実存するクオリア
シャナンが激昂する。
「本当の私が
シャナンの頬にうっすらと涙が流れる。だが、生命の賢人は、シャナンの泣き顔を他所に訥々と話を始めた。
「シャナン。僕たちの世界……いや、社会では心…………そう、キミの言うクオリアを完全に取り出し、別の体に移し替える技術の確立に成功している……」
「………嘘よ……」
「嘘ではない。キミたちの言葉の定義を借りるならば、クオリアは主観的モノで、客観的に理解し得ない感覚とされている。だが、客観とは何だ?主観とは何だ?キミたちの考えでは、自分と他人は深層では決して理解できない関係だと思っているだろう?だが、僕たちは違う」
「……難しい言葉を弄して私を煙に巻こうとしているの?私を甘く見ないで。クオリアは個々人の経験で成り立つものよ。決して他人には理解できない、理解したくてもできない、“心のあり様”のはずよ!」
シャナンは止めどもなく流れる涙を拭おうともせず、生命の賢人を睨みつける。その瞳には不信感と怒りの感情が含まれていた。だが、生命の賢人は構わず話しを続ける。
「そうだな。人は他人の考えを完全に理解はできない。それは脳が個人個人で独立して存在しているからだ」
「分かってて言っているの?私を馬鹿にしているのかしら?」
シャナンが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「だが、それは脳と精神が極限まで発達した僕たちなら別だ。僕たちは高度化した精神とテクノロジー化した脳を、お互いにグリッド化して相互演算する技術を生み出した」
「……私の理解が正しければ、お互いがお互いの考えを共有して、同じ意見を持つ様になったと言うこと?」
「そうだ。僕たちは、お互いの思考を完全共有する技術を開発した。驚いたさ。自分が“赤”と思っていた色が他人には“青”に見えていたなんてね。本当にクオリアが存在したとは……」
生命の賢人が少しばかり上気した顔を見せる。
「仮に……そうだとして、何故私なの?私がここにいる“理由”は何?」
シャナンの言葉に、生命の賢人は即座に浮かない顔を浮かべる。
「僕らの世界にはキミが思う戦争とは言えない戦い……”準戦争“とも言うべき争いが蔓延しているんだ。思想、経済、生態、電脳、道理……僕らの世界ではありとあらゆるものを使った全次元の争いが起きている。だから、単純な武力で対抗できない上に、広範囲で発生する複数の
難しい話だな、とシャナンは思った。それと同時に煙に巻かれないように生命の賢人の話しに聞き入る。
「最初は人間以外の方法で対処を試みたんだ。その存在には人間に連なる存在としてのデータと目的を与えたのだけど、どうにも上手くいかなくてねぇ……結果として、その存在だけでは対処できない事態が幾つも出てきた。これには参ったね」
人間以外と聞き、その内容が何かと聞きたい衝動に駆られた。しかし、シャナンは生命の賢人の次の言葉が気になり、押し黙る。
「そこで、ある計画が発足された。その計画では、人間と同等の存在に僕たちの代わりをしてもらうのさ。先程との違いは“人間と同等”であるか否かだ」
人間と同等であるか否か……そもそも生命の賢人が言っている人間とは何か?この定義を放置してはいけないと思い、シャナンは口を挟む。
「……流石に分からなくなってきたわ。人間以外とは何?人間と同等と何は指しているの?」
「……そうだな。言い換えると、“魔族”が”人間以外“で“人間と同等”がカトンゴやアチャンポンみたいな世界の人々さ」
シャナンは生命の賢人の秘密主義めいた考えに嫌気がさしてきた。
「どうして最初からそう言わないの?」
「シャナン……ゴメンよ。先程も言ったけど、僕の権限ではキミに伝えられない項目も多数ある。“人間以外”と言ったのは魔族以外の存在も含まれるからさ。もちろん、人間と同等もね」
生命の賢人は苦しそうな表情を浮べる。この男は自身の立場という制約に縛られているのだろう。いつもはヘラヘラとしているが、今は結論を先延ばし、演繹的に言葉を選びながら、話と話の間に考え込む時間を多く取っている。
生命の賢人の苦しそうな表情を見て、シャナンは
「もういいわ。今はダメでもいつか教えて。あなたの権限が変わるならば……」
「ああ。では、話しを続けよう」
生命の賢人はシャナンの態度が軟化したのを見て、少しばかりの安堵の表情を浮べる。
「この世界の人々は僕らの問題をうまく処理してくれる……はずだった。しかし、すぐに限界がきた」
生命の賢人の表情が昏く沈む。
「魔族と違い、この世界の人々は限りなく僕たちと構造的に似通っている。だが、問題解決の肝心なところで、この世界の人々はいつも想定外の行動をして失敗してしまう」
「想定外の行動って……具体的にはどうなったの?」
「そうだな……多くあった事例では思考を停止して呆然と立ち尽くしたり、合理的な判断を放棄して自滅したり…と、僕たちからすると考えられない行為を繰り返したのさ」
「単に緊張して間違えただけじゃないのかしら?私だって緊張すると、そうなっちゃうわ」
シャナンは生命の賢人の言い分に疑問を呈する。だが、生命の賢人は首を横に降る。
「そうではないんだ。何もないところで突然おかしくなるんだ」
「……何もないのに?」
「ああ。僕たちはこの原因を探った。数年、数十年という長い期間の実験と経験から一つの答えに辿り着いたのさ」
「数十年?」
「ああ。長い期間さ。その結果得られた答え……この世界の人々の内面には“クオリア”が不在だったからさ」
「クオリアが……不在……」
クオリアが不在というならば、哲学的ゾンビということでは無いのか?トーマス、ルディ、セシルやカタリナ……彼らは自分の意思を持たず、ただシャナンに付き従う只の
「そうさ。クオリアを持たない存在だと言えども、彼らも人間だ。知らず識らずにクオリアに足る経験が蓄積されていたのさ。彼らが自我を覚えた時、何故自分が理不尽なことをしているのか混乱して異常行動をしていたのさ」
「ちょっと待って、おかしいわ。哲学的ゾンビならば、自我なんて覚えないわ。心も無く、ただ人の振りをして振る舞う……そうでしょ?」
「そうだな。本当に哲学的ゾンビがいるならばね……」
「どう言う意味?みんな作られた人間なのでしょう?だったら、作られた記憶で動いているならば、哲学的ゾンビじゃないのかしら?」
シャナンは訳が分からないと質問する。
「結局、彼らも人間だったのさ。無我から自我が産まれるのは、人間が持つ経験の
「……だとしたら、あなたは……何て酷いことをしたの?……何も知らない人を戦争に駆り出すなんて……」
「キミの世界には“人権”と言う他者を
唐突な言葉にシャナンは鼻白んだ。だが、すぐに持ち直して生命の賢人に ことばをかえす。
「……?あなたの世界には人権が無いの?人権なんて、人として当たり前の権利じゃ無いの?」
シャナンが疑問に思う。
人は産まれながらにして皆平等の人としての権利を持っている。男だろうと女だろうと大人だろうと子供だろうとあって然るべき権利なのだ。それは、人類が長い歴史の上、勝ち得た人としての尊厳である。
「……僕らの世界ではそんな弱者救済の概念はない。僕らは遺伝学的に操作された存在だ。みな、考えうる限りに能力を極限化した人間しか生まれない。稀に発生する遺伝事故は超天才か欠陥物の二つの選択肢を僕たちに突き付ける」
皮肉めいた言葉にシャナンは気づく。生命の賢人とは、彼の世界の中でもイレギュラーなのだろう。安っぽい同情かもしれないが、シャナンは生命の賢人に憐みを覚えた。
「……ケンちゃん……」
「…やっとケンちゃんと呼んでくれたね」
生命の賢人がふと漏らした一言に、つい、いつもの呼び名に戻してしまったことにシャナンは気づいた。
「確かに僕らは人でなしさ。それは否定しない。利己的で他罰的で根拠のない万能感に溢れた連中ばかりさ。超官僚主義化した社会に順応し、備わった能力を生かそうともしない。他人がどうなっても気にはしない。自分が良ければそれでいいのさ」
生命の賢人は自分が生まれた社会を呪いの言葉で修飾する。そこには自嘲めいた響きも感じられた。
「でも、僕は……地球に来て少し考えを変えた」
この一言にシャナンは反応した。
「……どう変えたの?」
「キミらの思想に少しばかり感化されたのさ。遺伝事故の産物である僕は、もしかしたら処分されていたかもしれない。運命があるならば、偶然にも選ばれた先に僕は生かされている。今までは他者との優位性から選民的な感情を覚えていた。しかし…」
生命の賢人は一呼吸置いて言葉を発する。
「僕は僕の能力を活かして自分の思想のために生きることにしたのさ」
「……?どういうこと?」
「……これ以上はまだ言えない。権限ではなく、僕のクオリアに掛けて」
禁忌に触れたのか、生命の賢人が口を紡ぐ。
数分か…………数十分か……数時間か…数日か、数年かに匹敵する時間が二人の間に流れる。
お互い視線は逸らさない。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………無言が続く。
しかし、生命の賢人がボソリと呟いた。
「僕ができる話は以上だ。だが、ゴメンよ、シャナン。キミの答えには今は答えられない。キミがココにいる理由や世界の本質は、真の勇者であるキミならば、きっと見つけられる」
「……………卑怯だわ。そんな逃げ方……」
「悪いね。頭の痛みもあるし、キミは一筋縄ではいかない知性がありそうだからね。不用意な発言で自身の身を危険に晒したくないんだ。また明日にでも体調が戻ったら話そうか」
そう言って生命の賢人は部屋から出てていった。シャナンは悲しみを背負ったその後ろ姿をただ見つめるしか出来なかった。
だが…………翌日以降、生命の賢人はカロイの街から姿を消した。
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