うつろなふたり

古新野 ま~ち

第1話 目撃

ユキサがエレベーターで降りてきた。前にいるスーツの男とキスをしながら。 見間違いだと、願った。

大阪駅にいるなんて思えなかった。そもそも電車に乗るのが嫌いとか言っていたから。とくに私鉄はなかなか扉が開かんから苦手って言うから、なんで? と聞いたことがある。前に何度も同じ事を言った、とはぐらかされるだけだったが。


見間違えたのかと、俺はもう一度、下降するエレベーターを見た。紛れもなく、俺の妻のユキサであった。 まだ俺には気づいてないだろう。

「嫁に浮気されたことがあるか?」って聞かれた男たちはどんな反応をするのか。そういう状況があることさえ想定していないだろう。俺もそうだった。

エロ漫画から純文学まで、古今東西散見される、ネトリネトラレとか人妻とか他人棒とか横恋慕に浮気に略奪愛にと糞つまらん発情期の男女がテーマの創作物を、夢洲に人類の産業廃棄物として埋めてしまいたい。

初夏の大阪はどこからともなく熱風が吹くようだ。


家についたら9時になろうとしていた。部屋は真っ暗で、ただいまの声が部屋にとけてしまった。

リビングの電気をつけ、真面目そうに振る舞うことしか出来ないニュースキャスターの能力に期待なんてしていないが、テレビをつけた。すぐに消した。

無音。俺はスーツを脱いで除菌スプレーを吹き掛けた。靴下を脱いで冷たいスリッパを履いて、濡れていない浴室に向かった。当然、浴槽に水すらはっていない。

手早く体と性欲を洗い流してから、ユキサに電話をかけた。電源を切っているという無意味なメッセージをまた聞いた。


ユキサは二週間前に、働ける精神状態にあらずと医者に言われて会社を休んでいた。有給をとった俺が代わって勤め先に連絡をしたのだ。そのときの憔悴しきった顔を覚えている。

「ごめんなさい」と何度もうわ言のように繰り返す。

医者が言うには、なにも考えることができなくなっているとのことだ。部署が合わないのか会社が合わないのか、旦那さんも一緒に考えてあげてほしいとのことだ。

「お二人にとっても、ゆっくりと見つめ直す良い機会だと、前向きに考えてください」医者は俺たちの顔を見ずにそう言った。

ユキサの言うことがうつろになり始めたのはそれより前であった。心の準備、のようなものはできていた。

会社に行くなら死にたい、という一言から始まった。凡庸なアピールだと放っておいたそれが彼女の救援信号だったらしい。目覚めとともに泣き始め出勤前には鼻水を垂らしていた。俺はユキサよりも1時間遅く家を出るが、日に日に間隔が短くなり、俺とともに家を出るようになる日がおとずれた。元来まじめな彼女は30分はやく職場につく予定であったものの、滑り込みになることが多くなっていったそうだ。毎夜、涙ながらにきかされていた。


ある夜、俺は泣いたユキサの背中に手を回した。タオル地のパジャマから傷みはじめた苺のような匂いがした。

俺を一杯の力で引き離して充血した眼は軽蔑のニュアンスを含んでいた。今は無理だから、と、彼女は眠りについた。

次の日から、俺よりも遅い時間に家をでた。もちろん、遅刻である。初日は、体調不良ということにしたがそう何度も通じる手ではなかった。

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