2.ホテルの司令室
「それじゃな」
優人は新宿駅の京王線改札を出ると、周囲より頭一つ高い政明に軽く手を振って別れた。
その後、遠回しに気遣いのメールを由梨へ送る。
――もし怖くなったら出かけるときにでも呼びな
もし一番の親友である景の話を聞かないなら、由梨のような後先考えないタイプには話しても無駄だと、経験上わかっていた。
なぜなら優人は、由梨以上に自己主張が強く説得が通じない人間と、日頃接しているからだ。
駅西口から離れ、今日もいつも通り都庁方面に向かう。
新宿高層ビル群にある他の建物とはコンセプトが明らかに異なるコクーンタワーを、メガネのレンズ越しに眺める。無数の鉄骨が交差することで建物全体がひし形模様のそれは、虫の繭を模しているという。
幼虫じゃなく成虫を世に放ってくれよと、通る度に皮肉を思う。
それを過ぎ、通い慣れたプラザホテルにやってきた。
しかし駅側や都庁側の玄関は目立つので使わない、そういう決まりなのだ。プラザナードと呼ばれる遊歩道を通り、人通りが少なめの入り口からホテルに入る。
建造年数四十年以上のくたびれた外観とは違い、フロア内は何度も改装されている。高級バーや各料理店を横切り、本館側のエレベーターホールに行く。
一般客の流れを把握しつつタイミングを見計らってエレベーターに一人で乗り込み、二十五階のボタンを五連続で押す。これで外からの開閉操作を十秒は受け付けない。
その間に鞄の中にあるIDカードを取り出し、ボタン群の隣にあるカードリーダーにかざすとエレベーターが上昇していく。
一度だけ耳抜きをして二十五階に降りると、廊下へ出る前にゲートがありここもIDカードを通す。当然このゲートは他の階層にはないものだ。
その先に進むと、どの部屋にも複数のセンサーを使ったセキュリティパネルがあり、中でも『マコちゃん用』と張り紙が付いた踏み台のある部屋の前で止まる。
パネル内にある網膜認証用レンズに目を合わせ、その右隣にある静脈認証用ソケットに人差し指を置く。すると数秒後、電子音と共に液晶のバックライトが赤から緑へ変わる。
中に入ると、誰もいない受付席とコートハンガーや観葉植物がある待合室。
優人はそこを通り過ぎ、もう一つ先の扉の前でノックをする。
すると「はいっ」という女性の声。
しかし歓迎でも許可でもない、ただの反応だ。
「入ります」
開けた扉の先は、畳数は同じでも他の通常の部屋とは違いベッドなどが一切ない執務室。
対面の広い窓の向こうには新宿の象徴、東京都庁の第一本庁舎が堂々と屹立している。
途中から北棟と南棟に別れているだけのシンプルな構造だがその年季に裏打ちされた存在感は、奇抜なデザインのコクーンタワーより大きく圧倒的である。
しかし執務室内に聞こえるのは、ゲームのコントローラのやかましい操作音だ。
両手で握る一般的なパッドではなく、一本のスティックと八個のボタンが付いた格闘ゲーム用のいわゆるレバーと呼ばれるもの。
「待ってて、もうすぐ……はい、勝った! 苦し紛れに無敵頼りのぶっぱなんて何度も見たわ。ダッサい、ざまぁないわ。勝利を運に委ねるのは、いざって時だけにいいのに」
インターネット越しの対戦相手を、意味不明な言葉で罵倒する。
そしてコントローラの隣に置いたペットボトルのコーラを一口飲み、愉悦に浸る。
大人としてみっともなく、妙齢の女性としてもったいない。
「学校お疲れ様……ちょっと何よ、その100%哀れみに満ちた眼差しは」
ヘッドレスト付きの大型メッシュチェアに座り、鏡面加工がされた木製の大型デスクに肘を立てる彼女は、気怠い目つきで不満を漏らす。
但し、高級木材を使ったデスクに革張りの椅子ならまだしも、機能性重視のメッシュチェアはインテリアとして相性が悪くやや間抜けに見える。
「いえいえ、何も」
化粧っ気のないきめ細かな肌は透き通るように白い。
顎に収まる頬のラインは小さいがほど良く尖り過ぎない。
傷みなど全く伺えない艶のある見事な黒いロングヘアに大きく開いた二重瞼は、世の女性達が羨むものだろう。
見目麗しい、誰もが認める紛れもない美女。
しかし着ている服が大きなマイナスポイントを獲得し、結果±0になっている。
色は彼女のパーソナルカラーであるワインレッド、そこまではいい。
それには淑やかさも華やかさもない……ジャージなのだ。
しかも一般的なものと違い改造されたもので、襟から黒い三本ラインが星型の金属オブジェが埋まった袖へ伸び、肩にはワッペンが付いている。唯一の救いはその左肩には彼女の愛車の象徴たる、跳ね馬のエムブレムがあることぐらいだ。
つまり、東京都庁すぐ近くにある格式高いホテルの一室で、趣味の悪い改造ジャージを着てゲームに勤しみ勝利を野蛮に喜ぶ美女、ということになる。
嘆かわしいと、これまで優人が溜息をついた回数は数え切れない。
彼女は、天井陽香。
優人の歴とした上司である。
「陽香さんの趣味にケチつけるには、僕はヒヨっ子過ぎるので何も語らず、ですよ」
「言葉じゃ本心はわからない、でも本心は態度に出るものよ」
「それは間違いありません。そして僕はそのお考えを否定いたしません」
「口の減らないやつ」
部下の慇懃無礼な喋りを嫌味で返し、陽香は子供のように唇を歪ませる。
「そういえば、見せたいものがあるんだけど、整理するわ。ちょっと待っててね」
優人は「失礼します」と一言断り、幅広く柔らかい二つのソファの片方に座る。
上司の陽香は気にしないがきちんと断って礼儀を守るのが、彼のポリシーである。
陽香はゲーム機器のある右側からデスクの左側へ、椅子ごとスライドする。
ジャージと同じワインレッドの一体型PCに向かい、手元のキーボードを操作して壁にある大型ディスプレイを点けた。
映ったのは、数ヶ月に一度は放送されていそうなドキュメンタリーのテレビ番組。
『この世界はあの結社によって牛耳られているんですよ!』
『陰謀論者はこれだから……事実はともあれ、世界各国にいる彼らがシャドウガバメントを行っているという与太話は有名ですが、具体的にどんな権力を持っているので?』
『あの結社には、社会的地位が高い人物が多いのです。個々人が持つ権力が高いゆえに、どんな分野へも影響力があるのです』
『ふむ、なるほど。では彼らは具体的にどんな活動を?』
『わたしにもわかりません。彼らは結束が強く、その詳細は我々一般人にはわかりません』
『それは卑怯でしょ。そこを話してくれませんと、逃げ腰と言われても仕方ないですよ?』
『ではあなたは、彼らの組織が存在しないことを証明できるのか?』
『それは悪魔の証明をしろというのですか?』
最初は討論番組として体を成し雑学を楽しめる内容だったが、途中からやがて喧嘩が続くだけの不毛な時間になっていった。
「よし、準備オーケー。まずはこれ見てね」
画面が切り替わると、夜の街が映っていた。都会の夜景などではなく静まり返った住宅地。明かりが少ないため、時刻は深夜だろう。
最初は何も動きはなかったが、やがて街の一画で変化が起きた。
高いフェンスに囲まれた建設途中の工事現場。
そこに一点の青白い光源が発生し拡大してから収縮すると、空へ向かって光の奔流が飛び出していく。
「えっ、これは」
約三十秒後、光源ごと軌跡は消え去り、再び街に暗闇が訪れる。
「あら、もしかして何か知ってた?」
陽香は光の部分をズームして、発生から収束までをループさせる。
繰り返し流れるそれは、まるで《光の柱》のようだった。
「ええ、あまり詳しい話じゃないですが、この《光の柱》が噂になってるのは知ってます」
放課後の教室で由梨から聞いていたものだ。
「あら、これにはそんな名前があるのね。なら話が早い、一応この通りなんだけど」
動画が先送りにされると、中型の貨物トレーラーが工事現場を去っていくところが映る。
「大掛かりな装置を使った現象みたいね。最初の目撃は二ヶ月前、それから都内の至る場所で同じ現象がいくつも発見されてる。犯行時刻は真夜中だけど、実行日に関しては不規則」
映像も使ってるため当たり前だが、学校で聞いた由梨の話よりも陽香の説明の方が端的で、状況の把握が楽だった。
「一度だけ早い段階で察知できて、調査班を派遣できたけどすでにもぬけの殻だったわ。到着から十分も経たずに撤収という手際の良さ、このゲリラ的手口は明らかに統率された集団によるもの。調査報告にも民間人に噂が伝播しているとあったけど、実際に優人の耳にも噂が入っているし、早急に解決すべき問題ね」
各メディアは報道規制されるため、民間人に明確な情報が広まることはない。
しかし、だからといって悠長に構えてもいられない。
「少し前まで、どう対応しようか案が無く悩んでいたのよ。でも詳細をまとめるうちに、場所に関しては傾向が見られたわ。例えば最初の目撃例も世田谷区だし、二日前に唯一録画できたこの動画も足立区で、他の犯行現場も都内23区のベッドタウンに偏ってる。逆に東京の中央で人口も面積も最少の千代田区は目撃数ゼロなのよ。その周辺も少ない」
陽香は説明をしつつ、ループ再生している映像を鋭い視線で見据える。
「真夜中のベッドタウン。これはあたしの予測だけどさ、実行犯達の意図は――」
「民間人に見せつけたい、ってことですか?」
陽香は台詞を横取りされるが、どこか楽しそうに微笑む。
すると席を立ち、芝居がかった艶かしい仕草で優人の肩に触れてから寄り添う。
「あぁーーん、一番美味しいとこ言わないでよ。い・け・ず♪ でもお姉さん、後輩君の成長が伺えてうれしいわよん」
ソファの隣で騒がれたせいでメガネの位置がズレて、優人はやや大げさな動作で直す。
最初の頃はこの悪ふざけに動揺していたが、最近は慣れてきた。
冷静に考えれば、仮に美人だとしてもジャージでは色香を感じないしありがたみもない。
「その意図に気づく民間人はまずいないと思いますが、やっている内容自体……完全にアウトですよね。あんなものを空に打ち上げるなんて」
「そうね。だから、早急に解決しなきゃならない。それにここまで組織的な行動は一般警察じゃ対応できない。ならあたし達が止めないとね」
そのために特殊な人材と設備を整えた集団が存在している。
管理部隊と呼ばれ、陽香や優人も、数ある部隊のうちの一つに属する人間だ。
「今のところ対策案はあるんですか?」
「構想はね。もう少しで具体的な作戦が組めそうよ。だから、ちょっと待っててね」
「みんなはもう知ってるんですか?」
「マコちゃんは遅れて来るらしいから、このあと説明するわ。丸ちゃんにはもう説明してあるし、クソホークには丸ちゃんが説明したらしいわ。第二種作戦待機、よろしくね」
ならば嵐が吹くのはもうすぐ。
「わかりました」と答えて、心構えをしようと胸に力を込めようとしたとき、
「でもね、多分そこまで危険な作戦にはならなさそうよ。優人なら大丈夫、気楽にね」
落ち着いた声で話し掛ける陽香は、肩に無駄な力が入った優人の内心を、見透かしているようだった。
********************
優人にとって高校生活という日常は、自分の立場をカモフラージュするためのもの。
毎日通学するのも義務だ。
ただ、作戦待機命令が出ても呑気に過ごすことはもどかしい。
昨日、陽香に「気楽にね」と言われなければ歯痒い気持ちはさらに強かったかもしれない。感謝すべきだなと、思いながら教室の扉を開けた時だった。
「優人くん!」
悲鳴に近い呼び声。景が焦った様子で自分の席から飛び出してきた。
「由梨から何か聞いてない? 由梨と連絡が取れないのよ! 今朝もいつも通りあの子の家に行ったらいなくて、おじさんとおばさんが慌てて警察に電話してた。夜までいたらしいけど、朝にはいなくなってたみたいなの。政明くんもわからないっていうし、あたしどうしたら」
青褪めた表情のまま早口で話される。そんな平静さを欠いた姿に、一抹の不安を感じる。
「いや、僕は何も聞いて――」
そう言い掛けてからあることを思い出し、急いで携帯電話の表示を覗いてみる。
しまった、後悔が一瞬にして体を駆け巡る。
メールを開くと深夜二時頃に由梨からの受信があり、
――少し怖いかも、気が向けば来て
という文面と、タイトルに場所の指定があった。
「見せて!」
景は携帯電話を奪い取ろうとするが、優人は反応して自分側に引き寄せて握り締める。
しかし隠しても意味はないと悟ってそっと渡す。
「――」
瞬時に広がった絶望が、喉の奥から細い掠れ声となって出ていく。
文面を見た景はそれだけで、幼い頃からの親友の身に危険が降り掛かったと察したのだ。
感情の堰が切れてその場で崩れ落ちる彼女を、優人は両肩を掴んで支える。
手から滑り落ちた携帯電話が床にぶつかり、無機質な音が教室の日常を壊す。
「やっぱり……真夜中に出掛けたんだ。あたしと政明くんじゃ、昨日みたいにまた反対されると思ったんだわ。だから優人くんにだけそんなメールを」
眼が開ききって呆然と悔やむ姿は、普段の気丈な姿勢とは掛け離れたものだった。
「大げさだよ。落ち着けって。これから警察も調べてくれるしさ。なっ」
自分自身で言ったその薄い言葉はただの気休めでしかないと、よくわかっている。
この世界の警察がどんなものか、実情を知っているからだ。
「うん、そうだね。うんうん」
虚ろな表情で自分を言い聞かせるように頷く景を見て、友人を騙している気分になる。
由梨から聞いた新しい都市伝説と、陽香から受けた事件の説明を思い出す。
まだ確定させるのは早いが、由梨はきっと《光の柱》に関する事に巻き込まれたのだ。
「さっ、まずは落ち着いて」
優人は後ろめたい気休めをもう一度しつつ、景をひとまず席に座らせる。すると床に落ちた携帯電話を拾い上げて再び景の席に戻ろうとした拍子に、バイブが振動して画面がメッセージの着信を示す。
差出人だけ確認すると、陽香からだった。
文面は何もなく、タイトルに「ユアアイズオンリー」と書かれているだけ。
意訳すると「読後焼却すべし」となるが、タイトル自体に意味はない。
これは無関係な人間が見ても内容がわからずに済む簡易的な連絡方法、一種の符牒である。
タイトルだけで本文なしの場合は「今日中に司令室まで来ること」という命令になる。
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