第8話 『Bohemian Rhapsody』
――いやまあ、わかってた。
電車に30分も揺られ、やっと辿り着いた隣町の映画館の薄暗いロビーで、相澤と芽衣子は肩を落とした。
いやまあ、わかってはいた。この映画館は学校から20キロほど離れているが、住川第五高の生徒たちが唯一自分の足で行ける映画館で、上映する作品数も多く、ついでに音響と映像の良いIMAXシアターもある。だから新作映画の公開日はおおむね混雑気味で、小さいスクリーンならば売り切れなんてしょっちゅうだ。
それに、重音楽部があるくらいの高校の生徒たちである。音楽映画には基本的に興味津々だし、その題材がクイーンとくれば、芽衣子の転入で一足お先にクイーンフィーバーを起こした生徒たちが映画館へ殺到することなどもはや必然。しかも今日この時間は、いわゆる「公開初日の帰宅時間帯」、つまり作品にとって一番最初の稼ぎどきだ。20分後から始まる夕方の上映回のため、ロビーで待機しているのは見知った顔ばかりではない。
――でも、2回分満席ってえぐくない?
正確に言えばIMAX上映を含めて3回分が満席である。やっと手に入れた20時30分からの上映のチケットだって、真ん中とはいえ前から4番目。130分超の『ボヘミアン・ラプソディ』が終わる頃には、首が痛くて動かなくなる。
「……仕方ないよね。今日みんな早退してたもんね」
困ったように微笑む芽衣子が不憫で仕方ない。彼女は誰よりもこの映画の公開を心待ちにしていたはずだ。相澤は後頭部をボリボリ掻き、階段上の大きなスクリーンを見上げる。ワクワクしながら来ただけに、この待ち時間はひたすら長い。視界の隅に映るポップコーン売りの店員が、『ボヘミアン・ラプソディ』の予告編が流れるたびにエーオエーオと沸き立つロビーを、不審そうな目で見ていた。
「教室、半分くらい体調不良早退だったからな」
「そんなに具合悪い人いたらもう学級閉鎖じゃん」
いやもう全くその通り。しかし重音楽部だって部活を休みにしたのだから人の事は言えない。あと3時間もの待機時間をどう過ごそうと考えているうちに1回分の上映が終わり、フェスのステージ移動ばりの人数がロビーの方へ溢れてきた。出てきた方も待ってる方も、自分たちと同じ制服を着た奴らばかり。修学旅行かよ。そうこう考えている内に担任のハゲ頭まで見えてきた。いや何してんだクソ担任。あんたも体調不良早退してたろ。何映画見てんだよ。
「おお、相澤ァ、瀬戸ォ……良かったなあ……」
ロングタオルで涙を拭いながら暑苦しく肩を叩いてくる担任を片手で捌き、相澤はため息をつく。担任はそのままその足で、レイトショーのチケットを買いに行った。そんなに良いのかボヘミアン。よく見れば売店の横では霜山が放心していたり、1年生の加藤と阿久津と伊藤が抱き合っていたり、タンクトップの初老男性が男泣きしていたりと現場は混沌を極めている。というかあのタンクトップの初老男性は住川第五の校長だ。何してんだあの人。
「あ、リーダーじゃん。おーい!」
モッシュ状態のロビーで芽衣子とともに揉まれていたら、遠くの方から和田の声が聞こえた。人混みを掻き分けてやって来た和田と寺嶋と尾津に、相澤は軽く舌打ちする。
「やー、最高だったぜ。泣いたわーマジで」
「んだよ、おめーら早退してんならこっちも早退すりゃ良かったかな」
「いや、おれたちは有給だから」
「要するに学校丸ごとサボってんじゃねーか」
ホクホクしているサボりの和田の横で、サボりの尾津が薄っすらとした語彙力で懸命に芽衣子へ映画の感想を伝えている。彼なりのネタバレ配慮ということはわかるが、「アレがソレでバーンでコレ」では何が伝わるというのだ。ひとまず「どうだった?」と和田に訊いてみると、和田は満面の笑みで「体感15分」と断言した。
「体感15分ってお前なあ、上映時間130分だぞ?」
「いやマジマジ。リーダーも出てきたら同じこと言うよ」
「そうかァ? で、何億の出来?」
「んー。まァ20億は固いっしょ。時勢にハマりゃ50億行っておかしくねえ映画だけど、題材がどうかねえ」
和田は流行りものの目利きが上手く、フリーマガジンの後方の新譜紹介紹介記事を読んでは「こいつは当たる」と赤丸をつけて寄越してくる。その的中率の高さは目を見張るものがあるけれど、じゃあなんでお前はブラックサバスのコピーバンドにいるんだと相澤は疑問に思っている。だが、彼が言うならば話半分に聴いてやろう。相澤は目を細め、フンと鼻を鳴らした。
「題材か。洋楽ってジャンルじゃ一級の題材だが、確かにどうかね」
「今が70年代なら間違いなく100億の出来よ。でもなぁ。まあ、ひょっとしたらけっこう行くかもな。テリーはこの映画何億行くと思う?」
「……130億」
――それは流石に言い過ぎだろう。
意味深にメロイックサインを作って胸を張るサボりの寺嶋へは、どんな言葉を返せば良いのやら。とはいえ、普段は自己主張の弱い寺嶋が自らの意見を述べるのは良いことだ。苦笑して背中を軽く叩いてやると、寺嶋はメロイックサインを作ったまま、パンフレット売り場の人混みへ消えて行った。
「130億も売れればな。おれらもちょっとはチャンスあるかもしれないけどな」
朗らかに笑う和田へ、芽衣子や尾津も同意を示した。ロックが好きだからこそ、そこまでヒットするとは思えない。そういう落ち着いた批判的な感情は誰にだってあり、過剰な期待は身を滅ぼすと理解している。薄暗く騒音に溢れたポップコーン臭い空気の中で、相澤は柔らかい胸の痛みを誤魔化すように深呼吸する。
そう、そのときはそんな寺嶋の世迷言が現実になるなんて、世界中の誰ひとり、思っていなかったのだ。
***
映画館の隣のショッピングモールで夕飯を共にした後、和田たちは帰って行った。芽衣子を残して手洗いに立った相澤は、大きな鏡を見詰めてため息をつく。
映画の時間まではまだ1時間以上もある。買い物なんてするつもりもなく来たから、どこかの店を冷やかそうという気になれない。ゲームセンターでも行こうかなと考えないわけではないが、不良生徒の多い高校が近くにあるこのショッピングモールのゲームセンターではしょっちゅう喧嘩やナンパや馬鹿騒ぎがあって、芽衣子を連れて行きたくない。
――まあ、3人くらいぶちのめすのは簡単だけど。
――でもなあ、芽衣子に見られたくないなあ。
それならば3階の楽器屋か、あるいは本屋か。考えながら、相澤は跳ねた髪や崩れた襟元を整える。こんなに長い時間、芽衣子と過ごすのは初めてだ。嬉しいような、落ち着かないような。本来ならば趣味の合う同級生との遠出は楽しいものだけれど、まだ自分は、沈黙を楽しく思えるほどに、芽衣子のことをよく知らない。
「……行くか」
鏡の中の自分と目を合わせ、気合を入れ直してトイレを出ると、芽衣子は丸いベンチにぽつんと座り、ぼうっとした視線を目の前の店舗に向けていた。
平日夜のショッピングモールは閑散としていて、会員登録やカード作成を薦める館内放送の明るい声ばかりが耳につく。そっと芽衣子の視線を辿った相澤は、雑貨屋の店先に掲げられた新色の口紅の広告を見つけ、なるほどなと微笑んだ。
「芽衣子。メイクとかするの?」
「あ、つかさちゃん。うーん……興味はあるんだけど、でも、自分に似合うかなって」
「似合うかなって? どういうこと?」
「……だって、メイクって、可愛い人がすることでしょ」
相澤の姿を見つけて笑顔を輝かせる芽衣子は、それでもやはり、どこかに寂しい空気を纏っていた。相澤はしばし思案した後、深い意味など持たずに雑貨屋へ足を向ける。どうせ人なんて大していない。小走りについてくる芽衣子はどうも落ち着かない様子で、相澤にはそれが不思議だった。
「つかさちゃん、つかさちゃんってお化粧詳しいの?」
「詳しくないけど。まあ説明書きとかあんだろ」
「……無くない?」
「え、普通あるでしょ――」
――無かった。
絵の具箱をひっくり返したような雑貨屋の化粧品売り場で、相澤はわけもわからず立ち尽くす。勢いで入ってみたはいいが、何が何やらだ。幼少期に両親が離婚し、父子家庭で育った相澤は、母親が化粧をしている過程など観察した事がない。だから、と言うには母親に責任を求めすぎているけれど、ずらりと並ぶ聞いたこともない名称の商品たちを見る限り、化粧品コーナーというのは、生半可な感じで入ってはいけないところだったようだ。
対して芽衣子はといえば、ギターを弾いている時とはまるで違う少女めいた表情で、魔法の小瓶のようなものを手に取っていた。相澤は首を傾げつつ、芽衣子と同じように適当な化粧品を手に取る。が、なにもわからなかった。コンシーラーって何だ。リキッドファンデって何だ。オジーオズボーンが使ってるやつはどれだ。
「それなに」
「口紅かな? 色的に……たぶん」
何もわからないから芽衣子に助けを求めようとしたものの、芽衣子も何もわからないようだった。相澤はとりあえず、芽衣子が持っているのと似たようなサンプル品を手に取り、蓋をクルクル回してみる。蓋の下についた綿棒のような物にべっとりついた赤色の液体は、確かに口紅らしい。しかしこれは半透明だ。色なんてちゃんとつくのだろうか。
「――それはグロス。口紅のあとに塗るんだよ」
ふたりして首を傾げていたら、背後から声をかけられた。聞いたような声だなと思って振り返ると、そこにはいつの間にか3年生の染井が立っている。気恥ずかしそうに微笑む染井の手には、映画館の売店の袋が握られていた。
「あ、染井先輩。先輩もクイーンですか?」
「うん。混むと思ってたから、前売り券買ってたの」
――その手があったか。
艶やかな黒髪を耳にかけながら微笑む薄化粧の染井は、何だかいつもよりも綺麗だ。それにしても、前々から『ボヘミアン・ラプソディ』を公開初日に観に行こうと決めていたのに、なぜ自分は前売り券を買わなかったのだろう。というかスマートフォンで座席予約もできたはずだ。相澤は自分の頭の鈍さを自覚してはいたが、今日に限ってはそれを憎く思った。
ちなみにこのとき相澤はすっかり失念していたのだが、放課後、誰よりも早く校舎を飛び出した相澤と芽衣子よりも先に映画を見終えているという時点で、染井もサボりである。
「あ、あの……あたし、瀬戸芽衣子っていいます。えっと、いつも放課後、校門のところにいらっしゃる先輩ですよね?」
「あら、わたし悪目立ちしちゃってたかな」
意外と人見知りらしく、染井の登場に驚いて固まっていた芽衣子が、恐る恐る声を出す。軽く首を傾げた染井に、相澤はどうしようかと唇を舐めた。染井は目立つことを極端に嫌うが、背の高さ故にどうしても印象的な存在として写ってしまう。転入生の芽衣子は当然ながらその辺りの事情を知らないから、芽衣子がなにを言い出すか心配だ。
「芽衣子、その――」
「えっと、なんというか、目立ってたのは先輩のほうじゃなくて」
「……ああうん、わたしの隣の半裸男のほうね」
心底うんざりしたため息をつく染井は、しかしどこか嬉しそうだった。閉口した相澤は意味もなく口をモゴモゴさせ、一人納得する。確かに、染井の横にはいつも、住川高の誰より目立つ葦原が立っている。11月にもなって湘南の海でサーフィンするパリピみたいな着こなしを魅せる葦原の存在感は抜群で、そんな葦原のことを、転入生の芽衣子が気にしないわけもない。
それにしても慣れっていうのは恐ろしい。今の今まで葦原の格好が異様なことを忘れていたのだから。
「それで? ふたりはリップが欲しいの?」
「んっと……先輩、メイク得意ですか? 買ってみたいんですけど、ぜんぜんわかんなくて。もしよかったら教えてくれますか?」
「得意かはわからないけどね。んー、リップなら……ふたりとも唇が薄めだから、とっても可愛くなると思う。どんな色でも似合いそうだし」
「ほんとですか? どれか買ってみようかな。あーでも、なんか……つかさちゃん、コレとコレの違いわかる?」
芽衣子が手に取ったふたつの小瓶は、ほとんど色の違いが無かった。しかし品番や色の名前は違う。厄介な難問に目を細めていると、染井の細い手が小瓶を摘む。
「出してみるとわかるのよ。ほら――こっちは透明感があって、こっちのほうはマットなの」
色白な肌に乗せられる紅の色は、確かに染井の言う通り、それぞれの個性を持っているようだ。本当に魔法みたいだと呟くと、染井は「そうなの」と仄かに頬を染める。
「わ、けっこう違うんですね。その色好きです。似合うと思います?」
「実際に唇につけてみなくちゃわかんないこともあるから、とりあえず買ってみるのがいいよ。ちょっと高いけどね」
「ほんとだ、こんなに少ないのに結構なお値段……このお金あったらドクターペッパー9本買えますね」
「確かに量は少ないけど、ガブ飲みするわけじゃないし、たまに使うくらいならけっこう長持ちするからねえ。なんでたとえがドクペなのかはわかんないけど」
値札を見て戸惑う芽衣子を見て、染井が可笑しそうに笑っている。そういえば、染井は制服ではなく上品な濃紺のロングワンピースを着ていた。膨らんだ袖口の内側に見える繊細なレースに目を奪われ、相澤は瞳を瞬かせる。
可愛いワンピースだ。芽衣子にも似合いそうだが、芽衣子に着せるならば清楚な白が良い。白のワンピースならば、それに合わせる口紅の色は――。
「……そっちの透明っぽいやつがいい。芽衣子に似合う」
そんなことを考えていたらつい口をついてしまった言葉は、染井にも、芽衣子にもバッチリ聞かれていた。大きく目を見開いた芽衣子から慌てて視線を逸らしたが、耳たぶが熱くなって仕方ない。恥ずかしくて、恥ずかしくて、どうしよう。明るすぎる店内の照明が癪だ。ヒゲがあったら燃やしたい。
「……懐かしいな。そんなこと、わたしも言われたことあるの」
気まずい沈黙を破ったのは、意外にも染井の柔らかい声だ。誰がそれを言ったのか、染井は口を噤んでいる。けれどもうつむき気味に微笑むその表情でわかる。相澤と芽衣子は視線をぶつけ、ちょっと微笑み合う。微笑む芽衣子の唇には、やはり透明なグロスが似合いそうだった。
「うふふ、つかさちゃんが言うなら、こっちの透明なやつ買ってみるね――あ、先輩。こういう変な色のクリームって何に使うんですか? 紫色とか、青色とか……」
「これは肌を綺麗に見せるの。ほっぺが赤い人とか、陰影がつきすぎたり、そういうのを補正する感じ。早い話が色調補正とコントラストの調整用ね」
「なるほど。奥が深いんですね」
「そう。本格的にやりたいってなると、いくら買ってもキリがないの。だから、最初はリップだけでもいいのよ」
「こっちのジョジョみたいな色の口紅も補正用っスか?」
「それはジョジョみたいになりたい人用の口紅ね」
「なるほど、奥が深いっスね」
そうこうしているうちに、、染井と揃いの濃紺のワンピースを着た葦原がトイレから帰ってきた。今更葦原がどんな服を着ようが驚きはしないが、女装は珍しいから理由を問えば、「制服だと目立つからネ」と言われた。なるほど、こちらも奥が深い。
染井と葦原と別れた後には、珍しく穏やかに会話する服部と木津や、クレープを食いながら映画の感想を話している加藤たちの3人組にも会った。上映時間が近くなり、映画館へ戻ると、ちっとも減っていないキャラメルポップコーンを抱えた吉良にも会った。吉良はポップコーンを押し付けてこようとしたが、相澤も芽衣子もポップコーンは塩派だったので断った。
そうしてやっと観ることができた映画は、本当に体感15分だった。しかし考えてもみれば、だ。相澤はこの映画の完成を8年間も待っていた。小学生の頃から待っていたのだ。小学生から高校生までの8年間の中のたかだか130分なんて、体感15分で正解だろう。
エンドロールが流れているとき、相澤は喉までを満たす満足感の中でちらと芽衣子を覗き見た。こんなに楽しく、明るくて、前向きな映画なのだから、芽衣子はさぞ幸せそうな顔をしているのだろうと思って。
だが、相澤の予想は見事に裏切られた。表情の変わりやすい芽衣子の瞳は鏡のようにスクリーンを映すばかりで、呆然とした顔には何の感動も浮かんでいない。それでもその頬は涙に濡れていた。相澤は芽衣子へ声をかけるかわりに、膝の上で震えている芽衣子の手をそっと握る。そうすると、芽衣子の大きな瞳が、ゆっくりと相澤を見た。
――『最高』
微かに動いた芽衣子の唇が、薄闇の中、ただそれだけを呟く。はっきりとそれに頷いてやると、芽衣子はまた、静かに画面を見詰めた。
闇の中を上昇していく白い文字の群れ。落下していくような錯覚。細く柔らかな芽衣子の手は、掴んでいなければ、映画の終わりとともにどこかへ消えて行ってしまいそうで。相澤は深く息を吸い込み、左手に力を籠める。
闇に包まれる映画館の中で、相澤はただ、芽衣子の右手を握り続けた。
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