第18話微睡みの暗闇
刀霊【金宝】が戸上の家に居憑いたのは先代当主祐一郎から数えて三代目の頃だったが、彼がこの大太刀に宿ったのはそれよりも遥か昔、三百年ほど前の事だった。
今とは違い、それでも多くの時代と同じく、人が人と争っている時代だった――狭い国、少ない土地を巡って何百人もの血が毎月のように流されていた。
彼は一介の侍だった――特定の国を持たず、時々の隆盛に乗じて手柄を挙げ、金を貰う。
たまたま焼け落ちた敵城で見付けた立派な大太刀は、彼の名前よりも有名になった。鞘に彫られた花の名前が、やがて彼の名前になった。
悪くない日々だった。
彼は強く、何より抜け目がなかった。戦の気配を敏感に察し、入念に調査をして、必ず勝てる方に加勢した。
戦場では徹底して多対一を心掛け、搦め手だろうと不意討ちだろうと何でもやった――ただ唯一、加勢した軍を裏切ることだけはしなかった。
勝てると信じ勝つ方に賭けたのだから何でもするのは当然だし、負けたら潔く散るだけの分別は持っていたのだ。
彼は勝つために努力をし続け、そして勝ち続けた。いつしか、彼が加担した方が勝つ、とさえ言われるほどに。
家名も土地も持たぬ割りに、彼は随分と稼いでいた。銭は唸る程あり、毎晩のように飲み歩いたものだった。
良い身分だといえるだろう、少なくとも悪い気分で人生を歩んではいなかった。
そう。
あの時までは。
「ここには、あまり人が居ないのだな」
次の戦場にと見定めた国の見分で、彼はある村に立ち寄った。
小判をちらつかせるまでもなく旅人を歓迎したのは、女子供に老人ばかり。それも、両手で数えきれる程度の数だ。
「へ、へえ……」
よろよろと酒を運んできた老婆が、歯の無い口で器用に笑う。「なんせぇこの
「……ふうん」
思い起こせば確かに、ここに来るまでに見た田畑は随分と荒れていた。
男手が無い分、手が回らないのだろう。囲炉裏の明かりだけでは見辛いが、良く見れば通された屋敷も壁や床に穴が開いていた。
「何で、殿様は
「欲しいものがあるんだろう」
この国の場合、それは金だった。隣の国では金の鉱脈が見付かり、はしゃいでいるようだったから。「人はいつでも、欲しいもののために争うものだ」
「他所様のもんまで、なして欲しがるんじゃろうなぁ。自分とこん田んぼ耕して、夜ぁ仲間で騒いで。仏さんに手ぇ合わせて生きてりゃあ、だいたいどうにがなるべさ」
そう言って、老婆は座敷の隅に這っていった。
崩れかけで手入れも足りていないその中で、その一角だけはやけに綺麗だった。
どうやらそこは仏壇らしく、鈍く光る仏像に、老婆は一心不乱に祈っていた。
「何を、祈るんだ?」
「いつか。いつか、戦が終わって、みぃんなが帰ってくる日を、ですだ」
「……そりゃあ、良いな」
「きっと来るでさ、旅人さん。みぃんながちぃっとずつ、他所様を大事に思っていきゃあ、いつかね」
それまで、儂らは笑っとりますわ。
そう言って笑う老婆から、彼はそっと顔をそらした。
欠けた茶碗で飲む酒は、少し酸っぱく感じられた――顔をしかめたくなるくらい、酸っぱく、酸っぱく。
それから一月後。
彼が属した軍はその村を焼き討ちにした。
何故ならそこは戦略上重要な場所で、そこに敵国の住民がいるというのはとてもとても都合が悪かったからだ。
勝つためには何でもやる。今まで通りだ。
死なないためには誰でも殺す。今まで通りだ。
今まで通りのことをやって、今まで通り彼は勝った。
「……畜生め」
焼け落ちた屋敷の臭いが嫌で、彼は空を見上げた。青い空の高いところを、鳶が悠々と、鋭く翔んでいた。
――そこは未だ、空気は清いままなのか?
――ここは、酷い。
「見ろよ、これ!!」
突然の声に、振り返った。
同僚の雇われ兵が、痩けた頬に下品な笑みを浮かべている。
山賊上がりのそいつは、親分の命令に背いて略奪して、居場所を無くしたのだった。そしてどうやらその悪癖は、生きるか死ぬかの世界に放り込まれたくらいじゃあ治らなかったようだ。
そいつは、屋敷の跡を物色していた。
そして見付けた――小さな、小さな希望を。
「こいつは黄金だぜ!」
仏像の煤を擦り落として、そいつは笑った。「ちいっせえしきったねぇが、ぎゃはは、お宝にゃあ違いねぇっ! ……あん?」
拾い上げようとして、そいつは首を傾げた。
何かに引っ掛かっているようだ。癇癪を起こしたそいつが力任せに引っ張ると――出てきた。
黒焦げになった、誰かの死骸が。
「っ、うおおっ、お、驚かしやがって!」
死体は、仏像を握り締めていた。縋るように、祈るように。「ちいっ、くそっ、外れろっ、この、このっ!!」
「……おい」
「っああぁ、めんどくせぇっ!!」
「っ!!」
そいつは、刀を抜いた。
――少しずつ、他所様を大事に思っていきゃあ。
誰かの祈りが、聞こえた気がした。
「離しやがれっ、こいつぁもう、俺のもんだっ!!」
「……いいや」
そいつが死体の腕を切り落とすより、早く。
「それは、他所様のものだ」
彼の太刀が、そいつの腕を斬り落とした。
「……結局」
黄金の鳥が、ぼやくように呟いた。「いつの世も同じ。誰も彼も、黄金に目が眩む」
彼は仲間殺しの罪で追われることとなった。
多くの敵を作ったし、味方など一人もいなかった――彼の罪より、彼が持っていると噂される黄金の方が重かったのだ。
傷付いて、最後に辿り着いた神社で。
金箔で飾られた仏像の前で。
ぼんやりと空を見上げながら、彼は嗤った。
――いいとも。それなら、そうしてやるさ。
生きてる奴等は皆黄金が好きだ。
死んでる奴等の浄土は黄金だ。
「彼はそうしてやると決めた。その、緩やかな
羽ばたきながら、【金宝】は顔をしかめる。「私の能力は【意識の集中】。我が輝きを見たものの意識を、我に集中させること。こうして、人の意識の中に入り込むことも出来るのです――抵抗されなければ」
声を、想苗は暗闇で聞いていた。
心地の良い暗闇だった――人に残された最古の記憶、産まれ落ちる前、融け合いながら揺られていた他人の肉体。
熱くも冷めてもいない、ぬるま湯に身体を浸しながら。
自分の鼓動と暗闇の脈動とが、徐々に徐々に、調子が合っていく。二つが一つ、いや、それ以上が、一つになっていく。
自分が、作り替えられていくような。
何もかも間違いだらけの癖に、それが正しいのだと囁くような。
『良いの、良いよね、良いんだよ、お母さん。僕はきっと死んでいなくて、お母さんが助けに来てくれるのを待っているんだよ』
声がする。間違いで正しさを塗り潰そうと。
『あぁ、そうとも、想苗。僕は弱くて駄目だったけれど、こうして声を出せる、言葉を届けられるじゃないか。君は花守としてとてもとても優秀だから。僕の声を聞けるんだよ』
声がする。期待で記憶を塗り替えようと。
『お母さん』
『想苗』
『『助けてくれるよね?』』
「否定。それではいけません、想苗殿。その声に従っては行けません、何処へも、何者にもなれません」
暗闇に、黄金が灯る。
羽ばたきに闇が仰け反り、瘴気が束の間追いやられる。その間隙を逃さぬとばかり、太陽のように燃える鳥が飛び込んでくる。
あぁ。
この声はきっと正しい。
正しくて、正しすぎて――間違えて、欲しいと思ってしまう。
だって、そうだろう。
この正しい声に従って、それでどうなるって言うの?
黄金の光、強い光、正しい光。けれどその正しさは、きっと、この心地の良い過ちさえも赦しはしない。この微睡みの閨を、斟酌なく焼き尽くしてしまうだろう。
それで良いの?
この優しさに触れる機会を、この先永遠に失うとして、耐えられるの?
そうまでして正しく在らねば、本当に、いけないの?
「……想苗殿。貴女は――何になろうとしたのですか?」
何に、何に?
私は――想苗は、戸上想苗は――何に。
「我は刀霊です。霊魔を祓うことの出来る唯一の武器。だから、そのように生きてきた。折れるまでは、そのように在るでしょう。貴女は? 想苗殿、戸上の名を継ぐ最後の人間として、貴女はどのように在るべしと、己を定めたのですか?」
『聞いちゃあ駄目だよ、お母さん。あいつ、僕たちのことを無くしたいんだ』
『聞いてはいけないよ、想苗。あれは所詮刀だ、持ち主に従う武器だよ。その行く先は、君が決めなくては行けないんだ』
「貴女は。何のために我を抜いたのです? 戦ってきたのです?」
――あぁ、それは。
「答えなさい、戸上想苗!」
「……御免なさい、蛍。申し訳ありません、祐一郎様。私は――再び貴女たちを死なせます」
解っている、解っているとも。
いつかはきっと、こんなときが来るのだ。過去に別れを告げ、背を向けて、未来へ向けて歩き出さなくてはならないときが。
それが、たまたま今だっただけの話。
「私は、花守です。貴女が幸運だと言ってくれた、大切なものを護るために力を振るう。そんな、花守です!!」
想苗の声に、或いは立ち直りつつある精神に圧されて、暗闇が縮む。
「【金宝】!」
「想苗殿、此方です! さあ、手を」
立ち上がる。
泥のように纏わり付く瘴気を強引に振りほどきながら、光の方へと手を伸ばす。
『行かせない』
『行かせぬよ』
『――行ってはいけません』
「っ?!」
不意に、家族のものではない声が混じる。
一際強く巻き付いた瘴気が、たくさんの白い腕となって想苗を引きずり下ろそうとしているようだ。
底へ、底へ。
沈めや沈め、深く深く。
「誰だ……こんな、心の奥底に……」
自身へも押し寄せてくる瘴気を打ち払いながら、【金宝】は忌々しげに呟く。
漸く、漸く想苗殿の本心を見付け、彼女が自ら立ち上がるところまでこぎ着けたというのに。
あの晩、霊魔に掴まれた際に身の内へと瘴気が流れ込んでしまったのだろう、だが、だからといってこれ程までに深いところに根付くわけがない。
いや、と【金宝】は歯噛みした。
あるのだ、この戸上想苗に限っては。
彼女は、当主である祐一郎の手伝いとしてしか霊魔と向き合ったことのない、素人だ。
持ち前の霊力の高さと祐一郎の指導の記憶、そして【金宝】の補助があってどうにか、いっぱしの花守らしく振る舞えてはいたが――その心の内に覚悟が育つほどのゆとりはなかったのだろう。
始まりさえ、突然だった。
家族の死を目の当たりにしてひび割れた心、それを義務と責任で縛り付けたが、埋まったわけではなかった。
今、そのひびを瘴気が埋めている。
既に死んだ、家族の幻影を操って。
想苗の本心は、それを受け入れていた。もう一度会えるならと、彼女はずっとずっと考えていたのだ。
そして――意思のお墨付きを得た。
「……そうか、貴様か」
『彼らの声に、従うのです。幻影を追い掛け、幻聴を良しとしなさい』
「この、言葉はっ……」
いしがみ、と呟きながら。
想苗の精神は、腕の波に呑み込まれていった――。
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