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 矢野一輝が走行中の車内で白い歯を見せて笑っている。日差しが気持ちいい午後2時の街は穏やかだ。


『……で、“もしそうなった時は……”の続きは何て答えたんですか?』

『面白がってるだろ』


今朝の出来事を矢野に話したのは失敗だったとハンドルを握る早河は舌打ちした。


『半分はねー。もう半分は真面目に聞いてますよ。ついに香道家にお呼ばれですからね。これは一大事だ』


 中野区にある警察病院の駐車場に車が滑り込んだタイミングで矢野が指を鳴らす。


『まさか、“そうなった時は俺と駆け落ちしよう”とか、キザァなこと言ったりしてませんよね?』


車を駐車してシートベルトを外した早河の動きが止まった。不思議な間が空いた後、矢野が笑い出す。


『マジ? エスパー矢野くん大正解?』

『……行くぞ』


 ばつの悪い顔で先に車を降りた早河に続いて矢野も車を降りた。駐車場を覆う木々から落ちた枯れ葉がコンクリートの上で舞っている。


『ほぉ、駆け落ちかぁ。早河さんがそんなこと言うようになるとは。今夜、お父さんに娘さんを下さいーっ! って土下座するわけですね。ダメだ! お前に娘はやらないっ! と言われた時には二人手を取り愛のラブラブ逃避行……』

『勝手にニヤニヤするな』


駐車場を横切って目の前にそびえる四角い建物を目指す。早河の横に矢野が並んだ。


『お前は小山の親には挨拶行ったのか?』

『まだ。真紀の家は離婚してるから俺が会うのはお母さんと妹さんだけかな。ちゃんと娘さんを下さいって言いに行きますよ。その為にも……』


矢野が立ち止まり、早河も足を止めた。


『この勝負、負けられませんね』

『ああ。絶対にな』


 二人は再び歩を進めて警察病院の扉を潜り、入念なボディチェックを受けて外科病棟に入った。

2週間前に腹部を刺されて負傷した警察庁の阿部知己警視がこの病院に入院している。警察庁ホープの阿部だけあり、病棟の廊下には見張りの警官が配置されて厳戒体制の警備だ。


『物々しい雰囲気だなぁ』

『警察病院なんてどこもそんなものだ』


 早河が阿部警視の病室の扉をノックした。スライド式の扉が開いて腹部がふっくらとした女性が二人を出迎える。妊娠中の阿部の妻だ。

阿部夫人に会釈して室内に招かれる。この病室の主の阿部知己はベッドに上半身を起こして新聞を読んでいた。


『おう。来たか』

『お加減いかがですか?』

『安定してる。来月半ばには職場復帰できそうだ』


 阿部は夫人に目配せする。この夫婦にはそれだけで意志疎通ができるのだろう。

夫人はロッカーから紙袋を出してそこから見舞いの品と思われるクッキーの缶を取り出した。


長方形のクッキー缶の中にはひとつひとつ小袋で包装されたクッキーが敷き詰められている。土産物によくあるクッキーの詰め合わせだ。


『見たところ毒入りではなさそうだ。好きに食っていいぞ』

『遠慮なくいただきまーす』


微笑した夫人の手からクッキーを受け取った矢野は小袋の封を切る。クッキーは丸い形のチョコチップクッキーだった。


『その見舞いの品が昨日家に送られて来た』

『病院ではなく警視の自宅に?』

『そうだ。差出人は俺の大学の同級生……だがそいつに確認したところ、そんなもの送った覚えはないと言っていた。中身は普通のクッキーだが……』


 淡々とした口調で語った阿部は缶に敷き詰められているクッキーを全て出して仕切りに使われているトレーとその下に敷かれたクラフト紙も取り去った。


『クッキーの下にこれが入っていた』


テーブルの上に散らばるクッキーと無惨に取り払われたトレーとクラフト紙。そして金色に光る缶の底には黒色のUSBメモリが横たわっていた。

USBが阿部から早河の手に渡る。


『中はご覧になりました?』

『一通りは。ただ俺の方ではデータのバックアップは取っていない。俺のパソコンがいつ狙われるかわからないからな』

『警視のPCのセキュリティシステムのレベル上げましょうか? 矢野なら1日あれば仕上げられますよ』


 早河と阿部が矢野を見た。三つ目のクッキーを食べていた矢野は咀嚼したクッキーを飲み込んで手についたクッキーの残りかすを払った。


『1日で仕上げろはハードル高いなぁ。けどカオスのスパイダーには及ばなくても警察や他の組織からのハッキングを防ぐ程度なら俺が作ったセキュリティシステムでガードが可能です』

『お前の腕は武田大臣のお墨付きだ。任せる』


点滴スタンドを引いて阿部がベッドを降りた。彼は腰を屈めてベッドのマットレスを少し動かした。早河と矢野も手伝い、ずらしたマットレスの下から現れた物は黒色のノートパソコン。


『おお、そんなところに。さすが抜かりないですね』

『味方の中に敵が紛れ込んでいる。いつでも油断はできない。頼んだぞ』

『了解です』


 矢野は阿部のノートパソコンを受け取り、それを阿部夫人から渡されたケーキ屋のビニール袋に入れた。袋は他にもあったが、矢野はあえてケーキ屋のロゴの入る黄色い袋を選んだ。


『そのUSBで二本目というとこか?』


阿部は夫人に支えられてベッドに戻った。動くとまだ傷が痛むようで彼は顔をしかめている。


『前回と送り主が同じならそうなりますね』

『同じなら……か。俺には送り主がどういうつもりなのか全く不明だが、今はこのUSBに賭けるしかない。そしてそれは早河、お前が持っていることに意味があるのだろう。送り主もお前の手に渡ることを見越して俺に送り付けている』

『俺にも送り主の意図は不明ですよ。遊んでいるのか遊ばれているのか。もしかすると俺達を翻弄して楽しんでいるのかもしれません』


早河は黒色のUSBをスーツの内ポケットに入れて室内を見回した。


『あれから盗聴の方は?』

『今のところはない。俺の意識がなかった間とこの病院に移った初日だけだ。盗聴器探しが毎朝毎晩の日課になってる。病室に盗聴器を仕掛けることができる人間は医者、看護師、警察関係者……ある意味ここは監獄だな。毎日監視されてる気分だ』


 胸に手を当てた阿部は呼吸が苦しそうだった。2週間前に死の淵を彷徨さまよっていた人だ。まだ体調が回復しきっていない。


『もう休まれた方がいいですよ。俺達もそろそろおいとまします』

『呼び出してすまなかったな。気を付けて帰れよ』


 夫人の手を借りて横になった阿部に一礼して早河と矢野は病室を辞した。二人はエレベーターホールの手前で立ち止まる。

早河の視線は非常階段とエレベーターに交互に向けられた。


『さーてワトソンくん。表から出るか裏から出るか、どちらにしよう?』

『この場合は裏から出る方が怪しさMAXですよねー。堂々と表から出ようじゃありませんか、ホームズさん。これ、まじにホームズ最後の事件の再現みたいでわくわくしますねぇ』


阿部のパソコンが入るケーキ屋の袋を提げた矢野がエレベーターのボタンを押した。


『って言うか、俺はいつから早河さんのワトソンくんになったんですか? 早河さんのワトソンくんはなぎさちゃんでしょ』

『なぎさはハドスン夫人』

『いやー、ホームズを翻弄する唯一の女のアイリーンでしょう。早河さん、めちゃくちゃ翻弄されてるじゃないですか』

『俺がいつなぎさに翻弄された?』

『24時間いつも。まさかあんなに四六時中、なぎさちゃんにデレッとしてるのに気付いてないのー?』


 冗談を言い合ってエレベーターで階下に降りる間も二人は周囲の警戒を怠らない。現状は敵も味方も入り乱れている。

誰が敵で誰が味方かわからないこの状況で油断はできない。


『斜め後ろ方向に一人』

『予想通り来たね。狙いはやっぱり阿部警視のPC?』

『中身が何かまでは相手は把握していないと思う。たぶん俺達が警視の病室から何かを持ち出したとしか思っていない』

『わざと目立つケーキ屋の袋に入れておびきよせる策は正解だったってことか』


 エントランスを出た先で早河と矢野は歩く速度を速めた。早河達の後ろをついてくるスーツ姿の男も速度を上げる。


『後で病院のカメラをハッキングして映像から俺達をつけている男の顔を割り出してくれ。アイツが刑事なら警察官データベースで一致する刑事がいるはずだ』

『あいよー。矢野くん今回は仕事が沢山だなぁ。自分の職業が何かわからなくなりそう』

『お前の職業はマジシャンエスパー矢野くんだ』

『待って! 俺が一番なりたい職業は真紀の旦那さんなんだけど!』


二人は素早く車に乗り込み、追っ手の男を振り切るようにして駐車場を飛び出した。

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