一筆恋々
木下瞳子
一通目 春和景明の候
【三月十七日 手鞠より駒子への手紙】
拝復 ここのところ
お手紙をくださるときも、幾度も出しては引っ込め、渡してからもなかなか手を離さずにためらっていましたね。それほどまでに駒子さんを苦しめるのはどんなお悩みだろうかと、不安を抱えながら封を切りました。
駒子さんが心配するのも無理ありません。まさかお兄さまの
ご両親がまだご存じないのでしたら、わたしは駒子さんがじかに八束さまをおいさめすることをおすすめします。駒子さんの真剣な想いを八束さまがないがしろにするとは思えませんので。
それにしても八束さまと言うと、はじめてお会いした折の桃いろ振り袖姿しか印象にありませんが、
物事の良し悪しは表裏一体と申しますが、課題もせず一心に考えてもこのくらいしか良いところが思いつきませんでした。ごめんなさい。
わたしの無力はいま示した通りですが、せめて気晴らしに今度うちに寄っていかれませんか? 駒子さんが来てくれるなら、ビスケットを作ろうとちよさんと話しているのです。チョコレートをたくさんねり込んで。ぜひぜひいらしてくださいね。
かしこ
大正九年三月十七日
英 駒子さま
【三月二十一日 手鞠から駒子への手紙】
きのうは本当にごめんなさい。焼きたてを食べていただきたかったのに、まさかそれが裏目に出るなんて思いませんでした。欲張ってチョコレートを入れすぎたのがいけませんでしたね。あんなに手が汚れるなんて。
つぎからビスケットにはお箸をつけますので、こりずにまたいらしてくださいね。
さて八束さまのお話ですが、「心も身体も勝手に引き寄せられる」とおっしゃったのですね。
わたしに恋の経験はございませんが、恋とは恐ろしいものです。
うっかり男性の前に落として一目惚れされないよう、半巾は包みの最奥に固くしまうことにしました。とても不便です。
勝手に引き寄せられるならば、英子爵邸のあの立派な
ところで
ご長男の
静寂さんはまだ大学生で来年の八月に卒業される予定ですが、祝言はその前に挙げるようです。そして卒業後にお店を継ぐこととして父もお受けしました。
こんな日がいつか来るとはわかっておりましたが、したしい姉がいよいよ嫁ぐと思うと、口ではお祝いの言葉を伝えていても、心のうちでは憂いを感じています。またそれ以上にわたしはわたし自身の未来が不安でなりません。わたしも姉と同じように、いつか父からお相手の名を告げられる日がくるのですから。
そう考えると見慣れた海老茶の袴も、いやでいやでたまらない課題も、なんだかいとおしく感じます。
書いていて思い出しました。英語の課題がまだ終わっていません。前言に反して全然いとおしくはありませんが、いまからがんばります。
大正九年三月二十一日
春日井 手鞠
英 駒子さま
【三月二十八日 手鞠より駒子への手紙】
春霞というと雅な響きがありますが、その実、うすぼんやりとして少し気鬱になりそうな空模様がつづいていますね。それは自然の仕業ゆえ仕方のないことだとしても、駒子さん、「
あのリリプットカメラ、かなりいい物を買っていただいたと思いますけれど、悦美さんはなぜ空ばかり写すのでしょうね。「ふたつと同じ空はないの」と言うけれど、それなら英語の
さて八束さまのことですが、近ごろ馬車に衝突されて、頭にお怪我でもされたのでしょう。きっとそうです。そうでなければ、わたしをご指名で恋愛相談を持ちかけるなどという暴挙に出るはずありませんもの。
八束さまがお座りになったとき、さりげなく頭の後ろのあたりをお確かめください。大きな傷があるはずです。
八束さまには「手鞠は恋愛においてさしたる経験を持ち合わせておりませんので、お力にはなれません」とお伝えください。それから「手鞠はあくまで駒子さんの味方ですので、駒子さんを困らせる方はどなたであっても許しません」とつけ加えてください。
川の南側では桜が満開だそうです。女学校の桜も今週末が見ごろですね。
季節の変わり目にはひとは不安定になるものと聞きます。うるわしい桜に惑う八束さまのお気持ちもはやく落ち着くといいですね。
大正九年三月二十八日
手鞠
駒子さま
【四月二日 手鞠より駒子への手紙】
兄思いの駒子さん。大好きなお兄さまを思うあまり、お心をどこかへ見失ってしまったのですか? 恋文の添削をしてほしい、とはいったいどういうことでしょう?
いえ、わたしだってできることならば、恋を
古来より「溺れるものは藁をもつかむ」とは申せど、藁をつかんだとて助からないことを、いま一度八束さまにお伝えください。
どうしてもわかってくださらない場合は、英家には立派な螺旋階段がございましたね。ちょうどよい大きさの古伊万里の壺も応接室でお見かけしました。あの壺なら小柄な駒子さんでも持ち上がるでしょう。八束さまがお帰りになって、階段をのぼる手前が頃合いかと存じます。
さて本日わたしは、久里原呉服店に行って参りました。蘭姉さまのお相手を一目見たくて。
店先に静寂さんらしき方はいらっしゃらなかったので、裏手に回って塀の内をのぞいて参りました。双眼鏡が見つからなかったので代わりに虫眼鏡を持参したのですが、折悪く静寂さんを認めることは叶いませんでした。
残念ではありましたが、塀にのぼるのを手伝ってくださった方と楽しくおしゃべりしながら春のお庭を眺めて参りました。
久里原呉服店は賑わっていました。呉服、太物ばかりでなく、近ごろは洋服生地も扱っているそうです。仕立て職人もたくさん囲っていて、わたしも何度かお世話になりましたがとても評判はいいようです。
持参金目的の縁談とはいえ、姉が明日の米に困ることはないでしょう。あとは静寂さんがやさしい方だといいのですが。
お互い見守るしかない立場は辛いですね。
大正九年四月二日
手鞠
駒子さま
【四月七日 手鞠より駒子への手紙】
くり返しの確認になりますが、駒子さんは本当にご存じなかったのですよね? 本当の本当の本当の本当に? 本当の本当の本当の本当の本当ですね? 他ならぬ駒子さんの言葉ですから、わたしはそれを信じることにいたします。
でも本当にご存じなかったのですよね?
八束さまがなぜわたしに相談を持ちかけるのか、ようやく納得いたしました。けれどいくらしたしい姉妹とはいえ、姉の気に入る恋文など存じません。
同封されていた恋文の素案には一応目を通させていただきました。正直申し上げて、八束さまのお言葉があまりに洗練され過ぎていて、感性の鈍いわたしには理解が及びませんでした。「流れゆく川に笹舟を浮かべ、干し柿を噛むがごとき気持ち」とはどのようなお気持ちなのでしょうか? 八束さまのおっしゃる「月の雫を搾り取ったような笑顔」を持つ「茶葉のように清らかな女性」が蘭姉さまなのですね? 人それぞれ見え方にはだいぶ差があるようです。
それでも混沌とした中に言い知れぬ熱意だけは痛いほどに伝わってきました。八束さまが真摯な気持ちで姉を想ってくださっていることはよくわかります。
けれど、まだ正式に発表されていないとはいえ、姉は婚約者のいる身。いくら想いを寄せていただいてもお応えできないことを八束さまにはご理解いただきたいのです。この大切な時期に変な噂が立ってもよくありません。
ですから駒子さん、いざというときには古伊万里の壺のこと、よろしくお願いします。大丈夫。壺なんてどこの家庭でも日に一度は落ちるのですから、すべて事故です。
駒子さんのためにも八束さまには幸せになっていただきたいけれど、今回ばかりはお手伝いできません。ごめんなさい。
大正九年四月七日
手鞠
駒子さま
【四月十日 手鞠より駒子への手紙】
拝啓 本日はお招きいただきまして、ありがとうございました。
それにしても、今日はとても驚きました。久しぶりにお目にかかった八束さまの、それはそれはご立派だったこと。わたしにはあの珍妙な恋文を書かれ、執拗な待ち伏せをくり返し、日々妄想と混乱を友とされている方と同じ人とはとても思えません。
また八束さまの姉を想う気持ちが、風雨にも耐え得るものであることもよくわかりました。「蘭さんを愛しています」と告げられ、自分のことではないのに胸の奥できららかな
いいえ、決して八束さまに心惹かれたのではなくて、わたしも誰かにそんな風に想われてみたい、と思ってしまったのです。
同時にわたしもいずれは父の決めた人の元へ嫁ぐ立場でありますので、望めない未来に気持ちが沈みました。少しばかり姉がうらやましいです。
もちろん姉は婚約を控えている身ですので許されることではありませんけれど、誰かに愛されるというすてきな経験をぜひ知ってもらいたいと思いました。余計なことはならさず、ただそのお心を真っ直ぐに伝えたなら、姉も喜ぶのではないでしょうか。
しかし殿方からのお手紙など届いても、姉の手に渡る前に捨てられてしまうでしょうから、駒子さんを通しましてわたしにお預けくださいませ。
お待ちいたしております。
敬具
大正九年四月十日
手鞠
駒子さま
【四月二十六日 手鞠より八束への手紙】
謹啓 さみどりの風薫る心地よい季節となりました。八束さまにおかれましては、予想を越えるご健勝ぶりに、こちらはいささか戸惑っております。恋文をお預かりするだけであって、恋の成就をお約束するわけではございませんので、お間違えなきようお願いいたします。
さてこの度は律儀にお知らせいただきまして、ありがとうございました。
わたしには文才などまるでなく、恋文の添削は一度お断りしましたが、今回ばかりは事前にお知らせいただいて感謝しております。
三日ほどかけて添削しましたところ、原文を残すことは至難の業と判断いたしました。大変失礼ながら、八束さまの想いが強いあまり、筆に宿る神の力をもってしても、お心に添う言葉をつむげていないものと思われます。
ここは国語の中嶋先生より絶大な信頼を得ている駒子さんに、八束さまのお気持ちを文に起こしてもらうより他ないと存じます。どうかそれを書き写し、
くれぐれもお気をつけて、駒子さんのおっしゃるままに写してくださいね。
こ武運お祈り申し上げます。
敬白
大正九年四月二十六日
春日井 手鞠
英 八束様
追伸
一点だけ八束さまにお願い申し上げます。せめてお名前だけはきちんと書かれますように。「あなたの赤い
【四月二十六日 手鞠より駒子への手紙】
八束さまの恋文を拝読いたしましたが、八束さまのすてきなところをきれいに切り取り、
何卒ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
かしこまりかしこまり失礼いたします。
大正九年四月二十六日
春日井 手鞠
国語の成績優秀な駒子さま
【五月三日 手鞠より八束への手紙】
あれほどお願いしましたのに、なにゆえ駒子さんに代筆していただかなかったのですか。
大正九年五月三日
手鞠
八束様
【五月七日 手鞠より駒子への手紙】
前略 蘭姉さまが八束さまからのお手紙を大切そうに胸に抱いていました。中身を知らなければ、どれほど甘美な言葉の数々がそのはかない紙を彩っているのかと、想像をたくましくしていたところです。
八束さまの一方的な恋着かと思っておりましたが、よもや連日の待ち伏せと付きまといが奏功していたとは存じませんでした。
姉は常よりやわらかさを増して、しかし
姉の婚約は六月六日の顔合わせをもって正式に整います。八束さまにも縁談はたくさんあることでしょう。姉の幸せを誰より願っていますが、「幸せ」とは何なのかわからなくなりそうです。
草々
大正九年五月七日
手鞠
駒子さま
【五月十日 手鞠より駒子への手紙】
急啓 同封の手紙を八束さまにお渡しくださいませ。姉からのお返事です。
誰にも内緒で。お願いいたします。
草々
大正九年五月十日
手鞠
駒子さま
【五月十九日 手鞠より駒子への手紙】
前略 八束さまには驚かされました。あの方の執念をもってすれば、枯れた柿の木に赤い蜜柑を実らせることもお出来になるのではないですか? いったいどのような媚薬をお用いになって、英子爵を説き伏せたのでしょう。
子爵から正式に縁談を申し込まれ、父もかなり戸惑っているようです。本来ならばもう決まった縁があるから、とお断りするところですが、お相手がお相手です。華族様から、しかもお家を背負うご長男の縁談を是非に、とおっしゃるのですから、その場ですぐにお断りすることはできなかったようです。
姉はうれしそうでもあり、不安そうでもあります。まともに考えるならば、顔合わせが目の前に迫ったいまになって、お話が流れるなどあり得ません。
しかし父は迷っているようなのです。「迷う」ということは、八束さまを選ぶ見込みもあるということで、わたしはそのことにも驚いています。
また、もしも久里原さまが了承して、姉が子爵家に嫁ぐことになったとしたら、姉はとても苦労するのではないかと思うのです。嫌な思いもたくさんするでしょう。それなら一時の恋などあきらめて、平穏な人生を選んだ方がいいかもしれません。
どこを向いても完全にまるい幸せなどなく、すっかり迷子になっています。
草々
大正九年五月十九日
手鞠
駒子さま
【六月十一日 手鞠から駒子への手紙】
学校でもお伝えしましたが、黙っていてごめんなさい。驚かせてしまいましたね。わたしにもいろいろなことがあり、すべてが収まるまでお話しすることができなかったのです。
まずは八束さまのご婚約おめでとうございます。これからも大変なことは多いと存じますが、きっと蘭姉さまを幸せにしてくださいませ。もし裏切るようなことがあれば、八束さまの気がおかしくなるまで、毎日いやがらせのお手紙を送りつける用意がございます、とお伝えください。
ずっと悩んでいました。蘭姉さまにとってどうなることがいちばん幸せなのか。考えても考えても結局わかりませんでしたが、ひとつだけたしかなことは、蘭姉さまの恋を叶えることは八束さまにしかできないということです。この恋が実らなければ、おふたりとも想いを残すことになるでしょう。それはやはりかなしいのです。
反対に久里原呉服店へ嫁ぐことは姉でなくともこの家の娘ならば誰でもいい。つまり、わたしが
父にもその考えはあったでしょうし、英子爵と久里原さまとの間でもそのお話がなされたようですね。
母にいたっては最初から姉よりわたしを嫁がせたいと考えていたそうです。姉はわたしよりふたつ上の十八歳、静寂さんは二十一歳。結婚の年の差としては忌まれる
いつでしたか久里原呉服店に行ったときに静寂さんを見つけられなかったことが、返す返すも悔やまれます。久里原呉服店の評判はよく、静寂さんもこれと言った悪い噂は聞こえてきません。ご兄弟の中で静寂さんだけ庶子でいらっしゃるようですけれど、それはご本人の落ち度ではありませんもの。多くは望みませんから、どうか誠実な人でありますように。
秋に姉を送り出し、静寂さんが大学を卒業されましたら、わたしは学校を退学して嫁入りすることになりますが、もう少しだけみなさんと一緒に女学生でいられます。
今年予定されている洋食の実習は受けられますが、来年のミシンの実習は受けられるかどうかわかりません。駒子さんや菜々子さんと机を並べてお勉強したり、お弁当を食べたり、帰りに寄り道をしてあんみつをいただくなんてこともできなくなるのですね。
どなたかに恋をすることも、されることももうありません。それが当たり前だと思っていたはずなのに、八束さまと姉を見ていたらさみしいことのように思えてきました。
でも最初に父に「久里原呉服店に嫁ぎたい」と伝えたのは、わたしのほうなのです。わたしの申し出があってもなくても結果は同じでしたでしょうが、それでもわたしはこの道を自分で選んだつもりです。
残された時間はわずかですが、またかつみ庵のあんみつやお汁粉を食べに参りましょう。
時は短し。乙女は忙しくて恋する
大正九年六月十一日
春日井 手鞠
英 駒子さま
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます