第21話黒い黄金
「……貴様が、戸上想苗だと?」
「えぇ。聞き違いなどではなく、そう申しましたよ?」
冷たい声音で問う【金宝】に、霊魔は軽い調子で応じた。「逆にお聞きしますが、どこかおかしいですか?」
くるりとその場で回ると、霊魔は小首を傾げる――その肢体、所作は完全に、【金宝】の見知った人間のそれだった。
纏う衣装の細部も、霊魔の前で伏す想苗殿そのままである。まあ、その色のみ、月も呑み込むような漆黒ではあるが。
翻る外套の裾が、黒い火花を辺りに散らす。瘴気の衣というわけか。
「いかがです? どこからどう見ても、そこで沙汰を待つ愚かなワタシでしょう?」
その出来映えは確かにと、【金宝】も同意せざるを得ないほどだ。
先刻まで相対していた霊魔は単なる顔真似に過ぎなかったが、こいつは、より高く深い部分で想苗殿になっている。
「勿論見た目だけではありません、ワタシが来たのは此処より遥か底、心の深層。記憶だって確りと。【戸上想苗】を構成するあらゆる事象が、ワタシには含まれておりますよ」
「…………」
「貴方の扱い方も、我が夫祐一郎様が授けたあらゆる剣術も、余すところ無く」
霊魔は、未だうずくまる想苗殿を、侮蔑の眼差しで見下ろした。
「……ヒトは弱く小さい、哀れなほどに。それ故に覚えていられないあらゆる何事をも、えぇ、えぇ、ワタシならば覚えていられる。扱いきれる、救いきれるのですよ」
想苗殿へと向けた最後の言葉には、慈愛の笑みまでもが付随していた。
御仏に縋る女と、彼女に救いをもたらす天女のようにさえ、見えただろう――過去に傷つき膝をついた
或いは――蛹から羽化した蝶のように見えたかもしれない。
それも間違いではない。
羽化した直後の昆虫は消化器官が未発達なので、食べられるものが限られるのだ。
「だからさっさと諦めなさい、ワタシ。貴女では、結局何も救えはしないのだから」
「どいつもこいつも……」
「ん……?」
割り込んだ声に、霊魔は意外そうに首を傾げた。
ぐるりと巡らせた視線の先には、傷だらけの刀霊の姿。
それ自体は別に、意外でも何でもない――刀霊は淡白なようで執着心が強い。永らくヒトの手に握られてい過ぎて、その温もりに包まれていたいのだろうから。
霊魔が意外に思ったのは、彼の声そのものだ。
その声は、やけに静かだった。
怒りに荒れ狂ってもいないし、絶望に沈んでもいない。
熱くも冷たくもない、ただただ静かなだけの声色に、だからこそ、霊魔は理解できない。
それは生き物の声ではない。
まるで――鋼の音だ。
「ヒトの内に忍び入り、心に巣くい、記憶を覗き見て。姿を真似て着飾って、それでヒトに成れたつもりになる。どいつもこいつも」
「戸上想苗の感情を飲み、戸上想苗の記憶を食い、戸上想苗の姿となった。彼女の人生を全て見て、聞いて、感じてきた。彼女と同じ空気を吸ったのよ、ワタシ。もう、ワタシは彼女とおんなじでしょう?」
「……貴様の手勢にも、先程言ったが。あぁ、あの部下にしてこの頭ありだな、お前にも同じように伝えようか」
「それも結局、単なる児戯だ」
「……なん、ですって?」
「児戯と言った」
先程までの上機嫌さが反転した霊魔に、【金宝】は退屈そうに言う。「聞き違いなどではなく、そう言ったんだよ、霊魔」
ぞわり、波打つような霊魔の気配など意にも解さんとばかり、【金宝】は羽繕いしながら、幼子に「お前ヒトは空を飛べぬのですよ」と言って聞かせるように、淡々と真理を説いた。
淡々と、淡々と。
静かに。鋼のような静かな音で。
「伝記を貪るように読んで、兜に鎧、陣羽織を買い揃えて、それで出来上がるのは何だ? 信玄公に憧れる、ただの小僧だよ、霊魔」
「っ!!」
「お前のはそれだ。風呂敷被って枝を振り回す、
ヒトは、どれだけ憧れても自分以外の誰かにはなれない。憧れを調べ、深く理解し、同様に振る舞っても、良く似た自分になれるだけ。
霊魔も、それと同じだ。似せられるだけで、同じにはなれない。
成り代わることなど、誰にも出来ない。
「……起きよ、想苗殿」
だから。【金宝】は彼女に呼び掛ける。
「早く、速く。起きて我を手に取られよ、想苗殿。こやつは霊魔だ、単なる霊魔なのだ。奴等を前にして、貴女に寝ている時間など半刻だってありはしません」
ぴくりと。
想苗殿の身体が身動ぎしたのを、【金宝】は勿論見付けている。
解っている。彼女が勿論、解っていることを。
だから、【金宝】は呼ぶ。答えがあると、信じているから。
「起きよ、戸上想苗っ! 貴女は――花守でしょう!!」
「解っています……っ!!」
思ったよりも力強く。
思ったよりも熱く、鋭く、強く。
跳ね起き、翳した右手に慣れ親しんだ重さが宿った。
全長五尺。
鬼灯丁子の見事な刀身は、ぼんやりと黄金色に淡く輝いている。
鞘の意匠から、その大太刀は昔も今も、変わらずこう呼ばれている。
「【金宝】!!」
緒人の目を惹き付け、邪悪を焼き尽くす黄金の神気を迸らせて。
想苗の手に戻った大太刀が、一直線に霊魔の首筋へと突き進んでいく。
――獲った。
速度、機会。
想苗も、【金宝】でさえもそう思うほど、その一閃は全てが完璧だった。
寸瞬の内には刃は霊魔に達し、その首を刎ねるだろう。想苗たちは冷静にそう確信して。
「やはり、こうなりますか」
「なっ……」
愕然と、中空で停止した切っ先を見詰めた。
霊魔によって防がれた、それを理解しながらも、想苗は尚も信じられぬと目を見開き、見詰めることしか出来ない。
「先程、申しましたよ?」
飄々と、それで【金宝】を受け止めながら、霊魔は微笑んだ。「『ワタシは戸上想苗とおんなじ』だと」
『馬鹿な……』
「彼女の持ち物ならば、えぇ、えぇ、ワタシの持ち物でもあるのですよ?」
全長、五尺。
鬼灯丁子の見事な刀身を包む、黄金の瘴気。
「――【
呼ばれたその名に応じるように。
放たれた黄金が、想苗の身体を吹き飛ばした。
刀霊と霊魔は似ていると、それは、戸上想苗の心に辿り着いてからずっとずっと、考えていた。
刀霊は霊力、霊魔は瘴気。
ヒトにとっての血肉の代わりに、どちらも物質ではない力を使う――ヒトにとって毒となる、人智外の力を。
瘴気はヒトにとってそもそも毒である。だが霊力や神気だって、度を超せば毒となる。単に、結末が霊魔かそれとも神かというだけだ。
刀霊には確固たる意思がある、が、霊魔だってそれを得ることはできる。同じように長い時間を経て、力を蓄え、常世の理に抗い続ければ、霊魔も意思を得ることができる。
魂を、得ることができる。
ヒトと寄り添ってきたのも、同じだ。
そもそもヒトの作った物に宿った刀霊と同じように、霊魔だって、ヒトの傍に常に在った。
月の無い夜、不意に吹いた風に消えた行灯の名残に束の間映る、己以外の誰かの影。
或いは深い森の奥、鬱蒼と繁る木の葉に遮られた陽射しが見せる、獣の影。
或いは、或いは、或いは――生命がつくるあらゆる影に、霊魔はずっと潜んでいた。
あの大災害が常世を瘴気で満たさなければ、もしかしたらずっと、霊魔はヒトの影に居続けたかもしれない――自然発生した霊魔と一部の家に伝わる刀霊とが戦い、それを目撃した目の良い者が魑魅魍魎として、時たま見咎め語り継ぐ程度の存在に、もしかしたらなったかもしれない。
そして、霊魔が溢れなければ、刀霊もこうして世に溢れることも。
いや、と。
それは静かに首を振った。
きっとそうはならかっただろう――霊魔も刀霊も、瘴気の氾濫が無くてもきっとこうして日の国に現れて。
そして、こうなっただろう。
刀霊と霊魔は、似ている。
『似ている』とは、同じ『ではない』。
刀霊はヒトのつくった武器。刀に宿った付喪神であるからだろうか、ヒトの敵と戦い、ヒトを守ることを良しとする。
霊魔はヒトの落とした影。光と真逆の性質に、ヒトの毒を糧として生まれて育つ、ヒトの敵として咲く
性質は似ているかもしれない。
もしかしたら、生まれは同じでさえあるかもしれない。
だが――。
違う。
違うのだ、刀霊。
霊魔は――ヒトの業。ヒトの影。ヒトの――敵だ。
だから。
霊魔は、ヒトを目指すのだ。
「うふふふふ……」
「くっ……」
笑いながら振るわれる大太刀を、想苗は辛うじてかわす。
崩れた、いや、崩された体勢に襲い掛かる第二擊、三擊目を【金宝】で受ける。甲高い金属音が、悲鳴のように響き渡った。
『想苗殿、この重さは……っ!!』
「わかって、います……」
「解ってくれますよね?
そして、という言葉を想苗は聞いた気がした――そして、それを振るう技も貴女のものよ、と。
霊魔は戸上想苗の記憶を見て聞いて、全て体験した――全て、全て。
戸上祐一郎の教えたあらゆる技を、霊魔は知っているのだ。
「
「それも、知っていますよ?」
構えた瞬間に、技が潰される。
理解しているのだと、理解させられる。自分と同じ技を、自分と同じように。
「いいえ?」
『そいつは、霊魔です……、ヒトの肉体ではない!』
「同じ技でも、差は当然。身体の出来が、違うのですからね」
想苗が両手で振るう大太刀を、霊魔は軽々と片手で振るえてしまう。
受ける度に手首が軋み、身体が浮くほど重みのある斬擊が、何度も何度も繰り返し繰り返し、しかも笑いながら振るわれるのだ。
限界が近い。
想苗の心に絶望が這い寄り始めた、そのときだった。霊魔がふと、その手を止めた。
「……もういいのでは?」
「な……?」
「力の差は、もう解ったでしょう。瘴気を扱えば、こういうことが出来るということは、とても、とても良く」
いったい、何が言いたいのか。
突然自慢のような話を始めた霊魔に、想苗は顔をしかめる。
「……確かに貴女との間には力の差があり、どう考えてもけして勝てぬ相手。けれど、それに立ち向かうのが私たち人間です。そんなことで、諦めるとでも……」
『そもそも話を聞いてはなりません、想苗殿。あれは敵、敵の言葉は戯れ言か策略のいずれかと思うべきです』
「あらあら。見た目以上に余裕の無いことですね、貴女たち」
ころころと笑いながら、ふと、霊魔の目が鋭く輝く。「なら、そうですね。そうしてあげましょうか?」
霊魔の周囲に、瘴気が集まる。
本体に斬りかかるか、周囲の瘴気から祓うか。考えながら身構える想苗に、霊魔はまたしても、優しげな笑みを浮かべた。
「打ち据えても打ち据えても生えてくる。それなら――根から立ってあげましょう。花守、どうぞお楽しみになってね?」
霊魔が拡げた、両手の下。
常人なら一呼吸で死に至るような濃度の瘴気に、想苗は決断する。あれで何をするにしろ、それをさせては不味い。
幸い、霊魔は両手を大きく広げていて、直ぐには防御も反撃も行えない。
今なら――斬れる。
残る体力をかき集め、想苗は全力で踏み込んだ。狙うのは、勿論首。最早、一撃必殺を狙うしか手はない。
「覚悟っ!!」
体重と【金宝】の重さ。
その全てを乗せた一撃は、しかし。
「――え?」
『想苗殿?!』
短い呟きと共に、力無く虚空をなぞった。
想苗の腕から、足から、心から。力が抜けていくのを感じ、【金宝】は静かに目を閉じる。
あぁ。
彼女の敗けだ。
「そんな、そん、な……」
「何が不思議ですか、ワタシ?」
微笑みながら、霊魔は首を傾げた。そして、両脇で二人も同じように首を傾げた。
「瘴気に呑まれた花守がどうなるか、貴女は知っているでしょう?」
そもそも、入れ物はとっくに出来ていた。
想苗の脳は記憶を使って、精密な幻覚を既に常に生み出している。あとは――そこに血肉の代わりを注げばいい。
霊魔の身を構成するように。
人智を超えた、力を。
「ワタシにはできる」
想苗、と呼び掛ける声が聞こえる。
優しくて、暖かくて、もう失った筈の声。
「霊魔ですからね、えぇ、えぇ、出来るのですよ、想苗」
お母さん、と呼ぶ声がする。
希望と生命に溢れた、春のような声。
「人間よりもワタシは強く、【金宝】よりも【
想苗の最愛にして最大の弱点。
彼女の家族二人は、完璧な仕草と表情で、霊魔に微笑みかけている。
「全てが取り戻せる。戸上想苗の望む全てが」
だからねえ、と霊魔は、【外ツ神ノ供エ】は囁いた。
囁いて、優雅に片手を差し出した。
毒のように。
薬のように。
「早くワタシになってちょうだい?」
想苗は。
目の前に差し出された、その手を。
二人の家族が笑顔で待つ、その先を。
「……ごめんなさい、【金宝】……」
ゆっくりと、握り返した。
一滴、涙が頬を撫でる。温い愛撫が、想苗の最後の記憶となった。
――獲った。
霊魔が、邪悪な笑みを浮かべた刹那。彼女は、意外な声を再び聞いた。
『こちらこそです、想苗殿』
いつの間にか出現した刀霊が、鋼のように静かに告げる。『最後まで、御守りできなんだ』
「っ、しまっ……っ!!」
『御先に……失礼いたします』
その声に続く黄金の輝きが、肌を焼く太陽の感触が、霊魔の最後の記憶となった。
そして、なにも残らなかった――『戸上想苗』以外には。
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