第41話 宴

 土曜日の朝を迎えた。

 時田翠子は黒のパンツスーツを着て玄関に佇む。

 その隣には時田赤子が微妙に揺れながら立っていた。藤紫の小紋に金茶の帯を合わせた。

「赤子は行きたくないのです。死刑宣告は聞きたくないのです」

「お父様に呼ばれて拒否できる?」

「そのような無礼な行動には出られないのです。でも、赤子は拒みたい気分で一杯なのです」

 翠子は赤子の頭にふわりと手を置いた。髪を整えるように万遍なく撫でる。揺れ幅が小さくなった。

「見た目と違ってお父様の懐は深いわ。話せばわかって貰えるかもよ」

一縷いちるの望みに賭けるしかないのです。出来れば行きたくないのです」

 空気に微かな振動が伝わる。眼前の扉に鈍色の穴が現出した。

「赤ちゃん、お先にどうぞ」

「姉様、赤子は……行くしか、ないのです」

 翠子の微笑みに後押しされて覚悟を決める。白足袋の一歩を踏み出し、赤い鼻緒の草履を履いた。

「行くのです」

 自身に言い含めて穴の中に消えていった。

「次は私の番ね。それであんたはどうするつもりよ」

 翠子は振り返らないで言った。

「……俺はただの亡霊で、部外者ですから」

 仙石竜司は声を絞り出す。自嘲するような笑みで視線を下方に向けた。

「本当にそう思っているのなら、ここにはいないはずよね。まあ、気が乗らないならそれでもいい。私は行くから」

 返事を待つことなく翠子は穴へと消えた。

「姉御の言う通りです」

 竜司は眦を上げた。白い特攻服の裾をなびかせて収縮を始めた穴に駆け込んだ。


 世界は暮色に包まれた。苔むした岩が緋色に染められ、枝ぶりの良い松は火に焼かれて身悶えるように空へと伸びる。

「待っていたぞ」

 木造の回廊を背にした女性が屈託なく笑う。傍らには視線を落とした赤子がいた。

 翠子は軽く息を吐いて前に進み出た。

「お父様、どうして女性の姿なのですか」

「パパと呼んでくれてもいいのだぞ」

「ママなら考えなくもないです。それと」

 言葉を切って女性の全身を眺める。

「また虎柄ですか」

「今度は本物のワンピースだぞ。この姿はいいぞ。敏捷性に優れ、しかも配下の者にも好評だ。酌をしろと煩いが」

「……舐められていると思うのですが」

 竜司は翠子の耳元で囁いた。そうね、と短く返す。

 女性は気にする素振りを見せず、その場でくるりと回った。傍らにいる赤子の表情は冴えない。唇を引き結び、黒目勝ちの目は地面の一点に固定された。

 澱んだ空気を吹き飛ばす勢いで翠子が女性に詰め寄る。

「今日の呼び出しにはどのような意味があるのでしょうか」

「翠子の成長を祝う宴だぞ。今日は心の赴くままに楽しめばいいぞ」

 出だしの言葉に赤子の頭がピクリと動く。表情を見られたくないのか。項垂れる姿に変わってゆく。

「ここは堅苦しい場とは無縁の離れの中庭ですし、言葉通りに受け止めておきます」

「オレのあとに続くといいぞ。その前に小僧、こっちに来い」

「やはり部外者の参加は、認められないのですね」

 急かすように女性は手で招く。竜司は卑屈な笑みで従った。

「始めるぞ」

 女性は竜司の肩に手を置いた。全身がガクガクと震え出す。雷に打たれたような状態となり、手を離した瞬間に止まった。

「な、なん、なんですか、今のは!?」

「小僧も楽しめばいいぞ」

 掛け値なしの笑顔で踵を返すと女性は歩き出す。赤子は静々と従う。

 翠子は竜司の肩をポンポンと叩いた。

「よかったじゃない」

「え、俺の肩を、これって酒が飲めるってことですよね!」

「ここは女狐の世界とは違うぞ。早くしないと飲めなくなるぞ」

 先頭に立った女性は振り返らずに言った。

「十分ですよ!」

 竜司は喜び勇んで駆け出し、途中で引き返す。

「主役は姉御なんですよ。早く行きましょう!」

「いつも以上に暑苦しいわね、あんたは」

 満更でもない顔で翠子は差し出された手を握った。


 女性が代表で障子を開けた。膳を前に飲み食いに興じていた面々が一斉に振り返る。拍手や歓声が湧き起こり、一同を包み込む。

「翠子、皆に応えるのだぞ」

「なんか、恥ずかしいんだけど」

 女性は先頭で部屋の中央をゆく。赤子が足早に進み、竜司は戸惑ったような視線で続く。翠子は最後尾で左右にぎこちない笑顔を振り撒いた。

 部屋を区切る襖は取り払われ、長い道程となった。矢継ぎ早に送られる賛辞に翠子の対応もおざなりになってきた。

「はいはい、どうもね~」

 その時、着物姿の女性が箸を置いて立ち上がる。

「翠子様、この度の能力の開花、誠におめでとうございます」

「誰ですか?」

「私です」

 顔を覆っていた長い髪を左右に分ける。若々しいうりざね顔が現れた。

「いや、だから誰よ」

「影女です」

「……本当に?」

 言いながら近寄ってまじまじと見た。翠子の頭が徐々に傾いでいく。

「私は影となって皆様をお守りするのが勤めなので」

「影に徹し過ぎじゃないの。初対面と思ったし、それに意外と美人なんだね」

「アタシは可愛い可愛い天邪鬼ちゃんです! お姉様、祝福のチューをさせてください!」

 横手から飛び込んできた天邪鬼の頭を両手で挟むようにして受け止める。その姿で尚も前進を試み、懸命に唇を突き出す。往生際の悪さに翠子は苦笑した。

「仕方ないわね」

 翠子は顔を横に向けた。天邪鬼の唇を自身の頬に押し付ける。

「これで満足よね」

「唇がよかったのにぃ。舌を絡ませて、もっと濃厚なチューがしたかったのにぃ」

 巫女装束で不謹慎な言葉を吐く。周囲にいた赤鬼連中が下卑た笑い声を上げた。天邪鬼は程々に酔っているのか。頭が不安定に揺れていた。

「翠子、遅れているぞ!」

 遠くからの女性の声に翠子は、ほっとした表情になる。

「そういうことだから」

「わかりましたよぉ。次の機会にしますぅ」

 天邪鬼はすごすごと自分の席に戻っていった。膳の一品の胡麻豆腐を箸で掻っ込む。翠子はすまなそうな顔で、ごめんね、と口にした。

「影女、行くね」

「いってらっしゃいませ」

 恭しく頭を下げた。

 翠子は小走りで追い付いた。その後も称賛と拍手が続く。返す言葉が億劫というように片手を挙げて済ませた。

 角を曲がると襖が見えた。女性が引手に指を引っ掛ける。

「ここはオレ達だけの部屋だぞ」

 言いながら襖を開けた。一列に並べられた膳の一つに大柄な女性の姿があった。白いワンピースに同色の鍔広帽子を深々と被っている。表情は見えないが姉妹は一目で理解して正座の姿勢を取った。

「お母様、ただいま帰りました。今日は華々しい宴を催していただき、ありがとうございます」

「……赤子も戻ったのです」

 口数は極端に少ない。半ば頭を下げた状態で固まった。 

「ぽぽ、ぽぽ、ぽぽぽ、ぽぽぽぽ……」

「二人共、よく帰ってきたと、ママも喜んでいるぞ」

 竜司は部屋の隅で正座となり、八尺様? の一言で首を傾げる。

 女性は自分の席に腰を下ろした。早速、片膝を立てる。瞬間的に竜司は顔を背けてプルプルと震え出す。

 翠子の目が鋭くなる。

「お父様、見えています」

「黒カビ塗れのお稲荷さんは見えないはずだぞ」

「そうですけど、黒アワビが丸見えになっています!」

「今は同性だぞ。気にすることはないぞ」

「異性もいるでしょ、そこに!」

 翠子は竜司を指差した。女性は、やれやれ、と声に出して正座の姿となった。

「今日は無礼講だぞ。宴を楽しむがいい。小僧の席はここだぞ」

「あ、ありがとうございます」

 示された左端に竜司は零れる笑みで向かう。

 赤子は顔を上げた。決意を目に滲ませる。

父様ととさま、姉様が跡目を継ぐことになるのですか」

「跡目とは何の話だ?」

「父様の跡を継いで、一族の更なる隆盛を目指す意味なのです」

「オレの代はまだまだ終わらんぞ。見立てでは、あと1000年は健在だぞ」

 女性は膝頭を叩いて笑った。その話に翠子が口を挟む。

「じゃあ、この宴はなに? 私の能力の発現を待ち侘びていたんじゃないの?」

「もちろん、待っていたぞ。オレには敵が多いから心配だった。今の翠子ならば返り討ちにできるので安心したぞ」

「ぽぽぽ、ぽぽぽぽ、ぽぽ」

 母親の明るい口調が場を和ませる。

「宴の始まりだぞ」

 女性は豪快な笑みで脚を崩した。片膝となって徳利を摘まんで飲み始める。

「だから、黒アワビが見えてるんだよ!」

 翠子の怒声に一同の笑い声が重なった。

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