番外編 縁日に行くなら浴衣を召して

 彼は、日も暮れかけた時間帯に突如として現れた。


「やぁ! 皆大好き田中さんだよ!」

「来たぞ。景清君、石」

「御意」

「早速用意がいいね君たち!?」


 漬物石を掲げた僕を見て、和装のロマンスグレーは尻もちをついて後ずさった。一体何の用なのだろう。少なくともこれぐらいで帰るようであれば、大したものではないに違いないが。


「待て待て待ちなさい! 今日は曽根崎案件の話じゃない、君たちを息抜きに誘いに来たんだ!」


 ドアギリギリまで逃げながら、田中さんは叫んだ。しぶといジイさんである。

 しかしそこまで言うなら、聞いてやらないでもない。僕は曽根崎さんが首を縦に振るのを確認してから、漬物石を下ろした。


「で、何の御用です」


 田中さんに尋ねる。身の安全が確保されたと分かった銀縁眼鏡の男は、破顔しながらトコトコと寄ってきた。


 その手には、男物の浴衣。


「近くで縁日をやっているそうだ。ちょいと顔を出してみないかい?」

「縁日?」

「そう。どうせ、こういうイベントにノリノリで参加した事なんてないだろう?」


 田中さんは、僕に藍色の浴衣を手渡しながら言う。一応受け取りながらも、僕は眉をひそめた。


「別に私服でも構わないでしょう」

「分かっていないねぇ。適宜服装を合わせるという事が、どれほど気分を盛り上げると思ってるんだ。スポーツ然り、イベント然り。形から入るというのは、脳をその気にさせるにあたり大変有効な手段なんだ」

「はぁ」

「曽根崎君は一人で着られるね?」

「ええ、私は問題ありません」


 いつの間にやら僕の隣に立っていた曽根崎さんは、田中さんから貰った黒い浴衣を興味深げに眺めている。


 あれ、乗り気なの?


「景清君はどうだい? 何なら僕が手伝ってやってもいいけれど」

「ゆ、浴衣ぐらい一人で着られますよ!」

「ならいい。それではとっとと着替えて、素晴らしき日本の伝統文化である縁日に繰り出そうではないか!」


 空中に向かって勢いよく人差し指を立てる田中さんを、生暖かく見つめる。還暦も近いというのに、どこからこんなバイタリティが湧き出てくるのだろう。


 が、それはそれとして、縁日である。21にもなって子供みたいにワクワクしたが、流石に曽根崎さんのようにその場で着替える勇気は無く、僕はいつものキッチン裏へと引っ込んだ。


 ――二十分後、ぐしゃぐしゃになった浴衣を引きずって曽根崎さんに泣きつくハメになるとは、当然この時の僕は知る由もないのである。









「……まさか着物の前合わせまで分からんとはな」

「悪かったですね。正直触るのすら初めてだったもので」

「よくそれで一人で着られると豪語したな、君」


 縦縞の黒い浴衣に身を包んだ曽根崎さんが、下駄を鳴らしながら呆れたように言った。逆に何故この人は着慣れているのだろう。現代日本だぞ、ここは。


 曽根崎さんに着せてもらってそれなりにサマになった格子柄の浴衣を摘んで、僕は息を吐いた。


「しかし曽根崎さんは和装が似合いますね」

「君に褒められるなんてな、雨が降らなきゃいいが」

「真面目に言ってますよ。四十代ぐらいで愛人と入水自殺しそうな小説家みたいです」

「オーケー、褒めてなかったということはよく分かった」


 そんな事を言い合いながら、段々と人通りが多くなっていく道を歩いていく。賑やかな声に僕らの足音はかき消え、話しかけようと思えばそれなりに声を張らなければならないほどだ。


 ちなみに田中さんは、浴衣に手こずる僕に痺れを切らして先に縁日に行ってしまった。曰く、「老い先短いジジイの時間は貴重」だそうだ。本当はもっとアレコレ言っていたが、とりあえず僕はそう解釈した。


「……人が増えてきたな」


 曽根崎さんがぼそりと言う。


「はぐれるなよ。この人混みで君を探し出すのは骨が折れそうだ」

「大丈夫ですよ。曽根崎さん目立ちますし」


 実際、周りから一つ分もじゃもじゃ頭が飛び抜けているのだ。ぼうっと突っ立っていようものなら、それこそ待ち合わせ場所にされてしまうだろう。

 曽根崎さんは懐手をしながら、真顔で僕に向かって言う。


「だったら、私が迷子になったら君の方から見つけてくれよ」

「三十路が何情けない事言ってるんです。そこまでの保証はできませんよ」

「いいのか? 私が探すとなれば、本当に手段を選ばんぞ」


 手段を選ばないという文言が気になって次の言葉を待つ僕に、曽根崎さんは息を吸い込んで、少し高い声で応えた。


「……お客様に迷子のお知らせをいたします。藍色の格子模様の浴衣をお召しになった二十一歳の竹田景清君、お連れ様がお待ちです。至急、境内の入り口まで……」

「はぐれたら僕、場内アナウンスで呼び出されるんですか!?」

「君とまた巡り会えるなら、私はどんな業でも背負ってみせる」

「いやいや、要らぬ業を背負ってるのは僕ですよ! アンタは無傷だそれ!」

「迷子センターで私と感動の再会をしたくなかったら、絶対にはぐれないでくれ」

「っていうかスマホは!?」

「事務所に置いてきた」

「うっかり屋さんめ!!」


 どうしようもない人である。まあ、僕が側を離れなきゃいいだけの話なので、そう難しいことはないのだが。

 いよいよ増えてきた人波に揉まれながら、なんとか僕らは前進していく。一度曽根崎さんがあらぬ方向へと流されそうになったものの、慌てて腕を掴んで引き戻し、事無きを得た。


 そうしてもみくちゃにされつつ境内にたどり着いた時には、僕も曽根崎さんも疲れ果てて鳥居にもたれかかっていた。


「……縁日って、来るまでにこんなに疲れるんですか?」

「そのようだな」

「知らなかった……。曽根崎さん、早く田中さんを見つけに行きましょう」

「その前に帯を直してやる。こっちに来い」


 彼は慣れた手つきで僕の帯と裾を正すと、スタスタと歩き始めた。

 どうやら、田中さんのいる場所に目星がついているらしい。


「一番騒がしい場所が、あのジイさんのいる所だ。覚えておくといい」


 程なく、縁日の屋台の一つで叫ぶ田中さんを発見した。射的の結果に満足がいかないようで、バリトンボイスで屋台のお兄さんと怒鳴り合っている。

 僕はその光景を指差し、もじゃもじゃ頭を片手で抱える曽根崎さんを見た。


「……曽根崎さん、あれ」

「……他人のフリをするのも処世術だと思わないか?」

「うわ、見捨てた」


 まあ、僕でもそうするだろう。

 僕らは田中さんを放置し、拝殿へと向かった。









「そういえば、どうして今日が縁日と呼ばれるか知っているか?」

「いえ」

「その日だけ、神や仏は我らこの世の人間と縁を結んでくださるんだ。だから、願い事があるならここぞとばかりに拝んでおくといい」

「金金金!」

「景清君の中で、神は流れ星みたいなシステムなのか?」


 礼拝も済ませ、僕らはいよいよ屋台へと繰り出す。かき氷にりんご飴、チョコバナナに金魚すくいとその種類も豊富である。

 児童養護施設にいた時も連れてきてもらった事はあったが、あの時の縁日とはまるで規模が違う。輪投げや光るオモチャ、綿あめにタコ焼きと次から次へと目が移ろっていく。


 その中で見つけた一つの屋台に、浮かれる僕はつい曽根崎さんの袖を引っ張って声を上げた。


「お面屋さんですよ、曽根崎さん!」

「なんだ、欲しいのか?」

「形から入るのが大事なんですよね? 遊園地に来てキャラクターの耳を買うようなものです」

「めちゃくちゃ欲しいんだな。どれにする」

「おー……やっぱり子供向けなんですかね。知らないキャラばっかりだ……」


 悩んだ挙句、小さな狐の面を買ってもらった。流石に曽根崎さんにお金を出させるのはと最初は断ったものの、今日ぐらい甘えろと言われたので大人しく従ったのである。一身上の都合で、タダという言葉には弱い。


 早速お面を頭につけながら、僕は声を弾ませた。


「いかにも縁日! という感じですね!」

「君が嬉しそうで何よりだよ」

「そう言う曽根崎さんは、何かしたい事無いんです? 僕で良ければ付き合いますよ」

「いいのか?」

「ええ」

「なら、型抜きがしたい」

「多分ですが、アンタとてつもなく上手いですよね」

「大体追い返される」

「別にそれでも構いませんが、普段やりたくても苦手で避けていたような事とかありませんか?」

「……んー」


 顎に手をあてて考える。そして周りをキョロキョロとしていたが、すぐに目を止めて僕に声をかけた。


「じゃあ、あれ」


 それは、ヨーヨー釣りだった。


 子供やカップルによるガヤガヤとした人だかりに入り込み、曽根崎さんは小銭を渡して三本のこよりを受け取る。

 その内の一本を拝借し、僕はしゃがみこんで彼を見上げた。


「で、どれが欲しいんです?」

「別にどれでも。取りやすそうなのでいいぞ」

「そんなの面白くないじゃないですか。適当でもいいんで、何か選んでください」

「そこまで言うなら、そのヨーヨーなんてどうだ」


 彼は、藍色のヨーヨーを骨張った指で差した。そのゴムの先の輪っかは、水の中に完全に沈んでしまっている。正直何でもいいと言った事を後悔したが、一度口から出た言葉を引っ込める気もない僕は、威勢良く袖をまくった。


「やってやろうじゃないですか!」

「その意気だ」

「……まず、ちょっと釣り針でヨーヨーの口を触ってですね……」

「勢いの割に地味な作業だな」


 うるせぇ。黙って見てろ。


 それから数分、額に汗を浮かべながら奮闘し、何とかお目当てのヨーヨーを釣り上げることに成功した。


「どうです! 見事ゲットしましたよ!」


 藍色のヨーヨー片手に、意気揚々と振り返る。しかし、予想に反して曽根崎さんの姿はそこに無かった。


 状況が飲み込めずポカンとしていると、僕の右側から声がする。


「すごいな、君は。あんな難しいヨーヨーを、たった一本のこよりで釣り上げたのか」


 彼は僕の隣でしゃがみこみ、釣り上げようとしたヨーヨーを今まさに釣り針ごと落とした所であった。


「……私にはできない」

「じゃあ大人しくしてなさいよ!」

「君があまりにも時間をかけてくれてるんでな、私もやってみた」

「結果は?」

「惨敗」

「そりゃ苦手な人には二本じゃ難しいですよ」

「いや、あれから一回追加してるから実質五本だな」

「ならもう諦めろ!」


 曽根崎さんの顔にヨーヨーを押し付け、強引に立ち上がらせる。ここでこのオッサンを哀れに思ってくれたのだろう屋台のお兄さんが、僕らを呼び止めて黒いヨーヨーをプレゼントしてくれた。優しい人である。


 曽根崎さんの持つ二つのヨーヨーを笑顔で眺める僕に、彼は下駄を鳴らしながら拗ねたように言った。


「優しいとかじゃなくて、一個はくれるもんなんだよ」

「それでも、こちとらいい大人ですよ。子供と同じようにサービスしてくれるなんて、嬉しいじゃないですか」

「……そういうもんか」

「ええ、良かったじゃないですか。浴衣にヨーヨー、結構絵になってますよ、曽根崎さん」

「……」


 ふと、腕を掴まれた。何事かと驚いていると左手を取られ、指に黒いヨーヨーを通される。


「なんですか、いきなり」

「やる」

「ヨーヨーを?」

「君だって欲しかったんだろ」


 曽根崎さんは淡々と答える。しかしそれは、ほんの少しだけ温度が宿った音をしていた。


 意味を計りかねる僕の隣を、子供達が駆けていく。手に握られたいくつものヨーヨーや掬った金魚の入ったビニール袋が、その子らの後を追うように跳ねていた。


 それを見た僕は、ふと彼の行動の理由を一つだけ思いつく。


「……曽根崎さん」

「ん」


 今日彼がくれようとしたのは、かつての僕ではどう足掻いても手に入れられなかった、あの光景だったのではないのだろうか。


 ……いや、考え過ぎか。まあでも、貰ったならばお礼を言わねばならない。


「……ありがとうございます」

「こちらこそだよ。おかげでしばらくは退屈せずに済みそうだ」


 ぶら下げた藍色のヨーヨーを、曽根崎さんは無造作に手の平で打ち付ける。中の水が踊る音に、微かな涼を感じた。

 だけど、それから先の言葉が続かずに、僕は黙ってしまう。沈黙が全く平気な曽根崎さんも、口を閉じたままだ。


 向かい合わせで、自分の持つヨーヨーを眺めているだけの奇妙な時間がしばらく流れた。周りの人達は、そんな僕らを何も言わずに避けていく。


 しかしその時間は、張りのあるバリトンボイスで一瞬にしてぶち壊れた。


「おい君達、こんな所にいたのかい!」


 田中さんである。お面をつけて光るオモチャを身にまとい、金魚にたこ焼き、焼きそば綿あめと縁日フル装備で彼は僕らを睨みつけていた。


「なんだそのヨーヨーは! けしからんな!」


 ハイテンションである。ヨーヨーがけしからんわけないだろうに。

 僕が何か言おうとする前に、曽根崎さんがのそりと田中さんの前に立った。


「あげませんよ。これは私の物です」

「フン、君に物乞いをするほど落ちぶれちゃいないさ。それより僕の荷物を持ちなさい。久しぶりに銃より重い物を持ったよ」

「あんまり外でそういうことを言わない方がいいかと。頭の惚けた老人が徘徊していると通報されますよ」

「なーに言ってるんだか。君ほどの不審者面が隣にいるなら、そちらが先に捕縛されるだろうよ」

「煙草の代わりに綿あめの棒でも突っ込んでみましょうか。景清君、甘いもの好きか?」

「僕が食べるんですか。かなりの量ありますよ」


 田中さんは、棒を突っ込まれる前に、くじ引きのハズレで手に入れたのであろうストロー型の笛を咥えてピーっと鳴らした。いずれにしても、うるさいジイさんである。


「ま、今日の所は満足できたかな。君達の分の食料も買ってあるから、早く事務所に戻ってビールでも煽ろうじゃないか」

「じゃあ僕、先に帰ってビールを買っておきますね。銘柄は?」

「何でも構わないさ。こちとらアルコールとニコチンがあれば、あとは勝手に舌が回ってくれる」

「わかりました。つまみ……は今日は不要そうですが、サッパリしたものを何か作っておきます。脂っこいものばかりだと胃が疲れるでしょう?」

「ちょっと曽根崎君、この子うちにくれよ」

「やりませんと言うべきでしょうが、恐らく金を積めば彼はついてくると思いますよ」

「チョロ過ぎて逆に心配だな、それ」


 勝手ながらも正確な評価を背中に受けながら、僕は下駄を履いた足を走らせる。


 左手には、黒色のヨーヨーが機嫌よく跳ねていた。




 番外編 完

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