第2章 転がり出した運命

第3話 七年後

 七年が立とうとしていた。

 とても時の流れるのは早かった。

 もうじき、ランウルグはこの里を出なくてはならない。十四歳になる前に出て行くというのが、里長やおばば殿どのとの約束だった。

 ブルエは布団の上で天井を見ながら、思い出していた。

 七年前は必死でランウルグを連れて、逃亡した。故郷の里に来る以外、道を見つけられなかった。それ以外にランウルグを守る術はなかった。

 今もその判断は正しかったと思っている。ランウルグはこの七年、命の危険におびえる事無く暮らす事が出来た。

 里に着いた日は大雨の降る嵐だった。

 里に戻って来た者はすぐには、家に帰れない。まず、里の集会所に行かなくてはならない。そこには絶えず人がいて、いつ、誰が帰ってきてもいいように備えられている。追っ手に追われているかもしれないし、里の中心から離れた所にあった。

 ブルエも里のおきてに従い、ランウルグを抱えたまま、集会所の扉を開けて入った。

 当直の一人がおどろいて立ち上がった。夜中で半分居眠りしかけていた、他の人達も気配に気づいて起き上り、すぐに武器を持って嵐の中、外に出て行った。

 めったにブルエのように、緊急きんきゅうの状態で帰って来る者はいない。帰郷してくる時、大抵は余裕をもって帰ってくる。事前に連絡も入る。だが、今回、ブルエは連絡なしに帰郷した。

 そんなひまはなかったし、連絡するのは危険だと判断したからだった。

 見回りに行った者達が戻って来て、戸が閉められた。

「どうした、ブルエ。一体、何があったのだ?」

 一人が尋ねた。アドルという男で、里外での任務からは引退していた。

 ブルエは話そうとしたが、上手く言葉が出て来なかった。疲れ切っていた。ここのところ、四日ほど徹夜てつやで、何人もの刺客と戦い、必死で走って来たのだ。

 馬はこの里に到達する前に、追っ手をくために無人で遠くに走らせた。後はブルエ自身がランウルグを抱えて走って来た。

 浅い傷は数知れず、右の二の腕にいつの間にか少し深手を負っていた。布でしばっただけで、抜身の剣を握ったまま、集会所にやってきたのだった。その上、嵐で全身、びしょぬれだった。

 だから、一度、動きを止めてしまうと、石のように体は動かず、何をどう話していいのか、考えさえもまとまらなかった。

「ブルエ、大丈夫か?」

 アドルが尋常じんじょうでないブルエの様子にもう一度尋ねた。

「とりあえず、剣を収めろ。」

 ブルエは言われて剣をさやにしまおうとしたが、手が強張こわばり、指が動かなかった。無理に動かそうとすると、右腕に痛みが走った。それと同時に目の前が真っ暗になり、気絶した。

 それから、しばらくランウルグとブルエの主従は生死の境をさまよった。

 ランウルグは風邪が治りきっていなかった上に、何日も強行軍で移動し続けたため、体調を崩し、高熱が上がったり、下がったりを繰り返し、咳も止まらなかった。

 ブルエも全身傷だらけで、二の腕の傷のせいで貧血になっていた。雨にも打たれ、傷が炎症を起こしかけていて、死にそうになったのだ。

 幸いに里には宮廷医を輩出はいしゅつしている、カートン家に負けないくらいの優秀な医師がいる。里の者はみな、薬草や人体の知識が豊富だ。

 二人が完全に回復するのに、二カ月ほどかかった。

 ようやく、二人の体が回復したころ、ブルエは里長とおばば殿に呼び出された。

 この里には二つの村がある。里長とおばば殿に呼ばれたという事は、二つの村の村長とおばば様達もいる、長会議に呼び出されたに違いなかった。

 実際、その通りだった。今までにない事だったので、説明を求められるのは予想していた。

 ブルエは覚悟を決めて、長会議の集会所に行った。そこは特別に作られていて、警備けいび厳重げんじゅうになっている。

 まず、二重の塀で囲まれている。最初の出入り口は南北にあり、次は東西に門があるが、日によって、南北と東西のどちらを開けるか違う。おばば殿が決める。門は村人が交代で警備を行う。門から集会所までかなりの距離がある。耳の良い、里の者達でも盗み聞きできない工夫があちこちにされている。

 玄関を開けると、おばば殿に仕える村娘が出てきて挨拶をした。彼女たちも交代制だ。今月はルーシャンという娘だった。

「お待ちしておりました。すでに村長の方々はお集まりです。」

 施設の奥に案内される。ここは里長とおばば殿の居住する家でもある。ここに来れば、里長とおばば殿に必ず会う事ができるようになっていた。

 鴬張うぐいすばりの廊下がきゅうきゅう音を立てた。ルーシャンが部屋の戸を開け、ブルエを中に入れるとすぐに去って行った。

 誰も何も言わない。

 静かな緊張が部屋中に満ちた。静かに黙っているのが苦痛になってきた頃、ようやくおばば殿が口を開いた。

「ブルエ。仕事に関して誰も口を挟むことはない。だから、我等も何も言わぬし、聞かぬ。村によそ者を入れた罪は、お前の怪我の状況からして致し方のなかった事故ことゆえ、不問に付す。だから、あの子を連れてこの里を出よ、これが我らの出した答えじゃ。」

 普通だったら、ここで挨拶をして出て行く。しかし、ブルエはそうしなかった。頭を下げて座ったまま、身じろぎもしなかった。

「どうした、ブルエ。我等の出した結論が不満か。」

 西の村の村長、ルスイが尋ねた。

「どうしたのです。言いたい事があったら、言ってみなさい。」

 東の村のおばば様がゆっくりだが、はっきりした声でうながした。

「それでは、申し上げます。私はこの決定に従えません。」

 ブルエの言葉に、六人の男女の長老達が困ったような雰囲気になった。

「なぜだ、ブルエ、お前の舞の腕でも、苦しいか。」

 里長のダキムはブルエの祖父だ。徹底的てっていてきにブルエに舞を叩きこんだから、その実力は一番、分かっている。

「はい。残念ながら、私の腕ではまだまだ未熟な上、敵の数は数知れず、お守りする事も敵わないばかりか、私自身の命さえ守る事が出来そうにありません。」

 ブルエは本当に情けなくなり、涙が出そうになった。

「街にいる他の者の手助けも足りないか。」

 東の村の村長、ビリンが驚いたように聞く。

「はい。敵はあまりにも強大で、私の任務を手伝うと他の任務に差しさわりが出る可能性があります。」

「ブルエ、聞きたくはないが、お前の任務とその敵について聞かねばならぬな。」

 西の村のおばば様が、ブルエの言葉に慎重しんちょうに返した。

「言ってみなさい。敵は一体、何者か。」

 おばば殿がゆっくり尋ねた。だが、有無を言わさぬ静かな迫力はくりょくがある。

「はい。…しかし、それは一人ではありません。」

 覚悟してきたが、さすがにブルエも少し、話していいものか、迷った。他の者の任務に影響えいきょうが出るかもしれない。しかし、言うしかない。長老たちはブルエの言葉を待った。

「それは、八大貴族です。それと、八大貴族と利権を同じくする者達です。」

 ブルエの答えに長老達は顔を見合わせた。仕事を仲介した者しか、誰が何の仕事をしているのか知らない。仲介するのは里の者だ。ブルエの場合は、叔父のフォーリしかブルエの仕事を知らなかった。

「待て。八大貴族が敵だとすれば、最大の相手は今、一人しかいないではないか。グイニス・セルゲス・ジャノ・サリカタ公にお仕えしているのか。」

 ビリンが胡坐あぐらをかいた足を座り直しながら、声をふるわせた。

「すると、あの子はセルゲス公の子供か。」

 ルスイも言った。ブルエは頷くしかない。

「はい。その通りです。」

「それで、お前はどうして欲しいのだ。」

 ダキムがややきびしい声でブルエに問う。

「それは、若様をこの里において欲しいのです。それ以外に他の人達を危険に巻き込むことなく、若様と私の命を守る方法を思いつく事ができません。そうでなければ、必ず殺されてしまうでしょう。」

 長老達が一斉に顔を見合わせた。どの顔も厳しい。

「ならぬ。」

 一言、おばば殿がひびく声で鋭く言った。

「ならぬぞ、ブルエ。お前の考えはそれだけではあるまい。」

 全てを見透かすような眼光で、とても視力が衰えてきているとは思えなかった。ブルエは震えながら身を切られるような思いで、おばば殿の視線を受け止めた。

「早く、言いなさい。」

 西のおばば様が促した。ブルエはつばを呑み込み、意を決してせっている間中考えていた事を口にした。

「それは、若様にも舞を授けて欲しいのです。」

 長老達全員が息を呑んだ。

 しばらくの間、息を止めたように誰も何も言わなかった。しかし、それはブルエの様子から薄々察してもいた事だった。

 ブルエは体が回復してくると、若様をそれはそれは、目に入れても痛くないのではないかと思うほど、可愛がっていた。

 素性は知らなくてもどれほど田舎にいても、その子はどこかの良家の子供だと容易に想像がついた。容姿端麗なだけでなく、持って生まれた気品があった。利発そうな子供だが、その目には深い悲しみと絶望が見て取れた。ブルエといる時は、ほっとした嬉しそうな表情をみせる。ブルエだけが頼りだとも、簡単に予想がついた。

 里の者は伊達だてにこのような仕事を生業としてきた訳ではない。長年の経験と鋭く研ぎましてきた勘から、この子には里の運命を左右する何かがあると見抜いていたのだ。

「ならぬ。ブルエ。あきらめるのじゃ。お前の気持ちは分かる。だが、あきらめなくてはならぬ。」

 ダキムがさとすようにブルエに言い含めた。

「なぜ、ですか。なぜ、いけないのですか?ここから出ろという事は死ねと言われているのと同じです!」

 ブルエのはげしい言葉に長老達は驚いた。ブルエがこんなに激情げきじょうする所を見た事がない。

 ブルエは物静かで消極的な子供だった。

 だが、舞の才能はずば抜けていた。誰もがうらやむほどで二、三年舞を練習して来た、少し年長の子供達はすぐにその才能に気づいた。他の子が一年かけて習得する事を、ブルエはたった半日、場合によっては一時間で身に着けた。

 大人達が目の色を変えて、ブルエにより厳しく舞を仕込もうとするものだから、他の子供達はうらやみ、兄や姉さえ嫉妬しっとした。

 大人達も、子供が最初から上手くできないのは分かっている。だから、その年齢にしては上出来だという所で、よくできたと言ってやるのだが、ブルエにだけは最初から最後まで厳しかったのだ。

 そのため、本人ばかりはその才能に気づかず、できないから厳しくされているものと固く信じ込んでいて、いつまでたっても自信のない子だった。

 舞以外の事では、他の子供に劣っていたからだ。体は小さく、足は遅い。優しすぎてにわとりをつぶす事さえままならず、泣いてしまって食べる事さえできなかった。

 ただ、そんなブルエにも友はいたし、理解者もいた。里で一番の落ちこぼれのジュアルが親友だった。

 二人はよく野山を駆け回って遊んでいた。ジュアルはよく狩りもした。家にも帰らない事さえあった。そのおかげでブルエの弱い部分が強められた。

 ブルエの理解者は叔父のフォーリだった。時々帰って来ては、繊細せんさいなブルエの話をよく聞いてやっていたが、時には厳しく接して、あきらめずにやり遂げるように導いた。

 だから、ブルエの才能は花開いた。いつの間にか里の誰よりも、速く遠くに走れるようになり、腕力も握力も強くなって、弓の名手になっていた。ジュアルは落ちこぼれだったが、男にも女にももてた。そんなジュアルと一緒にいたので、なんとなく人との付き合い方も身に着けた。

 いつの間にかブルエの事は、近隣の里にも知られるようになったが、物静かである事に変わりはなかった。感情を表に出す事はあまりなかったのだ。

 だから、ブルエの激情に長老達は驚いた。だが、祖父のダキムはじきに得心がいった。ブルエはとても一途だ。いじらしいほどに。

「それだから、舞を教えよというのか。他の武術でも身は守れる。」

 おばば殿は、ブルエの言いたい事を察してはっきり告げた。

「若様の気持ちを察して下さい。誕生した時からひっそりと生きて来たのに、命を狙われ続ける気持ちを、皆様は御存ごぞんじありません。

 他の武術は敵も身に着けている。敵の数は多いのに、敵と同じ武術を身に着けても安心できません。

 私の知る限り、最高の武術はこの舞です。私は若様に最高の武術を身に着けて頂きたいのです。そして、何より命の危険を感じずに安心して眠ってもらいたいのです。

 考えてもみて下さい。まだ、七歳の子供が命の危険を感じながら、生活しなければならないという残酷ざんこくさを。親とも一緒に暮らせないのです。友も作れないのです。

 自分と仲良くなれば、友達やその家族を危険に巻き込むかもしれないと思い、その家族の安全を考えなければならない、その気持ちを。友達に危険が及ばないように、自分の事を忘れるようにたのむ、七歳の子の気持ちを考えて下さい。

 自分のせいで、護衛ごえいの私が死ぬかもしれないと心配しているのです。

 今回の事ではっきりしました。私一人では力不足だと、若様は分かってしまいました。ですから、護衛の私の命を救うため、自ら危険に飛び込み、命を落としかねません。」

「それは、あの子が自分を犠牲にすると言っているのか。まだ、七歳の子がそこまでするまい。」

 ビリンが疑わしげに言った。ブルエはビリンの言葉に腹が立った。何も知らないくせに。

「するやもしれぬ。」

 だまり込んでいたおばば殿が、つぶやくように言った。

「利発そうな子だった。それだけに己の立場をよく理解していよう。

 しかし、ブルエ、それはならぬのだ。我らの生きていく道が狭まるのだ。いや、失う。分かっておろう、ブルエ。湿原の多いこの土地で生きていく事の厳しさを。

 反対しているのはただ、あの子がよそ者だからではない。あの子が里の者ではないという事はたいして問題ではない。あの子が普通の生まれの子なら受け入れたであろう。ただの貴族の子供でも受け入れたかもしれぬ。舞を授けたであろう。

 それは、なぜだか分かるか、ブルエ。」

 おばば殿の問いにブルエは首をった。

「分かりません。おろか者の私にも分かるように教授して下さい。」

「ブルエ。本当はお前も分かっているはずだ。いや、分からねばならぬ。」

 おばば殿の断固とした声に、ブルエは絞り出すような声で答えた。

「それは…若様が、若様が王族だからですか。」

「その通りだ。あの子は王族だ。だから、舞を授ける訳にはいかぬ。あの子が王族の中でも王位にほど遠ければ、受け入れたかもしれぬ。王族といえども、一貴族にすぎないからだ。言いたい事は分かるな、ブルエ。

 あの子は王位に近すぎる。だから、だめなのだ。我等われらは先祖が遠い昔に約束をした。我等は我等のおきてで生活する。税も納めぬ。ただ、その代わりに王の危険には立ち向かい助けると。

 だから、我等はこの生業なりわいをしてきたのだ。三百年前に約束がやぶられるまでは、ずっとそうしてきた。

 だから、約束を破った踊りのニピと同じになってはならぬ。残った我等だけでも先祖の約束を守らねばならぬ。残った里は二十しかないのだ。」

「それなら、一層いっそうの事、助けて下さい。」

 ブルエは震えながら言った。

「ブルエ!」

 ダキムが厳しい声を出した。空気がふるえるような気がした。

「これだけ、言われてもまだ、分からぬか、この愚か者が!」

「若様は、王になります!」

 思わずブルエは叫んだ。

「里の約束の事は私も存じています。里で育った者なら忘れてはならぬ事。私も知っています。だからこそ、未来の王を助けて欲しいのです!」

 長老たちはあきれたように顔を見合わせた。事実、呆れているのだろう。ブルエは思ったが、ゆずれなかった。

 しばらく、沈黙ちんもくが続いた。 

 重苦しい沈黙を破ったのはおばば殿だった。突然、笑い出した。釣られるようにダキムも笑い出し、長老達みなが笑った。

 ブルエは笑う気などしない。何がおかしいのか分からなかった。

「ブルエ。お前は肝心の所を分かっておらぬな。」

 ようやく落ち着いたおばば殿が口を開いた。

「分かるか。我等は仕える側。我等は臣下の道を歩む者。」

 おばば殿のまとう空気が一変した。

「よいか。我等は臣下の道を知っておるが、主君の道は知らぬ!あの子はお前の言うとおり、主君の道を歩む者だ。臣下の道を歩む者にどうして、主君の道を教える事ができようか。

 我等の舞は、臣下の道を歩む者には最大の武器となる。しかし、主君の道を歩む者には必ずしもえきとはならぬ!」

「お言葉ですが、臣下の事を知らぬ者が、いかようにして主君になれましょうか!臣下の道を歩むことも、主君の道に必ず通ずるものと考えます。自分より弱い者の事を思いやれずして、上に立つ事はできません。」

 食い下がるブルエを、おばば殿はじいっと穴が開くほど見つめた。その鋭い視線にブルエは震えながら耐えた。

「分かった。しばらく話し合う故、お前は結論が出るまでひかえの間で待っていなさい。」

「はい。承知しょうち致しました。」

 ブルエは少しほっとしながら、退室した。控えの間に入るとたおれるようにして、座り込んだ。

 しばらくして、ルーシャンが昼食を運んで来た。

「大丈夫、ブルエ?里長のダキム様の声が響いていたけど。」

 遠慮えんりょがちに尋ねる彼女にブルエは短く、大丈夫だとだけ答え、昼食を食べた。猪肉ししにくの入った雑穀の雑炊ぞうすいうりや人参などの漬物だった。里の食事はみんな、こんなようなものだ。決して贅沢ぜいたくではない。

 自分達が命がけで稼いできた金は、里で貯金し、公平に全家庭に配られる。それで、みんなが生きられた。

 ブルエが呼ばれたのは、すっかり日が暮れてからだった。疲れ切ってしまい、控えの間でぐうぐう寝ていたら、ルーシャンに起された。

「我等は結論を出した。」

 部屋に入るなり、おばば殿が切り出した。

「あの子が十四になるまで、その七年間、この里であずかり育てよう。ただし、十四になる前までにその後はどこでどうするか決め、我等に報告せよ。十四になったら、すぐにこの里を出るのじゃ。

 さらに、その間、お前はあの子に仕えてはならぬ。他の里の子供達と同じように接しなくてはならぬ。

 そして、あの子は他の親のない子と同じく、我等が預かり、住まいはこことする。ジュアルの他にアギとグイサがおるから、寂しくはなかろう。よいな。」

 温情のある決定に、ブルエはただただ、感謝して頭を下げた。震える声でようやく礼を言い、退室した。

 そして、七年が過ぎ去った。ランウルグは最初こそ、ブルエが敬語けいごを使わず、側にいない事に心細そうな表情をしていたが、じきに慣れて、同年代のグイサとすぐに仲良くなり、姉貴分のアギに可愛がられ、ジュアルを慕っていた。彼らと仲良くなれば、他の里の子達と仲良くなるのもすぐだった。

 泥んこになって遊んだり、舞や剣術の稽古けいこをしたり、田畑の手入れを手伝ったり、勉強したり、とにかく、楽しそうに過ごしていた。

 ランウルグの楽しそうな表情を見るたびに、ブルエは自分の決断が正しかったと確信したが、寂しい気持ちもあった。

「愛するが故に突き放さなきゃいけない事もあるんだよ。」

 ある日、母のロメサにブルエは言われた。

「子供を送り出すのと一緒さ。お前は親の気持ちが分かるようになったさね。」

 ロメサは目じりにしわを寄せて笑い、くわを握るブルエの手を軽く叩いて畦道あぜみちを歩いて行った。

 母親の後ろ姿を見ながら、歳を取った事を実感した。ロメサも若い頃は街に出て仕事をしていたという。戦闘せんとうで足に怪我けがを負い、里に戻ったと聞いていた。右足を前よりも引きずっているような気がした。

 ブルエは布団の中で、これからの事に思いをせた。口に出してこそ言わないが、家族はみな、心配している事だろう。父のウィームは、ブルエが十五歳の時から行方不明のままだ。兄や姉は街に出ていていないが、弟や妹二人は不安そうな表情をしていた。

 ブルエが死にかけたのだから、当然だ。また、ランウルグの事も心配していた。

 明日の朝、出発する。七年間封じていた主従関係がまた、復活する。上手くいくのかブルエは心配だった。

 七年の間にランウルグは成長した。自分で自分の身を守れるし、ブルエに頼らなくても生活できるし、野宿さえできる。七年間、不安なく過ごした事で、彼本来の明るく快活でいたずら好きで甘え上手な性格が引き出された。

 それが、ブルエにとって不安だった。七年前に感じていた恐怖がない事は、危険に対する感覚もにぶっている。

 その上、ランウルグは目立つ。可愛い子供だったのが、美少年に育ってきた。里でもランウルグはもてた。女にはもちろん、朗らかな性格もあって、男にももてた。ジュアルと一緒にいて、余計にそうなった感じもある。

 ブルエは外に気配を感じて音もなく、起き上った。

 ブルエはこの七年間、ずっと里にいた訳ではない。里にいたのはせいぜい合計して三年程だ。ほとんど、街に出て里や他の任務に就いている者達のために、何かしら影での任務をしてきた。その間にランウルグのために、情報収集をしていた。だから、ブルエのかんが鈍る事は全くなかった。

 里の者には違いないが、用心のために短刀を寝巻の帯に隠し、そっと縁側えんがわに出て、戸を閉めた。

 庭にジュアルが立っていた。彼は弓と矢筒を背負い、皮の鞘に入れたなたや短刀なんかを腰に下げ、服の帯に挟んでいた。彼は舞に関してはてんでだめだが、里の周辺の事には誰よりも詳しく知っていた。

 だから、誰も彼が勝手に出かけたり、狩りに行くのを引き留めなかった。子供達がいなくなっても、ジュアルと一緒なら許された。里の周辺の事を知っておくのは大事な事だからだ。

「今日は月が綺麗きれいだ。」

 満月より一日前の月光を浴びながら、ジュアルは立っていた。ブルエは草履ぞうりいて、彼のとなりに立った。

 月の色は黄色味がかった白色なのに、なぜか照らし出された光は青白かった。二人はしばらく、黙って月を眺めていた。

「心配ない。お前ならできる。」

 唐突とうとうにジュアルは言った。ブルエの言いたい事は大体、言わなくてもジュアルには分かっていた。ブルエもまた、そうだった。

「それに、あの子の事も心配ない。」

「…そうだろうか。」

「お前がいない間、あの子は立派にやっていた。あの分なら、上手くやっていける。舞は私よりも上手い。人付き合いはお前よりも上手い。」

 ジュアルは静かにブルエを見つめた。

「心配なのはあの子の方より、お前の方だ。お前は一途だ。その分、気持ちが他の人よりのめり込む。それが、お前の足元をすくわないか心配だ。」

「そんなに、私は一途だろうか。」

 あまり言われたことのない指摘に、ブルエは多少、うろたえながら聞き返した。

「そうだな。だから、長会議の決定でお前とあの子が距離きょりを保てたのは良かった。お前が心配なのはその距離の事だろう?

 だけど、それが普通だ。いつまでも、べったりという訳にはいかない。七年前と違い、あの子も自分の身は自分で守れるようになった。

 お前なら、あの子もお前自身の命も守れるし、里のためにきちんと任務を果たせる。」

 ブルエはうなずいた。

「分かった。ありがとう、ジュアル。」

 月光の中でジュアルはにっこりした。だが、ジュアルは一つ、言わなかった事がある。死ぬな、という言葉だ。

 でも、それはこの里に生きる者にとって、一番、無責任な言葉だった。この生き方をしている里の人々は常に、死と隣り合わせなのだから。

 ジュアルはにっこりしたまま、手を上げると後ろを向き、黙ってその場を立ち去った。ブルエにはあんな事を言ったが、不安なのはジュアルの方だった。

 ブルエの舞は子供の頃から超越ちょうえつしていた。彼は里の人々の期待通りに、ニピで一番の舞手になった。

 それは、常に一番危険な任務におもむくという事を意味していた。ジュアルは自分は卑怯者だと自覚していた。

 年下のブルエの舞を見た瞬間しゅんかん、自分に才能はないと思った。実際、努力しても上手くいかなった。舞に不向きな者は舞を教授されない。ジュアルは大人達の意見が一致して、舞には不向きと判断された。大抵、舞に不向きな者は武術にも不向きだ。

 それをいい事にジュアルは、弓以外は護身できるほどにしか、舞も剣術も覚えなかった。

 いや、覚える努力をしなかった。街に出て行くのが怖かったのだ。街に出て任務をして、そのために人を殺すのは嫌だった。

 だから、森に逃げた。里の状況を隅々すみずみまで調べて分かっておくと理由をつけて。両親みたいに死にたくなかった。

 ジュアルは森の入り口でため息をついた。妙に胸騒ぎがした。

 ランウルグを見た時、この子は危険だと思った。

 ニピ一の舞手のブルエが、主人に選んだ少年。

 そして、そのブルエが護衛につかなくてはならないほどの立場の少年。誰も何も言わないが、里の人々は陰では大よその見当をつけていた。田舎にいても、街の情報は必ず入っている。

 ジュアルには、ランウルグがブルエを死に導く存在にしか思えなかった。

 でも、行くなとは言えない。卑怯な自分には何も言う権利はないのだから。


 

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