4-3

 エレベーターが赤坂ロイヤルホテル三十階に到着する。本屋の袋を胸元に抱えた浅丘美月はエレベーターを降りた。後ろから三浦英司も降りてくる。

三十階通路の奥から三番目の扉に三浦がカードキーを差し込んだ。


『明日になれば逃げなかったことを後悔するぞ』

「もうすでに後悔してます」


 憂鬱な気分で彼女は開けられた扉から部屋に入った。わずか2時間足らずの外出もこれで終わり。本当はここに帰って来たくはなかった。

ここに戻ればまた閉じ込められるとわかってるのにどうして逃げなかったのか自分でも馬鹿だと思う。


「本、ありがとうございました」

『それくらいどうってことない。欲しい物があればまた買ってきてやる』


新宿の書店で文庫本三冊とファッション誌を購入した。支払いは三浦が済ませてくれた。


『どうして逃げなかった?』

「……約束したから」


 部屋の入り口を隔てて向かい合う二人。彼は部屋には入らずに扉に手をかけて美月を見下ろした。


『俺との約束なんか破っても構わないだろ? 逃げなければまたキングの籠の鳥に戻ることになるんだ』

「三浦先生は私に逃げて欲しかったんですか?」


ヒールの高いブーツを履いていても身長差のある彼を美月は見上げた。真っ直ぐで汚れのない瞳に彼の驚いた顔が映り込む。


『俺は……』


そこから先を彼は答えられない。美月は視線をゆっくり下げた。


「三浦先生が……昔好きだった人に似ているんです。顔も口調も似ていないのに似てるって思っちゃったの。だから先生と一緒に居たかった」


下げた視線の先に彼の靴が見える。磨かれた綺麗な革靴。キングも同じような靴を履いていた。


「先生の事が好きとか、そういうのじゃないんです。でも私は先生をあの人の代わりにしていた。ごめんなさい」

『……謝ることじゃない』


 やっとの想いで出した言葉も一言で終わってしまう。互いに、互いの知らぬところで心臓が激しく鳴っていた。


『だから逃げなかったのか? 俺と一緒にいるために……』

「馬鹿ですよね。こんなこと考えてる場合じゃないのに。女なんてどうせ好きな人のことしか考えてない、そう思って呆れてますよね」


 うつむく美月の髪に触れようと伸ばしかけた手を彼は止める。

美月の柔らかな髪に触れたかった。華奢な肩を抱き寄せて、この腕の中に閉じ込めたい、唇を重ねたい、今すぐ彼女のすべてが欲しい。

抑えられない衝動を無理やり押さえつけ、彷徨う手でドアノブを掴んだ。


『朝食の時間、7時か8時かどちらがいい?』

「……8時」

『わかった。明日8時にまた来る。……おやすみ』

「おやすみなさい」


 閉ざされた扉越しに二人は同時に溜息をついた。


 施錠した3003号室の扉に背をつけて佐藤は美月に触れかけた右手を見下ろす。この手でこれまでどれだけの人間を殺してきたか、数え切れない。

血にまみれたこの手で美月に触れてしまえば3年前の月夜の繰り返しだ。


本音は美月に逃げて欲しかった。このままだと美月は一生の人生を貴嶋に捕らわれる。

貴嶋の美月への執着は佐藤の予想を越えていた。貴嶋は美月を永遠に手離さず、己の支配下の籠で飼い馴らすつもりだ。

貴嶋が美月を抱くのも時間の問題。もし二人がそうなった時、自分はどうすればいい?


 廊下の最奥、3001号室の扉が開く音で佐藤は顔を上げた。黒いトレンチコートを羽織った寺沢莉央が部屋から出てくる。


「お姫様とのデートは終わったの?」

『デートではありませんよ』

「好き同士の人間が一緒に出掛けることをデートと呼ぶのよ?」


彼女は3003号室の前で佐藤と並び、佐藤がかけていた眼鏡に触れる。顔はファントムが造った特殊マスクで変装した三浦英司でも、瞳は佐藤瞬のもの。

莉央の細長い指が眼鏡を外した。


「デートの後なのに悲しい顔ね」

『一番嘘をつきたくない人に嘘をついていますから』


悲しく笑う佐藤の頬に莉央の手が添えられる。本物の皮膚と同じ質感の作り物の肌を莉央は優しく撫でた。


「そうね。一番大事な人だから自分が悪者になっても嘘をつき続けて欺き通す。貴方のそういうところ、好きよ」


 赤に近いピンク色に彩られた唇が微笑んでいる。外した眼鏡を佐藤に返して彼女は通路を進んだ。眼鏡をかけた佐藤もエレベーターホールまで莉央と共に歩いた。


『今から外出ですか?』

「ええ。キングの帰りも夜中になるでしょう。私も少し出掛けてくるわ」


佐藤に向けてひらひらと手を振った莉央は下りのエレベーターの中に消えた。

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