鳥のキャラクターが描かれたカントリーサインだ。
また走り出し、帯広広尾自動車道をくぐるとすぐに道の駅・なかさつないはあった。今までの道の駅とは違い活気があった。昼時だからか?
スタンプだけ押して出発する。
道道55号線を走る。綺麗に並んだ防風林や白樺林、先の見えない直線の道だらけ、堪らない、脳味噌が蕩けて涎が出そうだ。俺はハマったことがないが、“冷たいの”や“コーク”やらも、こんな感じなのだろうか?
俺の知っている限り、警察がどれだけ頑張っても違法薬物の蔓延は止まらない。昔以上に半端なく広がりをみせている。今や捌いているのはヤクザだけではない。多くの外国人グループが様々な薬物を捌いている。馬鹿なヤツだって賢いヤツだって関係なく、クリック一つで家の近くまでデリバリーだ。そんなだから、サラリーマンにも主婦にも学生にも、官僚にだって広がっているのだ。マスコミは見えにくいものには知らぬ存ぜぬを決め込んでいるだけだ。
一度手を染めれば元には戻れないし、周りが元には戻してくれない。そうなる前に、だだっ広い大地をボーッと旅すれば、日々の日常で貯め込んでいる色んな呪縛から解放されるのではないだろうか。だって呪縛は、自己の思い込みなのだから。
そんな俺には関係のないことを考えながら走っていると、白樺林の横に帯広のカントリーサインは立っていた。スケーターの絵だった。
畑だらけの中、道沿いに家が点々と現れる。そして集落が見えてきた。目的の『じんぎすかん白樺本店』は、この辺りにあるはずだ。
郵便局を過ぎた先にあるトンガリ屋根の入り口前の駐車場には、地元帯広ナンバーの車だけでなく、札幌、釧路など地元以外のナンバーの車も数多かった。
相棒を隅に停めた。
流石に人気店、店内だけではなくウッドデッキの席まで客がいた。
ヘルメットを右ミラーにかけて、グローブをシールドの内側に入れ、ゼットバーのハンドルに脱いだタンカースジャケットを広げてかけた。いつの間にか照りつけだしたお天道様のおかげで暑かった。
白樺と白文字で書かれた暖簾をくぐり店内へ。昼時も終わり時刻、一つだけ空いていたウッドデッキのテーブルに通された。築年数は経っているが掃除が行き届いた店内から、旨いものを食わせると確信した。
マトンとラム一人前ずつ、ライスに味噌汁。
肉の上に切った玉葱がチョコッとのっていた。
キャップのつばを後ろに回して臨戦態勢になり、ジンギスカン鍋の頂上に脂身をのせる。それから玉葱を鍋の周りの溝に散らして、ラムとマトンを混ざらないように鍋に広げて並べる。タレの焼ける香ばしい匂いが、胃袋の隙間を拡張させる。肉が焼けるまで米を一口とみそ汁だ。味噌汁にはアオサがたっぷりと入っていて、とても旨い。身体に染み込んでいく。米にはキビだろうか?黄色い粒が混ぜてあった。米もとても旨かった。
頬が緩む。昔の俺を知る奴らが見たら、さぞや胸糞が悪くなることだろう。自分でも鏡を見るのが怖いほどのニヤケヅラをしているのだと思う。
肉が焼けた。上陸初本場成吉思汗。
ラムからいく。……旨い。臭みもなく柔らかい。マトンをいく。……旨い。歯応えと香りが堪らない。そこから先は、焼いて食うの繰り返し。箸休めに玉葱をタレに絡めて。……旨い。……タレが旨い。ラムとマトンを一人前ずつお代わりした。残ったラムとマトンの一切れを、米にワンバンして口に入れたあと、追いかけるように肉汁とタレの染みた辺りの米を放り込む。堪らない。即席の成吉思汗丼が口腔内で製造される。旨い。味噌汁で舌を整えていると、直ぐにお代わりが運ばれてきた。米も旨いのでお代わりしたいのだが、胃袋の拡張分が肉で埋まっていく。お代わり分からは、肉:1に米:0,3の割合で食べ進め、最後の米の一口はマトンを巻き付けて口に入れた。
「よく食べたねぇ」と、レジのおねぇさん言われて店を出た。入り口の暖簾がしまわれていた。
満腹になった。上陸して、初めて北海道名物の味を堪能した。そして、いつ振りになるのかわからない大満腹になった。
日干ししたタンカースジャケットは、青空で輝いているお天道様の匂いがした。
腹ごなしに三十分ほど畑の中の直線道路を好きなように走り回った。空の青さが、俺の知っている関東や関西の青さとは違う気がした。
喉が渇いてきた。ソフトクリームと書かれた矢印看板を見つけ、それを追う。しかし、その店は長い冬期休業中で、まだ春は訪れていなかった。開店は明日からというツイていない結果だった。
ガックシと肩を落としながら走っていると、アラブ系種の馬のいる牧場を見つけた。エンジンを停めてしばらく眺めた。人懐っこいのか近寄ってきて馬溜まりが出来た。写真を撮った。バックの並木や建物すべてが北海道だった。夢中になっていると急に喉の渇きを覚えた。ヒップバックからお茶のペットボトルを取り出して喉を潤した。それにしても空がデカい。
そろそろ今夜の宿を確保しておくかと、Wi-Fiの繋がりそうな街のある中札内へ向かった。セコマの駐車場でPCを開けて、先ずは天気予報を確認した。明日から四日間、雨の予報は変っていなかった。帯広駅前のビジネスホテルの五泊分の予約を取った。カントリーサインも道の駅のスタンプも、今日の分は終了、あとは観光旅行だ。
国道236号線を北上。帯広市に入ると直ぐの、とかち帯広空港と幸福駅の矢印がある丁字路を右折して、少し走ってから左折する。駐車場には何台もの観光バスが停まっていて、乗用車もたくさん停まっていた。十勝は大人気の観光地なのだと知った。
相棒を停めてヘルメットを脱ぐと、耳に入ってくる言葉が韓国語と中国語だった。ここが日本だとは思えないほど、異国語が飛び交っている。観光バスから次から次へと降りてきていた。まるで湧いて出てくるようだった。
それにしても、北海道、北の大地だというのに、とっても暑い。朝のえりも町や広尾町とはえらい違いだった。タンカースジャケットだけでなくその下のパーカーも脱いで、Tシャツ一枚で観光することにした。
幸福交通公園には、頭を白く染めたオレンジ色の列車が展示されていて、それを撮影しているのは日本人の老人達だった。日本語が聞こえてくると何故だかホッとした。
駅舎に向かうと、何処に来ているのかわからない始末で、外国人観光客で溢れかえっていた。記念のために写真を撮ったが、明らかに日本人と違うセンスの服を着た人ばかりで、駅舎の日本語がなければ、何処か海外の観光地のように映った。
売店で、俺が黙って商品を選んでいると、店員さんが次々に商品を指していった。最初、何をしているのだろう?と不思議に思ったが、日本語が話せない外国人観光客に対するサービスだと気づいた。
「切符を一枚ください」
俺が関西弁のイントネーションで言いながら金を渡すと、少し驚いた様子で、
「はい、切符ですね」
そう言って綺麗な切符を選んで包み、お釣りと一緒に俺に手渡した。外国人観光客と間違われていたようだ。俺の格好も、彼女から見れば外国人観光客と同じなのかもしれない。
「ありがとうございました」
女性店員は笑顔で見送ってくれた。
死ぬために生きているのに幸福とはと思ったが、死ぬまでの少しの間は幸福でいられるようにの思いを込めることにした。
外国人で混み合っているこの場所から、もう離れたくなった。
急いで相棒まで戻ると、相棒を舐めるようにみているじいさんがいた。近づく俺に気がついて少し驚きの表情を見せた。
俺はそれを無視して相棒に跨り、パーカーとタンカースを着込んだ。人混みに疲れたのか、誰かと関わりたい気分ではなかった。
「滋賀から来たん?」
じいさんは関西弁で訊いてきた。それもシガ↘と語尾が下がった。
「僕も大津から来たんよ」
遠くの方で誰かを呼ぶ声がした。じいさんを呼んでいるらしかった。じいさんは声の方へ手を上げたあと、「ほな気を付けて」そう言った。
俺は「良い旅を」と言ったのだが、ちょうど通りかかった外国人観光客の団体が引き連れてきた喧騒に紛れて、じいさんには聞こえなかったかもしれない。
国道236号線を進む。昔から人混みは嫌いだが、全てを綺麗にしてから、一段と嫌いになってしまったようだった。
旧愛国駅まで十五分ほど。独りのんびりと走る方が心地いい。
もっと人がいるのだと思っていた。展示物がたくさん飾られた駅舎からホームに出る。機関車が停められてあった。愛国駅には、俺以外、ひとっこ一人いなかった。
好き放題に写真を撮って、愛国駅をあとにした。
少し引き返し、大正本町本通1の交差点を右折、道道62号線に入った。
北海道は、時間がゆっくりと動いているように思えた。本当にずっとこのまま走っていたいと思った。
遠く何処まで続いているのか見えないほど真っ直ぐに並んだ防風林が見えてきた。10線防風林は9,2キロメートルある日本一の防風林だった。その防風林に沿って道道62号線は引かれてあった。
兎に角のんびりと、俺の中の時間が流れている。旅することに決めて良かった。旅は始まったばかりなのにそう思った。いや、北海道が思わせた。
知らぬ間に芽室町に入っていた。JAめむろが現れて気がついた。近くに有名ポテトチップスの芽室馬鈴薯集積所があるらしい。
心地良い道は美生川を越えると終わりを迎えた。橋を渡りきると街が現れた。街を走っていても空は広かった。農作地と違い防風林のような高いものがないので、一気に開けた感じがした。
根室本線のアンダーパスをくぐった先から、道は上美生通に変わり国道38号線に向かう。交差点には「東3条10丁目」「東4条9丁目」「東4条10丁目」の三つの違う町名が信号の横に並んでいた。これはここだけのものなのかと思って国道38号線を帯広方向へ右折した。次の交差点で信号待ち。この交差点では四つ違う町名が信号の横に並んでいた。北海道では当たり前のことなのだろうか?
反対車線にある四角い標識を気にしながら先に進んだ。芽室町のゲートボールのカントリーサインは帯広広尾自動車道をくぐった所にあった。行き過ぎてUターンしてから撮影した。
それにしても凄い交通量だ。国道38号線は今までの国道とはわけが違った。まだ道が広いので気分的に楽だった。
夕暮れ時に差し掛かってきていたが、帯広までの間、綺麗な夕焼け空には出会えなかった。
帯広の街は、北海道に来てから一番の都会だった。
ホテルに着いてすぐにカートを取りに行った。荷物を降ろしカートにのせて先にチェックインを済ませた。カートの荷物をフロントに預けてから相棒を駐車場に停めに行った。街にはもうネオンが灯っていた。
部屋からの眺めは良かった。眼下に帯広駅その先にはあまり高い建物もなく、空が広がっていた。
荷を解いて使いやすいようにセッティングする。ホテルの無料Wi-Fiがあったが、自分のを使う。昔からの癖だ、用心深いのは。PCを開けてメールをチェックする。誰からも来る予定はないが、これも癖みたいなものだった。ネットに繋げて天気予報を見た。雨の降る予報は変ってはいなかったが、所々に曇りマークもあった。
シャワーでも浴びようと椅子から立った瞬間、身体がぐらついてもう一度椅子に座り込んだ。たまにこうなる。頑張ったつもりはないが、身体に疲れが蓄積しているのだろう。テレビを点けて、しばらく椅子の上でボーッと見ていた。
一時間程で窓の外は暮れ始めてきた。やっと立ち上がることが出来てシャワーを浴びた。だいぶん調子が戻って来た。バスタオルで身体を拭いていると、腹が減っているのに気がついた。しかし、外に出るほどの余力はなかった。
とりあえず服を着ながら考えた。テーブルの上に、部屋のカードキーと一緒に置かれた、チェックイン時にもらったウエルカムドリンクのチケットが目に留まった。見ると一階にあるレストランのものらしい。エレベーターで下に降りるくらいなら身体も持ちそうだ。
急いだ方がいい。ブーツの代わりにハイカットのスニーカーに履き替えて部屋を出た。
レストランでウエルカムドリンクのビールとペスカトーレを腹に放り込んだ。味は疲れ過ぎていてあまりわからなかった。ホテルの自販機で500のビールを二本買って部屋に戻った。
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