桜の花の散る枝の下

一柳すこし

第1話 蒼馬


 蒼馬は桜の花が嫌いだった。


 彼の大切な人はいつも、桜の花の咲くころにいなくなってしまうから。仲のよい友達。心から愛していた恋人。自分を慈しんでくれた母……。みんなみんな、この季節にいなくなってしまった。いつも咲き誇る桜の枝の下で、その花弁が枝から離れるのと合わせるかのように、彼に別れを告げて去っていった。


 だから、彼は桜の花が嫌いだった。彼に大事な人との別れを教えるものが、いつもこの花だったから。


     ◇ ◇ ◇

          

 カーテンの隙間から、土曜の午後の光が差し込んでいる。淡い桃色の光芒をたたえて揺れるカーテン。その布と布の間からそれと同じ色の花弁に埋もれた木の枝がのぞいている。


 顔をあげた蒼馬は横目で外の景色を一瞥し、ため息をつきながらそのカーテンを閉めた。


「蒼馬君。手が動いてないよ」


 突然声が降ってきて振り向くと、若い女の人が机の傍らに立ち、手を腰に当てて自分を見下ろしていた。黒い髪を頭の後ろでお団子にして、メガネをかけた、いかにも真面目そうな風貌の女の人。蒼馬が通うこの絵画教室の講師だ。


 花山愛桜衣。愛桜衣とかいて「あおい」とよむらしい。なんだか華やかな名前だが、その名とは裏腹に彼女は実に地味な雰囲気の人物だ。容貌は整っているし肌も綺麗なのだが、そのまとっているどことなく暗い空気のせいだろうか。教室の男の人たちもあまり寄り付かない。いつも灰色のスーツで身を包み、ちょっと大きめの黒ぶちの眼鏡で表情の何分の一かを隠し、一糸乱れぬお団子ヘアーを決めている。年は推定三十。ひょっとしたらもうちょっと若いのかもしれないが怖くて訊けない。とにかく二十五の自分より年上なことは間違いないと彼は確信している。


 愛桜衣は蒼馬の机上の絵を覗きこむと、ため息まじりの声をあげた。

「今日の題は春の風景って言ってるでしょ。君の絵に描かれてるのはコンクリートの建物ばかりじゃん。建物もいいけど、君のはなんか単調っていうか……季節感ゼロ」

 蒼馬は彼女を見上げ口の端をゆがめる。

「桜の絵でも描けっていうんですかい。それだけはごめんですよ」

「あー。またそんな言い方して。あんたまた居残りね」

 唇を尖らせて言いはなち、愛桜衣はさっさと別の机に向かった。


 ああ、こんなところで自分は何をしているんだろう。


 ほかの生徒たちの机を回り、アドバイスしたり筆を走らせたりする愛桜衣の後姿を眺めながら、蒼馬は思う。


 この鎌倉に独りで暮らすようになって数年。カルチャーセンターに通おうと思い立ったのは、何かしなければという焦りに背を押されたからだ。単純に言ってしまえば寂しかったから。出会いが、ほしかったのだ。

 しかしここに通うのはほとんどが自分よりはるかに年上。年が近い人とも気が合わず、結局大勢の人間の中にいながら仲間をつくれないでいる。

 絵を描くことに情熱を持っているわけでもなく、ただ愛桜衣に口うるさくダメ出しされるだけの日々。最近は雑用までやらされるようになってきた。


「もう、やめちまおうかな」


 蒼馬は小さくつぶやき、椅子に背をあずけて大きな欠伸をする。彼の方を向いた愛桜衣から、また叱責の声が投げつけられた。




 花はあっという間に散り、新緑の季節も気がついたら終わってしまっていた。


 そして梅雨。ようやく教室をやめる決意を固めた蒼馬は、退会届を懐に収めて授業の後、愛桜衣のもとに行った。


 電気を消して昼なのに薄暗くなった教室。ほかの生徒たちは皆退室して、弱い雨の音だけがこの空間を包み込むように響いている。

「あ。ちょうどよかった。この画板運ぶの手伝ってよ」

 蒼馬がなかなか言い出せずに口をもごもごさせていると、愛桜衣はぶっきらぼうに床に積まれた画板の束を指さした。


 いつもと同じ雑用。反射的に体が動いて、気がつくと愛桜衣の後をついて人気のない廊下を歩いている。


「ねえ。蒼馬君って、鎌倉詳しい?」

 画用紙を入れた箱を持って彼の前を進みながら、愛桜衣は振り返らずに訊いた。

「詳しいって程ではないです。お洒落なお店なんか全然わからないし……」

「私はもっと、わからない」

 愛桜衣の地元は北国で、鎌倉に越してきたのは去年のことらしい。

「紫陽花のおすすめのお寺って、どこかな」

「有名どころは明月院とか、長谷寺でしょうね。確かにあそこはすごい。でも、すごく混みますよ。行列に並ぶ覚悟がいります」

 愛桜衣は歩きながら天井をしばらく見上げる。

「私、紫陽花を観にいきたいんだけど、ちょっと付き合ってくれないかな」

 ほら、行列に一人で並ぶのってなんだかちょっと気まずいし。そう言って立ち止まり、そして振り向く。


 どこからともなく差し込む薄い光が、愛桜衣の眼鏡の、レンズの表面で碧く揺らめいている。その向こう側の彼女の瞳と目を合わせそうになった蒼馬は、あわてて視線を逸らす。そして思わず答えてしまう。


「ええ。いいですよ」


 濡れた廊下の窓に顔を向け、雨滴の流れ落ちるさまを眺めながら、彼は己に言いきかせる。まあ、いいか。と。


 まあ、いいか。ほかにやることもないのだし。どうせ一回きりなのだろうから。

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