第3話 私の朝
今日は波が穏やかだ。遠くに見える赤く色づいた山を一瞥して、私は自転車で海まで行く。道沿いに植えられたイチョウの葉の黄色と、その補色の海の青さが、私が心惹かれる風景の一つだった。そして、私は疲れを一切感じない。その青に乗っているときは。
「いつもありがとうねぇ」
「いえ、こちらこそ」
小屋のおばちゃんに預けていたサーフボードをとりに行き、軽く話をしてから、海に出る。わきに抱えたサーフボードを置き、砂の冷たさに身を震わす。日が照る昼とは違って、冬が来たかのような寒さに包み込まれないように、私は早く海水に足を踏み入れた。
海から上がって、タオルで体をふく。これで私の朝が始まる。この習慣がついたのはいつからだろう。そういえば、私はこの町に長くいるはずなのに、幼少期の記憶はあまり残っていない。昔すぎてわからなくなったとか、思い出すと嫌になるとか、そういうものではない気がする。まあ、嫌になったから無意識に仕舞っているのかもしれないけど。
私はあまりにも速すぎる社会の流れに取り残されないように、過去を振り返ろうともせずに、今日を精一杯生きているつもりだ。そういう風に割り切り始めたのも、いつからかはわからない。
私はたまにこんなことを考えてしまう。よく考えることなんて、私の性には合わないけど。結局、私がわざわざ眠い目をこすって朝から冷たい海に行く理由はわからずじまいだ。
私はどこか、海にひかれているところがあるのだろう。海に逃げている、といったほうが正しいだろうか。私は、いつから海を求め始めたのだろう。
もう秋が深まり、海水浴客の捨てたごみも減って、浜がきれいになる秋。天気予報で、台風十四号の情報が流れる秋。教室で引退する先輩へ向けての手紙を書く人がちらほらと現れる、秋。
こんな時こそ、どこかへ行ってみたいと思ってしまう。もう私も、おばさんみたいになっているのかもしれない。電車でハイキングの広告を眺める。
彼のおかげで、前ほどの文字嫌いではなくなった。彼に与えた罰の1か月が終わってからも、放課後図書館で本を読み、窓にさす光が消えるころに帰るというのは今もしている。
今日もいつもの席に荷物を置き、本を借りに受付に行き、からかわれる。
「町田君、いつも一人だったから、彼のこと、よろしくね。彼女さん」
「もう!そんな関係じゃないですから!」
「あの子も、あなたといるとき、いつもより笑っているから。ほんの少しだけど。あの子もいろいろあったからねぇ」
「えっ?何かあったんですか?」
「あ、いけない。内緒のことだった。今の話はなし、いいね?」
「あ、はい…」
彼についての話を、受付のお姉さんが仕掛けたことはよくあった。でも、いつも詳しくは話してはくれない。私は、彼の秘密を知りたいと思うことがあるが、誰にだって秘密の一つや二つはあるものだということは、さすがに高校生にもなった私はすでに分かっている。
どうしても、話せないことは、私にもある。
思い出したくもないあの春。いくら自分を責めても、その時に誰かが負った傷が癒えても、私の心にはぼんやりと、あの初春の風景が陽炎のように立ち込めている。
今日も、彼と帰る。帰り道では、特にこれといって話すことはない。強いて言うなら、最近読んだ本の内容や、ニュースでやっている本屋大賞をとった作家の作品についてしか、共通の話題がない。昔、こんなことがあったよね、とか、あの先生結婚したらしいよ、とかいう会話は、できなくはないけど、私の身辺のことだけだと退屈させてしまうので、あまり出さないようにしている。
最近二週間ぐらい、彼との話題が尽きている。黙って帰る通学路。いや、これが彼の普段の通学路なのかもしれない。私と帰ったあの日から、本当はこうやって彼に干渉すること自体、何かに反しているという感情をどうしても抱かずにはいられない。
でも、彼がたまに見せる、おそらく地の姿は、決して普段が作りものというつもりはないけど、彼の一部分だと、いや、彼の本物のあまり知られていない部分なのだと、私は思う。その背中の不思議さは、私にとっては百鬼夜行の行列がムーンウォークで商店街を練り歩くようなものだった。
「ねぇ啄木君」
「ん?」
彼が気だるそうにこちらを見る。
「今度の日曜日、空いてる?」
「まあ、一応」
「あのさ、『あなたの手に紅葉載せて』の聖地巡礼したいなって思……」
「行く! 絶対!」
「え、わ、分かったけど……」
「あっ、ごめん……」
沈黙が流れた。
「僕、今日はこっちだから。じゃあ」
「うん、わかった。じゃあ」
バイバイと手を振る啄木君の口元に言葉を感じて、彼は遠くなった。
届いたんだね。じゃあ、挑戦状だね。
私はメールを打ち始めた。
“君が為 身から出たうた
かのごとし
澄み渡る空 桔梗散れども“
君もわかるように、一句。
今日も月がきれいだ。この月をあなたも見ているのだろうか、なんて平安の人は言うのだろう。
明日、私はきっといつも通りの朝を迎える。
その朝には、肌を刺すような刺激も、胸を突くような驚きもないのだろう。
日曜日、どうしようか。
『あなたの手に紅葉載せて』
ん?どこかで聞いたことのある気が……。
僕は違和感を感じながら、自分の影が長く伸びている駅への道を歩き、満員電車に揺られて家についた。
とりあえず日記を開き、いつも通りその日のインスピレーションに任せて手を動かした。
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