第11話私は私に気付くだろうか
「…………」
山郷区の西の端、霊境戦線から外れた居住区の中に、黒檀の戸はあった。
西洋風の、鹿の頭を象った【ドアノカア】を想苗は初めて見た。これが咥えた鉄の輪を戸に叩き付けることで来訪を報せる、らしい。
そんなことをせずとも、戸を軽く開けて声をかければ済むと思うのだが、如何せん海向こうでは勝手に戸を開けてはならないらしい。
見上げれば、手も届かないような高い位置に窓が見える――二階、そして三階だ。
確かにあれほど玄関から離れていては、声をかけても気付きはしないだろう。
『……これが住宅?』
腰で【金宝】が呆れ声をこぼした。『まるで倉ですね』
「山間の、閻魔亭とかいう温泉宿が確か、こんな感じでした。何というか、家を重ねたような家……」
しかしながら。
想苗も、そして【金宝】も気付いていた――こうした感想は、この場においては少数派であるということに。
「……視線が、痛いですね」
『……えぇ』
宜なるかな。
往来の人々は皆、猫のような金髪に色とりどりの瞳を持っている。着ている着物も、背広に帽子ばかり。
囲区、異人街。
海向こうが住人ごと運び込まれたような、或いは自分が迷い混んだような不思議な感覚に陥るそこに、目指す場所はあった。
「はいはい、どうぞ」
外国帰りの、医者。
聞き覚えのある肩書きをもって戸を開けたのは――。
「いやあ、お久し振りです戸上様!」
いつかの夜出会った男、石上内匠は白磁の湯飲みを差し出した。「お元気そうで何よりです」
「えぇ……そう見えるなら、良かったです」
頼り無い取っ手に指をかけ、受け取った西洋風の湯飲み。
珈琲だ。夜色の水面を覗き込むと、微かに唇を歪めた断髪の女性が映る。頬も痩けていないし、目元に隈があるわけでもない――確かに傍目には、健康そうに見えるだろう。
「……けれど、問題はある、のでしょう?」
石上は気遣うような笑みを浮かべた。「ケネス様から、お聞きしています」
「ケネスから……」
通常なら言語道断だろうけれど、今回ばかりは話が早いというものだ。
すっと、想苗は姿勢を伸ばした――西洋風の椅子は奇妙だ、中腰の姿勢を維持する補助具のように思える。
椅子も、内装も。
ここには、日の国には無いものがある。そして、これから満ちていくであろうものが。
「単刀直入に御聞きします、医師殿。私を――治せますか?」
「えぇ、勿論」
石上は簡単に頷くと、安心させるように柔らかく微笑んだ。「そのために、私は海を渡ったのです」
『お母さん、お母さん!』
声にびくり、と肩を震わせる。
恐る恐る、想苗は聞こえた方へと顔を向けた。そして、見上げる我が子の顔にひきつった笑みを返した。
「ど、どうかしましたか、蛍?」
『お父さんを起こしてよ、稽古の時間なのに、全然起きないの!』
眉を寄せて部屋を見れば、祐一郎様の寝転ぶ背中が見えてくる。
生前好んで着ていた、紺の着流しだ。
細かい演出に、思わずため息。何とまあ、尤もらしい光景だろうか。
いや。
実際見たことの有る光景なのだろう――想苗の脳が記憶している出来事を、連鎖的に思い出しているのだ。
「脳の機能不全」
石上の言葉を、思い出す。「思い出す、という機能が暴発しているのです。だから、ふとしたことで記憶が蘇り、その記憶が更に次の記憶を思い出させる」
会話が成り立つのは、そのためだ。
言ってしまえば単純な一人遊び。空想上の友人と、考えたことを言い合っているだけ。
『ねえ、お母さんってば!』
蛍――の幻影が、想苗の手を引く。
瞬間掌に、柔らかい感触が走った。小さく、やや肉厚の、懐かしい手応え。それが幼さ故の遠慮の無い力で、想苗を引っ張っていく。
想苗の症状で最もたちの悪い部分が、これだ。
幻覚は記憶を忠実に再現する――その感触まで、忠実に。
「……脳が、誤解している、でしたか」
導きに従いながら、想苗は呟いた。「触れられたと誤解して、触れられた記憶を再現していると……」
全ては、己の頭の中でのみ起きていること。
それならばそこでだけ、完結してくれれば良いものを。
『お母さん、どうかしたの?』
「いいえ」
見上げる蛍の、心配そうな眼。それに見詰められた瞬間に、想苗は反射的に微笑んだ。「何でもないのよ、蛍」
『良かったぁ』
途端、弾けるような笑顔を浮かべた蛍の姿に、想苗の胸には安堵が広がっていく。
何もかもが、幻覚なのに。
「…………」
『……大丈夫ですか、想苗殿』
「えぇ、大丈夫です、【金宝】。これも、正常に戻るためですから」
「私の正気を切り刻む、って……どういうこと?」
想苗は顔をしかめた。「正気に戻して欲しいから、頼んでいるんだけど……」
「私もそうしたいわよ、モチロン」
「なら」
「だから」
ケネスの指が、想苗の頬を撫でる。「そうするの。貴女を治すためよ、全て」
何やら艶かしい手つきに、想苗は反射的に顔を背けた。
ケネスの笑顔は、どこか不気味に見える。何だか、過度に友好的に思えるのだ。
「貴女の正気は、はっきり言ってもうがたがたよ。下手くそな職人が建てた家みたい、雨風も凌げるし無いよりはましでしょうけれど、住めば都にも限度があるというものよ。建て直すには、一度壊すしかない」
「…………」
「不安なのは、解る。けれどソナエ、貴女、大事なものならその道の専門家に作って欲しいと思わないの?」
「専門家、なんて居るの?」
心とか、正気とか。
先にも言ったが、この国が特別そうした分野に明るいわけではない。寧ろ、理解としては遅れているくらいだろう。
そんな国の医師が、果たして正気の専門家と言えるのだろうか?
想苗の疑問を読み取ったかのように、ケネスは人差し指を立てると、舌を短く鳴らしながらゆらゆらと揺らす。
「勿論、残念だけれどこの国の医術にそこまでの期待はしていないわ」
「……桜路町区には、臨時政府が設置した病院もあるわ」
花守専門の医師団も、居るには居る――御家の宝たる花守を他所の世話になどさせるかと、名の有る花守は概して利用しないが。「穢れ対策なら神職の方々も居る。それほど馬鹿にはできないわ」
「ま、戦地だものね。良くも悪くも最先端の技術が集まっているとは思うけど。それよりも、手っ取り早い手段があるわ」
想苗は直ぐに閃いた。「……知っている者に聞く、ということ?」
「えぇ。彼はある、革新的な治療法の専門家よソナエ。その名も」
「『演劇型療法』」
石上は机――テヱブルに一本の蝋燭を置き、火を灯した。「ケネス様から伺う限り、貴女の症状は随分度を超しています」
「酷いということ?」
「深いということです。記憶が言葉を話すのは実のところ珍しくありませんが、貴女の場合、それが実感を伴ってしまっている。恐らく、相当深いところに、根が張ってしまっている」
「では、どうすれば……」
「私がすることは多いのですが、貴女がすることはそう多くありません」
『それが、この顛末ですか』
【金宝】が、呆れた声を出した。『吾には、えぇ、何をしているのかと思ってしまいますが』
「……そう言わないで下さい……」
『これが治療なのですか』
「あれ、【金宝】も聞いていたでしょう?」
『お忘れですか、想苗殿。医師殿は、治療の場に刀は厳禁と申していたでしょう』
そう、だったか。
そう言われればそうだった気もする。
「単純な話ですよ、【金宝】。医師殿が申していたのは……」
「簡単ですよ、貴女を信じてください」
「……はあ?」
「幻覚は所詮幻覚、記憶の再現にも限界があります。だからこそ、貴女は自身の幻覚を信じていただきたいのです」
「……はあ」
「幻聴に耳を傾け、幻覚に従うんです。そうすると必ず、現実との齟齬が生まれる筈です。そうすれば貴女自身の精神が、正しいものを認めることになる」
「…………はあ」
揺れる炎を見詰めながら、想苗は曖昧に頷いた。
言うことを聞き、幻覚に従う。
だが現実には彼らは居ないのだから、幻覚の行動にも限界があるというわけだ。
そこに気付けば――心の底から理解できるというわけだ。
「貴女は間違っているし、間違っている自分にも気付いている。ですが、貴女の心がそれを認められていないのです。だからこそ、そこに気が付けば……」
「解るでしょう、ソナエ、そこに気が付けば」
『なるほど、想苗殿、そこに気が付けば』
「「『貴女は元に戻れるでしょう』」」
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