第6話 『Kashmir』

「ボクはね、将来的にオーストラリアで暮らしたいと思っているんです。まあオランダとかニュージーランドでもいいんですけどネ。だってオーストラリアにはひつじがいます。コアラがいます。カモノハシもいます。かわいいね。それって人生に大切なことだと思いませんか? 染井さん」


 幼馴染の葦原聖の言動は、いつも唐突で理解に苦しい。箒を動かす手を止めて、染井遥は長い髪を掻き上げた。


「……コアラって臭いらしいわ」


 慎重に葦原の意図を汲み、それだけ言えば、葦原は柔らかそうな唇をむうと微笑ませ、「ますますかわいいネ」と意味のわからない事を言った。もう10年もの付き合いになるが、やはり彼のことはよくわからない。下校していく生徒たちの後姿を眺めながら掃く校門前の落ち葉は、既に色とりどりの美しさを地面へ散らしていた。


 秋も深まり、11月の初め。センター入試も程近くなり、3年生の教室の中にはピリピリとした空気が満ちていた。それは染井とて例外ではなく、染井はここのところ、不安で眠れず、深夜まで参考書を手繰り、いつの間にか朝を迎える生活を送っている。

 しかし、そんな自分とは対象的に、AO入試で早々に志望校へと合格している葦原は、いつも通りの能天気さを振りまいていて。格差だなあと思いつつ、そんな葦原の呑気さだけが心の拠り所の染井は、葦原とふたりきりになれる掃除の時間を1日の楽しみにしていた。


「ボクは冒険がしたいんだ。染井さんもたまにはそんな気分にならないかい? 旅をしたいって。砂の大地を嵐とともに、鉛の飛行船に乗ってネ」

「鉛の飛行船は落ちるのに?」

「不沈艦なんて幻想さ。盛者必衰だよ。60年代や70年代にデビューしたバンドのいくつが、当時の人気と変わらず残ってる?」

「……そう考えるとクイーンってすごいね」

「女王陛下は不死鳥さ。何度でも蘇るよ。ところで染井さん、『不沈艦』と『おちんちん』って――」

「似てない」

「ンー。ボクは似てると思うんですが、染井さんの意見を尊重しますヨ」


 首を傾げて軽くウインクする葦原に、染井はため息をつく。彼はいつだってこの調子で、会話においては兎にも角にも下半身の主張が強い。顔が良いから許されているようなものだが、ともすれば事案発生である。クラスメイトの木津のように突如としてストリップを始めないだけマシではあるが。


 深まる秋は冬へと向かい、鱗雲を淡く吹かす青空はますます高くなる。空気中の湿度が減ったせいか、硬球がバットの芯に当たる心地よい音は、校庭のネットを遥かに超え、耳が痛いほどによく響く。最後の蝉が鳴き終えたのはまだつい昨日のことのような、もうずっと昔のことのような。掃き集めた桜の葉が山となり、時折風に攫われる。



「寒くなってきたネ。ところで染井さん、クリスマスのご予定は?」

「……塾。イヴも当日も。わたし、面接めちゃめちゃ緊張しちゃって苦手だから……そのぶん勉強ちゃんとしないと、って。葦原くんは?」

「染井さんが塾だから、ボクは寂しくひとり寝さ」

「あらあら、直球のセクハラは珍しいわね。もしかして葦原くん、体調が優れないのかしら?」

「染井さんは凄いネ! 実は昨晩から喉が痛いんだ。でも、どうしてそれがわかったの?」

「……うーん、どうしてかな。風邪気味ならシャツのボタンを留めるといいと思うの」

「留めるとボクがボクでなくなるような気がして……」

「葦原くん。プログレのバンドは知らない人しかいなくなっても、同一性を保持するでしょう?」

「それもそうか。では、ひとつとめますネ」

「……」


 全部開いていたシャツのボタンの、いちばん下のひとつを留めたところで、乳首が丸見えな現状には焼け石に水だ。こんな葦原が生徒会長をやれたことからもわかるように、住川第5高校の服装規律は緩い。ジャージ登校だけは許可されていないが、これは1998年に起こった『住川町連続アディダス狩り事件』の影響である。いくら叱られてもジャージ登校を強行している重音の相澤はあまり気にしていないようだけど。まあ、あの子は鍛えているし、SGはいざとなればグレッチ以上に強力な武器になるから大丈夫だろう。


「ンー、それにしても、四季を感じるネ。食欲の秋、睡眠欲の秋、性欲の秋って言うくらいだし、楽しくなるのも仕方ないのかな」

「……葦原くんにとっての秋ってなんなの?」



 陽が落ちるのが早くなってきた。山の裾が黄金の色に染まり、名を知らぬ鳥が黒い影となって、黄昏る空を渡っていく。遠くから吹き上げて長い髪を乱した風は、胸に穴が開くような、焼け焦げて切ない匂いがした。何の気なしに見上げた校門前の桜の木が蕾を綻ばせる頃には、自分も葦原も、もうここにはいない。


 不思議だ。秋はこんなに寂しい季節だっただろうか。染井が肌寒さに藍色のカーディガンの袖を伸ばすと、葦原が「寒くない? 一枚貸そうか?」と尋ねてくる。染井は曖昧に微笑んで返したが、正直に言えば、ボタンの開いたワイシャツ1枚で平然としている葦原を見ているだけで寒い。一枚貸すって、既に上半身が裸一歩手前の彼は一体何を貸してくれるつもりなのだろう。まさかそれ、脱ぐのか。


「ところで、染井さんはどの季節が好きだい?」


 大きな塵取を器用に操り、猫車の上へこんもりとした落ち葉の山を作った葦原は、贅沢な程に大きな瞳を瞬かせて、そんな無邪気なことを訊く。葦原の手から箒を受け取った染井は、どうせ思いつきの質問だろうとわかりつつ、いちおう真面目に考えた。


「春は……花粉症だから辛くて。でも、新入生がたくさん入ってくるのは楽しい。私は写真部だから、新歓とかは、そんなにすることが無かったけど……ただ、綺麗な自然を撮るのは好きだから、それで……うーん……」


 人の流れを遡り、焼却炉の方へ2人で歩きながら、染井はぽつりぽつりと語る。写真部だった頃に買った一眼レフには、もう長いこと触っていない。カメラ代のためにアルバイトをしようにもなかなか面接を通れず、やっと決まったファミリーレストランでの仕事でも苦労して、それでやっと手に入れたときは眠れないほど嬉しかった一眼レフなのに、だ。受験が終わって春がきたら、柔らかい布でレンズを磨き、丁寧にホコリを払って、花咲く街を撮りに行きたい。僅かな希望は心の拠り所であり、未来に対する不安でもある。


「去年の夏は重音楽部の子たちとプールに行ったわね。すごく楽しかったけど、日焼けしちゃって痛かった。みんな皮剥けちゃって、ゾンビみたいだったね」

「そんなこともあったね。相澤クンから日焼け止め借りればよかったかな。来年の夏は海かな?」

「受験が上手くいけば……秋は食べ物が美味しいけど、寂しくて苦手。でも、文化祭があるから好き」

「文化祭は楽しいね! ボクは先生がたの作る焼き鳥が大好きなんです。シロップもかけ放題だしネ」


 染井は瞼を何度か瞬かせ、曖昧に返事をする。文化祭で葦原が焼き鳥にドバドバかけていたシロップは、教員陣の隣で屋台を出していた保護者会のカキ氷屋のものだ。だが、優しい染井はあえてそれを指摘しなかった。


「冬はどうだい?」

「寒いのは好きじゃないけど、冬の服が好き。それに空が綺麗だから、良い写真が撮れるの」

「染井さんの星の写真、大好きですヨ。去年の終わりに双綱山神社で撮った写真なんて本当に素敵でした。あれがボクのいちばんのお気に入り。あそこは星が綺麗だからね。あの写真、いまも染井さんの部屋に飾ってある?」

「……あの写真はコンクールに出してるの。とっても綺麗に撮れたから」


 焼却炉は3階建ての本校舎と平屋の特別教室棟を繋ぐ渡り廊下の裏手にある。昇降口を横目に木工室や理科室の前を通ると、すれ違う数人の生徒たちが葦原と挨拶を交わしていた。さすがは元生徒会長、有名人である。尤も、当の葦原は人の顔と名前をろくに覚えていないので、ちんぷんかんぷんな言葉を返しているのだが。


 とうに枯れたゴーヤのプランターや花壇を眺めながら保健室の前の角を曲がり、渡り廊下の近くに出ると、校門の前でもかすかに聞こえていたギターの音色が近くなった。重音楽部の部室は四角形の本校舎の右上の角にある。その辺りをふわりと見上げた葦原の表情は柔らかい。染井は掃除器具を抱え直し、葦原の端正な横顔を覗く。


「……ンー、芽衣子クンがいませんネ」


 しばらくして葦原がぽつりと呟いた言葉に、染井は少し驚いた。染井も葦原と同じくロックが好きだが、同じ楽器のメーカーやモデル、演者の差の聞き分けはできないし、いま何人が同時に演奏しているかというところまではわからない。エフェクターを使わない管楽器ならまだしも、機械を通して音を変化させる楽器に関してはからきしだ。しかし葦原は、さすがにプロから声がかかっただけある。


「瀬戸さんはいつも帰りが早いんだって。部活に1時間くらいしかいないから寂しいって尾津くんたちが」

「そうなのか。ま、あそこのいいところは実力主義なところだからね。フレッシュネスだよ」


 たぶん葦原は「フレックス」と言いたいのだろうが、優しい染井はそれを指摘しなかった。意味がわかるから良いのだ。


「葦原くんは重音が好きね」

「大好きさ! 染井さんはあの子達が可愛くないのかい?」

「でも――葦原くんにとっての重音は、あんまり楽しい思い出じゃないでしょう?」

「何を言うんだい? ボクの人生はいつだって楽しい思い出でいっぱいだヨ」

「……本当に?」


 渡り廊下を横断し、辿り着いた焼却炉の前は殺風景だ。炉が最後に煙を吐き出したのは随分前になるが、熱と灰に晒されて、痩せた土にはろくな草すら根を伸ばさない。西――校庭側に陽が落ちると、校舎裏手の焼却炉の辺りにはもう光など消え失せる。染井と葦原は黒く鎮座する焼却炉の脇の大きく浅い穴へ落ち葉を捨て、いつものようにブルーシートを被せた。


 木枯らしが吹き荒れる頃には校門を守る桜の葉がすっかり落ち、この穴もいっぱいになる。穴を満たす葉は腐葉土になって、校庭のあちこちの花壇へ使われ、春には新入生たちの花道となる。夏には木漏れ日を落とす緑のカーテンや、校舎裏の畑の肥やしとなり、果実の恵みを落としてくれる。


「葦原くんは、本当に後悔してないの?」


 穏やかな命の巡りと、死の季節の夕暮れ。微笑みを絶やさぬまま、葦原は空を見上げる。色素の薄く、細い葦原の髪が風に乱れ、彼の瞳はよく見えない。


 染井の記憶の中で、葦原はいつだって微笑んでいた。彼に纏わるいちばん古い記憶は、小学校の頃のことだ。幼い染井は服装のことでからかわれ、いじめられて、誰もいない体育倉庫で泣いていた。そうしたら、サッカーボールを片付けに来た葦原がそんな染井を見つけて、小さな手で頭を撫でてくれたのだ。

 暗く埃臭い体育倉庫に夕陽が射して、白く柔らかな少年の輪郭は黄金に染まっていて。涙をぬぐった自分は、ああ、この子の友達になりたいと思った。


 思えば葦原と出会ったのは、こんな秋の暮れだった。彼は可愛らしい顔をして奇言と言い間違いが多く、変な味の食べ物とサッカーが好きで、そして誰よりも歌が上手かった。

 暗く塞ぎ込みがちな自分はそんな葦原が大好きで、葦原もなぜか、こんな自分と仲良くしてくれた。染井には好きな季節も嫌いな季節も無い。葦原がいれば、どんな季節だって同じだ。時が経って自分の世界は広がったけれど、それだけは今も変わらない。彼の微笑みがそばにあれば、染井はそれだけで幸せだった。


 葦原はいつだって、いつだって微笑んでいた。楽しい時も、あまり楽しくない時も。喉を酷使させられすぎたせいで咳に血が混ざったときだって「ドラマだったら盛り上がる場面だネ」と笑っていたし、以前のようには歌えないと医師から言われたときも、「ボクってまるでロバート・プラントだ」と冗談を言っていた。彼が重音楽部を辞めた朝は学校中がその話題でざわついていたが、彼だけはいつものように、服部や木津たちと猥談をしていたっけ。


 だが、染井は1度だけ、葦原が泣いているのを見たことがある。あれは2年前、放課後の誰もいない校舎裏。葦原は体育館の冷たい外壁に背中を預け、大きな瞳から瞬きのたびに涙を落とし、青空を見上げていた。渡り廊下からそれを見つけた染井は葦原を呼ぼうとして、声と言葉を飲み込んだ。

 たぶん葦原は、歌っていたのだ。微笑みを作らない唇は叫ぶように動いていたが、その声は空気の掠れにしかならなかった。思えばあれもこんな秋の夕暮れで、葦原はいつまでも歌い続けていた。

 葦原は泣けない。嗚咽すら漏らせない。その次の日、葦原は重音楽部を辞めた。


「染井さん。人生にはいつだってふたつの道があるんだ。そのうちのひとつか絶たれても、また二手に分かれるし、今のこの道を自分で変えることだってできる。生きていれば、この手はすべてを黄金にすることができるんだ」


 高校の終わりは長い青春の終わりで、青春は無色透明の鎖だ。夢に縛られ、繋ぎ止められ、心は空を見上げたまま、どこにも行けない。青空を映して青く染まる葦原の瞳は、今日も微笑んでいる。染井も葦原に倣って空を見上げたが、何が見えるわけでもなかった。


「キミが教えてくれたんだろう? ボクらは何にだってなれるんだ、ってさ」


 大きな手に背中を叩かれ、染井は葦原を振り返る。出会った頃は葦原のほうが背が高かったように思うけれど、今では自分のほうが葦原を見下ろす形になった。自分の意思とは関係なしに伸びる骨を打ち砕いてやりたいと思ったこともある。だが、こうして並んだとき、葦原の澄んだ瞳を覗き込めるのは――染井の特権だ。


「さ、帰ろうか。女の子は体を冷やしちゃだめですヨ」

「わたしはそんなにヤワじゃないから大丈夫。それより葦原くんが心配なんだけど。いちど体壊してるんだし、あんまり冷やすと危ないんじゃない?」

「ボクは熱い男なんです! 雪の中でもレオタード1枚で出かけられるよ」

「それは違う意味で危ないからやめて?」

「ンー、冬はそれくらいがちょうど良かったんですが、染井さんが言うならやめマス! 捨てるのはもったいないから部屋着かな?」

「……えっ? 葦原くん、それってつまり、既にレオタード1枚で外出してたってこと……?」


 何気ない爆弾をぶち込んできた葦原と並んで歩く道。小学校の頃から一緒にいた彼とともに過ごせる日々は、もう残り僅かとなった。春が来れば自分たちは、それぞれの道へ行く。それまでの刹那の時間くらい、肩を寄せ合っていてもいいだろう。染井は黒い詰襟を脱ぎ、あまりに薄着な葦原の肩に掛けてやる。


 この学校は服装に緩く、長髪でもヒゲでも化粧をしてもいいが、今のところ、体の性別に従った服装をすることになっている。せめてブレザーならと思わぬこともないが、葦原に「染井さんはスタイルがいいから何でも着こなしちゃうネ」と言われたから、それで染井は納得していた。葦原の笑顔が曇らないならば、染井はそれで良いのだ。


「いいのかい? ボクは割と大丈夫だよ?」

「割と、じゃダメなの。風邪でも引いたら辛いのは葦原くんなんだから。それに、たまにはわたしにも格好つけさせてよ」

「では、ご好意に甘えさせていただきますネ。ところで染井さん。ボクはこの間、2組の梶原くんの家のホワイトスネイクを見に行ったんですがね」

「見に行ったって? DVD?」

「DVDは無かったんだけど、案外人懐っこいんですネ。タマゴとかたべるんだって」

「……あ、梶原くんって蛇飼ってるんだね。わたしも見に行こうかなあ。ちょっと興味あるの」

「ンー、染井さんは見に行っちゃだめですヨ」

「えっ? なんで? わたしも蛇見たいのに」

「だって、ボクよりへびさんが良いなんて言われたら哀しいからネ!」

「……葦原くん、張り合うならせめて哺乳類にしようね――」

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