七月 花火
夏には、毎年家族で船に乗って花火を見に行っていた。打ち上がって空で弾ける花火は美しくて私は大好きだった。あんな小さな火の玉で空の色を変えることができるなんてすごいと思った。
「花火大会、ですか?」
「そうです。今日の夜だそうですよ。」
朝ごはんの定番化している鮭と野菜のみそだれ乗せ、の合わせ調味料を作っているとご主人さまが突然言った。あとは火が通った鮭の上に今合わせた、味噌とバターと酒と砂糖のみそだれを乗せれば完成なので詳しいことは作ってしまってから聞こう、と私はフライパンに意識を集中した。早く盛り付けないとあらかじめ焼いておいた野菜が冷めてしまう。
「・・・で、花火大会はどこでやるんですか?」
「はい?」
無事にできあがった卵焼きと鮭と野菜のみそだれ乗せとご飯、お味噌汁それからいつものきゅうりの漬物を食卓に並べて尋ねると、ご主人さまはきょとんという言葉が本当にしっくりくるような表情を浮かべて私を見る。口が、「え」の形をして止まっている。手には、お味噌汁を持っている。
「え、っと、花火大会は今日の夜なんですよね。」
「そうですけど、興味があるんですか?」
何だ、この人。自分から花火の話題を出しておいて何でこんなにびっくりしているんだ。それとも花火の話をしていたわけじゃないのかも、ごはんつくりに夢中になってしまって聞き間違いをしたのだろうか。
「・・・話題を、間違えましたか?私、」
「いえ、そんなことは。」
「花火の話でしたよね。」
「そうです。今日の夜、八時から三十分間だそうです。好きですか?花火、」
「はい。見たいです。」
ぽりぽりときゅうりの漬物を齧りながら答えると、ご主人さまは嬉しそうに私を見て笑った。きゅうり食べてんのが、そんなに嬉しいのかと、首を傾げるとそれなら、とご主人さまは時計をみて
「今日は、早く帰ってきますね。一緒に見ましょう。」
「じゃぁ、お出かけですか?服、あったかな。」
外に出るなら、今着ているパジャマ兼部屋着であるご主人さまのお古のだぶだぶTシャツではさすがにまずいのである。ちょっと変態な目で見られるのである。外行き用の服も買ってもらっているけれど何分、数が少ない。
「いえ、ここで見れますから。外には出ませんよ。」
「・・・ここから、見えるんですか?まあ、確かにここ高いですもんね。」
「ええ、このマンションは特等席です。」
実はこの人ってお金持ちなんじゃなかろうか。最近、抱いた疑問はお腹の中をぐるぐると廻ってきゅうりの漬物と一緒にすとんと落ちた。胃の中でドロドロに消化されないだろうか。
「じゃあ、何か花火を見ながらでも食べれそうなものを晩御飯に準備しておきますね。」
「お弁当ですか?いいですね、楽しみにしてます。」
「はい。」
期待されている。心が一瞬、身構える。口がうまくきゅうりを飲み込めなくなるから必死に違うと否定する。
何を作ろうか。ご主人さまの部屋に誰かが忘れていったレシピ本をめくりながら考える。ベランダに座って花火を見ながらつまめるような料理。
やはりおにぎりだろうか。けれど、おにぎりは海苔を巻かないとどんなに固く握っても指にご飯粒が付いてしまう。ならば、サンドイッチか。けれどそれではなんとなくパンチが足りない。
「なかなか、悩むね。花火・・花火ねえ。」
ペラペラと少し埃の匂いがするレシピ本をめくっては閉じて開いては閉じる。頭の中で冷蔵庫の中身を思い出す。あまり材料が残っている気がしない。買物に行くのも面倒だし服もない。一週間に一度の宅配もお届け日は明日だ。
「じゃがいも、ベーコンにきゅうりはつけてあるの。たまねぎ、ピーマン。ジャンルがバラバラすぎる。・・・・あ、スパゲッティがあったな、おお、焼きそばもあるじゃん。じゃあ、焼きそば作ろう。花火っぽくていいじゃん。ベーコンとピーマンで焼きそば。あと、ベーコンとたまねぎでナポリタン。きゅうりはこのままでじゃがいもは、じゃがバターで。・・おお、完璧じゃん。」
一人暮らしにしては、大きい冷蔵庫を開けて夜ご飯になりそうな物を探す。他にも、隣りの戸棚にあったホットケーキミックスを使ってピタパンを作ろうと決めた。中にお好みで焼きそばとナポリタンを挟んで食べれば手が汚れずにすむ。きゅうりは幸いにも切っていなかったから、そのままずぶりと割り箸をぶっさしておこう。
「おお、意外に豪華じゃん。よしよし、残り物整理もできて天才。」
メモ帳に今思いついたメニューを次々と書いていく。こうしないと、私は夕方になる頃には何を作ろうとしていたのか忘れてしまうのだ。どうでもいいことはいつまでも覚えているのに、大切なことはすぐに忘れてしまう。記憶力も私はポンコツなのである。
もしかすると、私はこの奇妙な生活も忘れてしまったりするんだろうか。いつか、思い出せなくなるのだろうか。幼稚園の頃の友だちや先生を忘れて、名前だけしか思い出せないように、ご主人さまの大きな手の平も、優しい切れ長の目も、低く細い声も。今のこの何もかもを、忘れてしまうのだろうか。
「忘れたくないな。」
口に出した言葉をそのまま、私の手はメモ帳に書き記していた。
がちゃんと、鍵を廻す音がして私の耳はまるで本当の犬のようにご主人さまの帰宅を察知する。ちょうど七時を回った頃でスパゲッティもちょうどよく茹で上がった。ざるに流してオリーブオイルを軽く垂らす。こうするとパスタ同士でくっつかなくなる。
「ただいま帰りました。いい子にしていましたか?」
「おかえりなさい、ご主人さま。」
スタイルが良いからスーツが似合う。帰ってきたご主人さまを見るたびに何度となく思ったことを、今、また思っていた。そうしてシュルリとネクタイを緩めて外す長い指が五本揃って私の頭を撫でるために伸びてきたのを見つめていた。
この瞬間を私は忘れたくなかった。どうしてか、そう思った。
「良い匂いがしますね。もう、夜ご飯は完成ですか?」
「あぁ、えっと、あとはじゃがいもを蒸して、ピタパンに切れ目を入れて・・それから、スパゲッティをケチャップと野菜で和えれば完成です。」
「それは楽しみですね。」
「はあ、」
優しく笑うとご主人さまは私の頭から手を放して、自分の部屋に向かって行ってしまった。背中が扉に消えていく。私は、それをただ見送った。
じゃがいもを蒸し器に入れてレンジに。その間にナポリタンを作ってしまう。ぱちぱちと跳ねるベーコンの油が痛い。私はベーコンはカリッカリに焦がす派だが、ナポリタンのベーコンは焦げていてはいけないような気がして、すぐにピーマンを入れてみた。良い匂いがしてくる。
「よし、できた。」「ただいま~、飯できてるう?お、良い匂い!!」
完成した喜びの言葉は途端に背筋が凍る侵入者の叫びにかき消されてしまった。静かに入ってくるご主人さまと違い残念なイケメンの足音は子どものように騒がしく響く。
「奏士、どうしたの・・・あ、花火だ。」
「いいだろう。せっかくだからやろうぜ。葉のベランダ、広いだろ。」
「別に俺のベランダじゃないけど。」
話し声が廊下から聞こえてきて、扉がそっと開く。こうしてそっと開けるのはご主人さまだと私は察知する。扉を見れば、やはり前にいるのはご主人さまでその後ろから入ってきた残念なイケメンは手に大きな花火パーティセットを持っていた。
小さい頃に夏休みに親戚の子達とした記憶があるあのバラエティセット花火ではあるが、今残念なイケメンの手にあるのはどの思い出よりも大きくてたくさん入っている。
「よう、ペット!!見ろよ、これ。やろーぜ。」
「三人で?三人でその量をやるんですか?」
「うん。当たり前だろ。」
にかり、まるで夏休み初日もしくは最終日の小学生のような笑顔で大きなバラエティ花火を持ち上げる残念なイケメンは、どうしてモテるのか少しわかるような気がした。
「あ、ご主人さま。ご飯できました。」
「はい。わかりました。」
「おー、弁当?あ、バーベキューみたいじゃん。すげー」
台所にタッパーに入れて並べてある料理を見つけ、残念なイケメンが声をあげる。それから、食器棚に入っているチャッカマンを取りだして、ベランダに向かう道すがら、さっそくビリビリと花火を開けている。ご主人さまはそれをただじっと見つめている。バケツは?水入れたバケツは誰が準備するの。思っただけで口に出さない。
「おー、すんげー入ってんな。よし、やろーぜ。」
意外と几帳面なA型である残念なイケメンは、花火をきちんと種類ごと人数分に分けている。なんだかんだ言っても三人兄弟(うち二人は女の子)の長男であるといえる。ご主人さまはそれをちょっと笑って見つめている。バケツは?水を入れたバケツは誰が準備するの。終わった花火入れるでしょ。思っただけで何もしない。だって余計なことだったら嫌だし。
「・・・」「・・・・」
「おい、誰かバケツに水持って来いよ。それとも、お前ら花火したくないのか。」
すっかり黙ってしまった私とご主人さまに残念なイケメンはそう尋ねて、私は慌ててお風呂場にバケツを取りに行く。やっぱりバケツ必要だったじゃん。誰なの、いらないって言った人。じゃばじゃばと水がたまり続けるバケツを見つめながら、ため息。残念なイケメンの考えることとか言っていることは何となくわかるようになってきたのに。未だにご主人さまがわからない。何を考えているのか、何を言いたいのか。わからなくて、怖い。
じゃばじゃばと水がたまる。バケツにちょっとずつ溜まっていく。透明な水が赤いバケツに溜まっていく。水は青色ではなく透明だと気づいたのは、いつだっただろうか。
「・・・・溢れちゃいますよ。」
「はい!!あ、本当だ!!」
すぐ後ろで聞こえた声に慌てて返事をして、それからまた慌てて水を止めた。動かすと零れてしまうほど、たっぷりと水が入っているバケツ。こんなに水いらなかったな。当たり前だけど、この半分でいい。後ろにいるご主人さまの視線を感じながら赤いバケツを傾けてたっぷりと入っている水を流す。
「大丈夫ですか?俺が持ちますよ。」
「じゃぁ、お願いします。」
ちょうどいい量になった水がちゃぷんと言ってご主人さまに持ち上げられてベランダに運ばれていく。口元はやっぱりいつものように優しく微笑んでいる。あの口元が歪むことはあるのだろうか、あの口元が固く結ばれることはあるんだろうか。何度となく考えたことが思い浮かんで水が流れるように消えた。
「おい、ペットー!!何してんだ、やるぞ!!」
「はい。今、行きます。」
変なこと考えていた。心の中で誰に怒られるでも、見下されるでもない感情に慌てて目隠しをして考えなかったことにしてベランダに急いで向かう。部屋で一番大きいベランダに出て、もう早くも中の電気を消して花火を始めている残念なイケメンの笑い声がしている。暗い視界にまだ慣れていない目が、それでも花火の小さな灯りと声を頼りに二人の元に歩く。
鮮やかに光る手持ち花火の短い輝きも、空の色を一瞬にして染め変える打ち上げ花火の美しい輝きも、たとえいつか忘れてしまったとしても。それを一緒に見ていた人がいたことは、忘れたくないと強く願った。
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