追伸 春風駘蕩の候
【四月二日 手鞠より静寂への手紙】
謹啓 庭の小手鞠が見頃となりました。塀を越えてこぼれているので、今日も往来を行く人に見事ですね、と褒められました。
こうしてあなたにお手紙を書くのは何年ぶりでしょうか。あの頃は直接お話するよりもお手紙の方が気楽でしたのに、いまとなっては気恥ずかしいものですね。
さて、今日が何の日か覚えていらっしゃいますか? 覚えているわけありませんよね。わたしも忘れていたのですから。
先日駒子さんが帰省されて、わたしは英家に遊びに参りましたよね。そのとき、とても懐かしいものを見せていただいたのです。女学校時代にやり取りした、たくさんのお手紙です。
あの頃は本当にくだらないことに大騒ぎして、毎日とても忙しくしていました。過ぎてしまえば未熟さや懸命さが恥ずかしくもあるのですが、泣いたり笑ったり彼女たちと共に過ごした時間は、かけがえのないものでした。
その中に些細な出来事のひとつとして書いてあったのです。「今日は久里原呉服店に行って参りました。蘭姉さまのお相手を一目見たくて」と。
あなたと出会った日。それが四月二日です。あの日も小手鞠が満開でしたね。
あのあとわたしたちにはいろいろなことがありましたけれど、あの日出会わなければすべてが違う形になっていたと思います。
あれから今日でちょうど十年。その間にわたしたちは学校を卒業し、結婚して子どもたちが生まれました。
菜々子さんは音楽学校を卒業後、母校に戻っていまも教鞭をとられていますし、駒子さんは卒業と同時に家出され、新潟で幸せな結婚生活を送っています。
そして震災があり、わたしたちの家も、あの小手鞠も燃えてしまいました。あなたが残してくださっていたわたしのお手紙も、あなたからいただいたお手紙も、いまはありません。大好きだったラムネ瓶の単衣も、白地に鞠絵文様がうつくしかった花嫁衣装も、すべて灰になりました。
あなたは会社にいらしたし、判断が少しでも遅れていれば命はありませんでした。わずかな荷物と生まれたばかりの
けれど、煤で着物を真っ黒にしたあなたは「よくやった」と抱き締めてくださいましたね。あなたの肩越しに見た、業火が燃やすあかるい夜空をいまでも覚えています。
そういえば、あのとき家の塀に「手鞠、琴音、上野公園へ。どうかご無事でいらして」と、墨で書きつけたのでしたっけ。これはあのとき以来のお手紙ということになりますね。
辛い出来事でしたけれど、あなたと子どもさえ生きていてくれたらそれでいい、と心から思える出来事でもありました。
琴音の
十年前、塀からひらりと飛び降りたあなたは、わたしに向かって手を差し伸べてくださいました。けれど、知ってました? 高いところは、上るよりも降りる方がずっと怖いのです。
あの手を迷わず取ったこと。あれは確かに恋の始まりだったと、この十年でわかっていただけたでしょうか。
十年後、わたしたちはどうしているのでしょうね。そのときまたあなたに恋文を書けるように、幸せな時間を重ねて参りましょう。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
敬白
昭和五年四月二日
久里原 手鞠
わたしの愛しい旦那様
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