第13話 『Smoke On The Water』

 2019年の元旦は、雪のそぼ降る静かな朝だった。まだ夜も明けきらない頃、長い長い石段を埋め尽くす初詣の人の群れを見下ろしながら、霜山はぶるりと震える。


「さーむっ。まじでさみい。もっと陽が出てからで良くねえか?」

「だめですよ。伝統行事なんだから」

「誰が作ったんだよこんな伝統。割とマジで」

「まあまあ。よいではないか甘酒飲めるし」

「どう考えても労働と対価が釣り合わねえんだよ」


 住川第5高校には、生徒会役員たちが、初日の出の前に揃って初詣に行く奇習がある。寒がりの霜山は、これが嫌で嫌で仕方がなかった。だから数ヶ月前から仮病を使う気でいたのだが、いざ年明けになると、真面目な性格が邪魔してそんな嘘などつけず。難儀なものだとため息をつけば、とめどなく白い息が流れ出た。そうしたら、星野に「ゴジラみたい」と大笑いされた。小学生かよ。


 牛歩の列の先からは、カランカランと乾いた鈴の音や、柏手の音が聞こえてくる。人混みの中は見知った顔ばかりだ。帽子についた雪を払うと、鳥居から社までを照らす無数の赤い提灯が幽かに揺れた。


「あれまたあったんだって?幽霊騒動」

「はい。今度は2年生の稲庭先輩と穂積先輩が。畦道の中でフラフラ歩くスカートを履いた女性の人影があったそうです」

「それただの酔っ払い女とかじゃないのォ?」

「いや、背が高かったとか」

「あ、わかった。履いてたヒールが折れちゃったひとじゃない?」


 井上と星野は楽しそうだが、夜明け前に幽霊話なんて聞きたくもない。そうこうしているうちに順番が回ってきて、霜山はポケットから小銭を出す。


「財布のヒモが42.195キロある霜山クンのお賽銭は幾らかな?」


 千円札を持った星野に手元を覗き込まれるが、手のひらは固く握っている。井上は「始終ご縁」という語呂合わせのために1円玉を45枚持ってきたそうで、ジャランジャランと虚しい音が派手に響いた。まったくこいつは、真面目そうな顔してよくわからない。星野に見られないように賽銭を投げ、霜山はさっさと鈴を鳴らす。


「……会長よぉ、願い事って幾つまでいいんだっけ」

「え? きみそんなに願いたいことあんの?」

「贅沢ですねえ」

「うるせ。井上はひとつきりで済むのかよ」

「ぼくは6つお願いしますよ?」

「えっおれなんでさっき贅沢って言われたの?」

「ほらきみたち、後ろが詰まるよ」


 二拝、二拍手、一拝。まぶたを閉じれば感じる、焚き火に燻された雪が溶けて水になる匂い。甘酒の香り。年の初めに浮かれる人々の笑い声。霜山の投げた賽銭は314円。住川第5高校の、生徒の数と同じ金額だ。


――3年生の受験が上手くいきますように。

――全ての部活動が、今年も活躍できますように。

――今年も、みんなにいいことがありますように。


 利己的な祈りなど無い。何も持たない自分は、何かを持った誰かを応援するのみだ。脳裏をよぎるたくさんの顔は、どれもが大切な人の顔で。強く願い、薄く瞼を上げると、その途端に背後から歓声が聞こえる。


「おお見たまえ。初日の出だよ」


 星野に肩を叩かれ、狭い石段で振り向けば、雲の切れ間に太陽の光が見えた。スマートフォンを構えた人々が、それに向けて一斉にシャッターを切る。霜山は眩しさに目を眩めながら、凍てつく空気の中に確かな熱を感じた。


***


「――やっぱり『ディープ・パープル・メドレー』しかなかろう」


 四畳分程しかない狭い狭い音楽準備室の中で、どかりとあぐらをかいた栗栖の言葉に、吹奏楽部副部長の古川慎は頭痛を感じた。


「ないわけねえだろ。もう何年やったよディッパ。なんか他あんだろ他」

「他というと……『ハイウェイスター』か」

「メドレー収録曲だろそれ」

「じゃあ『スモークオンザウォーター』」

「メドレー収録曲だろそれ」

「ならば『バーン』」

「それも収録曲だろ。つーか全3曲のメドレーだから収録曲ぜんぶ出揃っちまったじゃねーか」

「普段はメドレーでしか聴けない曲をフル尺で演奏するんだ。喜ばないわけがあるまい」

「この学校の生徒はディープパープルしか知らねえのかよ。どんな客層想定してんだおめー」

「よし、ならば前述した3曲に『ディープ・パープル・メドレー』を入れて4曲のセットリストだ。アンコールは『ブラックナイト』で異論はないな」

「異論しかねーよ」


 住川第5高等学校吹奏楽部の仕事始めの1日には、予餞会――つまり「3年生を送る会」――の演奏曲目決めという大切な仕事がある。

 副部長とパーカッションのパートリーダーを兼任する古川は、予餞会の雰囲気が好きだ。受験の圧力から解放された3年生が、高校最後の行事に盛り上がるあの浮ついた感じが、たまらなく好きだ。昨年、1年生部員として予餞会で演奏してから、古川はずっと「次の予餞会では何を吹こう」と考えていた。


 まあ行事の性質的に何を吹いても盛り上がることはわかっているが、それでも、なるべくならば盛り上げてやりたいと思っていたのだ。多少は無理をしてでも、部員たちから不満が出ても、他の何よりも観客の気持ちに寄り添いたい。古川の方針は、それに決まっていた。


 だがしかし、障壁は想定外のところに現れた。


「しかし現実問題として『ディープ・パープル・メドレー』以外に何があるというのだ?」

「おめーの背後のクソでかい楽譜棚は飾りか?」

「おまえ知らんのか。この楽譜棚、『オーメンズ・オブ・ラブ』5セットあるぞ」

「そーかそーか、おれは『宝島』3セット見つけたが、それ以上のがあったか」

「ちなみにマードックは最後の手紙を4通出してきていた」

「その調子だとマゼランも4回くらい未知なる大陸に挑戦してそうだな」


 冷たい床にどかりと座る栗栖は、信じられないほどに『ディープ・パープル・メドレー』ばかり推してくる。そりゃあもう、音楽史上稀に見るレベルで推してくる。1回の演奏会で3回演るほどに推してくる。どれだけ好きなんだよと思ったが、奇妙なことに、栗栖はディープパープルのファンではないらしい。わけがわからない。


 古川はもう飽き飽きしていた。練習含めて一生分のディープパープルを聴いたからだ。楽譜はとうの昔に暗譜しており、細部の演奏記号どころか、印刷ミスの黒い点の位置まで正確に覚えている。それは多分部員たちにしても同じことだ。だってこの間「ボヘミアンラプソディ」吹いた時、フルートの吉岡くんは静かに涙を落としていた。その涙を栗栖も見ているはずなのに。ああいや、ディープパープルが吹けないから泣いたと思っているのかもしれないか。


「とりあえずディッパはもうやめようぜ。これじゃあディッパの安売りどころか出血大セールだ。リッチーが草葉の陰で泣いてるぞ」

「おれはディッパに思い入れが無いからな。リッチーが草葉の陰で泣こうがジミー・ペイジが怒ろうがノーダメだ」

「ジミー・ペイジもとんだ流れ弾だわ。まじさ、常識で考えろや。こないだの秋の合同演奏会、おれら何吹いたっけ」

「ディープパープルメドレーだが?」

「アンコールは?」

「スモークオンザウォーター」

「メドレー収録曲じゃねーか!」

「アンコールというのは『おかわり』という意味だ。メドレー収録曲をフル尺演奏して何が悪い」

「だから! それを! もうやめようって言ってんだよ! この世には吹奏楽曲がそれしかねーのかよ!」

「……あるのか?!」

「……」


 冗談冗談と栗栖は笑うが、古川はちっとも笑えなかった。冗談なことは重々承知である。だって夏の吹奏楽コンクールでは「マン・オン・ザ・ムーン」を吹いたんだから。栗栖は終始「マン・イン・ザ・ミラー」と呼んでいたが。ああ、だから「マン・オン・ザ・ムーン」だったのか。


 何度目かもわからないため息をついて、古川は胡座を組み直した。他の部員たちはフルートの吉岡くんの統率のもと、音楽室の周りに腰の辺りまで深く積もった雪を5つの山に固めている。その雪山は心なしか見覚えのある5人の顔に似ていたが、まあ気のせいだろう。


 それにしても凍えるような寒さだ。大柄でたぷたぷしている栗栖は薄着だが、細身のこちらとしては骨まで冷える。真鍮とロータリーオイルの匂いに満ちた薄暗い準備室は、少しでも黙っていれば胸が苦しくなるほどの沈黙に襲われる。


「……まあ、ただな」


 鳥肌の立つ腕をさすっていると、不意に栗栖が口を開く。古川は器用に片眉を上げ、視線で応えた。


「あの相澤が変わろうとしてんだ。おれらも変化を求める時期なのかもしれんな」

「……うん……うーん?」


 静かに微笑みながら言う栗栖の言葉に納得しかけて、古川は再び首を傾げる。


 ブラックサバスを子守唄に育った相澤がオリジナルサバスへのこだわりを捨てたのは、この学校では大きなニュースだった。


 しかし、それと吹奏楽部とに何の因果関係があるというのだ。相澤は別に1曲ばかり弾いていたわけではなく、何枚ものアルバムの収録曲を、毎度毎度組み合わせに変化をつけて演奏していた。その姿勢は、同じ曲ばかり吹いている吹奏楽部とはむしろ正反対である。古川は頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、顎に手をやる。


「――そろそろ頃合いかね」


 そんな古川の視線をものともせず、栗栖は遠い目をして腕を組んだ。栗栖が何かを企んでいることは知っている。だが、それが何であるかは誰も知らない。楽器庫に篭ってこちゃこちゃと書き物をしているのは頻繁に見かけるが、中身までは見せてくれない。古川は栗栖と特段仲が良いわけではないが、見せてくれても良いのに、と思っていた。


「……というわけで、今回も『ディープ・パープル・メドレー』でいこう」

「どういうわけだクソったれ」


 誰にも理解できない理論を振りかざす栗栖が、腹肉を揺らして豪快に笑う。ため息をついた古川は、いっそ本気でリッチー・ブラックモアを恨んだ。


***


「あら加藤くん。遅くまでお疲れさま」


 聞き慣れた声に顔を上げれば、美術室の中はとっぷりと日が暮れていた。道理で手元の線が見えづらくなってきたわけだ。加藤は短くなった4Bの鉛筆を置き、カンバスから廊下へ視線を移す。


「今度は誰を描いてるの? って言っても、先生わかんないと思うけど……」

「……フレディ・マーキュリーっス」

「ああ! 映画のひとね? うふふ」


 薄暗い廊下から美術室へ入って来た養護教諭の岩瀬は、教員になってやっと3年目という若い女性だ。おっとりとした瓜実顔が微笑むと、部屋の空気まで和らぐような気がする。


 加藤が今描いているのは、5月の絵画コンクールへ向けた作品だ。画題に選んだのはフレディ・マーキュリー。以前から描きたかったことは確かだが、今描いているのは、映画を観たことがきっかけだった。


「わ、すごーい! やっぱり上手いわねえ。先生あんまり詳しくないけど、そっくりよ!」

「……あざっす」


 ハロゲンヒーターの光にあてられて横顔がヒリヒリと熱い。そうか、だから夕暮れに気付かなかったのか。そんなことを考えながら、加藤は薄汚れた15号カンバスを眺める。

 何度も何度も描きなおし、最終的にこれと決めたのは、王冠とローブを纏い、ウェンブリーの観客を振り返る1986年のフレディ・マーキュリーの姿だった。立ち上がり、少し離れて下描きの仕上がりを確認し、加藤は小さく頷く。ざっくりとした下描きだがまあまあの出来だ。色塗り次第ではあるが、悪くないものが仕上がると思う。


――ただ、何かがしっくり来ていない。何かが。


「これで、次は色塗りするの?」

「ハイ。ざっくり塗ったあと、細かくやっていきます。仕上がりの時には絵がちょっと分厚くなってるんですよ」

「へー! すごいなあ。はー、こんなに絵が上手くなりたいわ」

「でもおれ、先生みたいに怪我の手当てとかできないんで。血ィ苦手だし」

「アハハ、そうよね。餅は餅屋よね」


 他愛ない話をしながら、加藤は帰り支度をする。時刻は午後7時。最終下校時間を過ぎ、隣の音楽室から絶えず聞こえて来ていた「ディープ・パープル・メドレー」はもう消えている。手を洗うために備え付けられた流し台の蛇口を捻っても、水道管が凍り付いてしまっているのか、水は出なかった。


 加藤は割れた唇を舐め、目を細める。構図は悪くないと思う。デッサンだってできている。似顔絵としてもよく出来ている。けれど何かが足りていない。その何かが掴めない。それが不安でたまらない。画面の中に浮かび上がるフレディ・マーキュリーは我ながら美しく描けている。けれど自分の絵には、何か決定的なものが欠けていた。


「……先生。この絵どうですか? どっか変じゃないですか?」

「えっ? うーん……どこも変じゃないよ?」


 軽い鞄を肩に掛けて問いかけても、養護教諭は首を傾げるばかりだ。その仕草に一点の嘘も無いことを見て、加藤の憂鬱は余計に深くなった。


 その夜は満月で、淡い光が雪に反射し、町はぼんやりと輝いているようだった。ザクザクと雪を踏みながら、加藤は白い息を吐きつつ帰路を急ぐ。

 美術室を離れてからも、頭の中は絵のことでいっぱいだ。年末のコンクールに落選してからというものの、このままではいけないという焦りばかりが募り、筆に迷いが出ている。俗に言うスランプというやつだ。それは理解しているのだが、これまで経験したことが無い程の落ち込みに、自分で戸惑ってしまっている。


「――ん?」


 そんなことを考えながらフラフラと歩いていたら、前の方から誰かが走って来た。疲れた瞼を瞬かせて目を凝らせば、その人影が、ジャージを着た尾津だとわかる。


「尾津先輩。ちっス」

「んあ? おー! カートくん! あけおめ!」

「加藤です。明けましておめでとうございます」


 軽く手を振って呼び止めれば、汗まみれの尾津が立ち止まる。この雪の中、汗だくになって肩を喘がせる彼は、どうやらジョギングをしていたようだ。


「コバーンくん、お絵かきしてたの?」

「加藤です。そうですね、お絵かきです。尾津先輩は何してるんスか?」

「んっとね、走ってんの!」

「訊き方が悪かったですわ。んーっと、どうして走ってるんスか?」

「んっとね。えっとね。肺活量増やしてね、いっぱい歌えるようにしたくてね。筋トレとか走り込みとかしてみたんだけど、きっついね!」

「……はあ」


 いっぱい、と両腕を広げる尾津に、加藤は生返事を返す。この尾津という上級生は、けっこうな歌唱力と声量を持ったひとだ。だから「肺活量を増やして歌唱力を上げる」なんて、今更必要のない行為である。それに言及すると、真っ赤なお鼻の尾津は照れ笑いを浮かべる。


「いやあね、リーダーとか芽衣子がいっぱい頑張ってるからさ。おれも頑張りたいなって」

「……頑張る?」

「うん。だからね、歌の練習もいっぱいすんの! おれね、葦原先輩みたいにね、かっこよく歌えるようになりたいの! そしたらね、きっとリーダーもいっぱい喜ぶぜ!」


 寒い夜に洟を垂らしながら、尾津は太陽のように笑う。加藤は何か言いかけて、唇を噛んだ。得体の知れない焦りと不安は、今や胸元を通り過ぎて、指先までを震えさせていた。

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