Log-030【潜入と刺客と術中と-壱】

 ウルリカの居るその場所は、横並びでは進めないほどに狭く、灯火が無ければ一寸先も見えない程の闇に包まれた、下水道の中だった。汚水に塗れながら、組織の人間と共にそこに居た。


「……最悪、クソだわ。ありえない」


 そこは汚臭極まっており、とても長時間居られるような場所ではなかった。


 ウルリカは鼻をつまみながら、顔を歪ませる。


「確かに糞だ、ちげえねぇや。だがよ、そもそもあんただって、この案にゃ賛同してたじゃねえか。観念しな、貴族様」


 鼻をつまみながら、片手にランタンを持ってそう話すのは、大柄で長身、顔立ちの整った優男。デニム生地で厚手に作られた八分丈のシャツを胸元まではだけさせ、ところどころ色褪せたジーンズを履いた、いかにも肉体労働者といった服装。それがサルバトーレだった。


 彼らが待機する場所は、現在ルカニアファミリーが集会を開く根城の直下を通る下水道。その経路ならば確かに、誰にも悟られることなく潜入が可能だった。ゆえに、下水道からの奇襲というサルバトーレの提案に合理性を感じたウルリカは賛同した。


 そして今、彼女が頭の中で反芻される言葉は、後の祭り、という諺だった。


「……話しかけないで。集中してるの」


 そう言ったウルリカは、手に持っていた革表紙の手帳を覗いていた。そこには何も書かれていない、まっさらな白紙の頁。何かを筆記するでもなく、ただじっと覗いていた。


「やれやれ……お嬢様にはその白紙に何が見えているのやら」


 逆に観念させられたのか、サルバトーレは溜息混じりにそう呟く。


 そんな彼は、士気が著しく低下し続けている二人の組員を励ますことに奔走した。


「お前らこんな、スラムの連中も怖気づく劣悪環境の中で付いてきてくれて、悪りぃな」


「なに、構やしませんよ。サルバトーレの旦那が出張るっつうんだ。俺たちが出張らねえでいつ出張るんだって話でさあ」


 ウルリカが組織の舵取りだけに注力できるよう、サルバトーレは組員の彼に対する信頼を確実なものとしていた。組織を本格的に発足してからというもの、サルバトーレは見事に自身の役割を全うし続けている。それはウルリカも、彼の高い能力を信用しての起用だった。


 しかし、ウルリカは知っている。彼の外面はおよそ面倒見の良い親分肌のような人格に見える。しかし、彼はただの一度も、他人の前で本心を曝け出したことはない、ということを。


 しばらくして、ウルリカがじっと見つめていた白紙の頁に、インクが内側から滲んでくるように、文字が浮き出てきた。それを見たサルバトーレは、唖然とする。


「……どんなカラクリだよ。やっぱ、恐ろしいな。魔術ってやつは」


 サルバトーレはその様を見て感嘆していた――が、ウルリカは違った。


「――まずいわね」



―――



「今、この密会もまた、彼らに、監視されている、ことでしょう」


 弱々しく辿々しく、細男は話す。


「おいテメェ、そいつは冗談じゃ済まねぇ話だぞッ!」


 幹部の一人がいきり立ち、細男に檄を飛ばす。しかし、細男はそれに何ら動じることもなく、


「……私の名は、主人に、ただティホンと、そう呼ばれて、おります」


 彼はティホンと名乗り、懐から羊皮紙と羽根ペンを取り出して、紙面に自らの名前を記し始める。


「私の名の、スペルを、記しました。これを、皆様のお手元に、回して、下さい」


 そう言って、ティホンなる細男は自身の名が記された羊皮紙を幹部の一人に手渡す。怪訝な顔で彼らは紙面を一瞥して、ぶっきらぼうにすぐさま隣席へと回していく。


 “男”もまた、ティホンの羊皮紙を手に取り、紙面を確認する。特段、そこにおかしな文字は記されていない。ただティホンという名前のスペル『Tyophone』と、少々拙い文字で筆記されているだけだった。


 会議室内にいる人間全員にティホンの羊皮紙が行き渡り、再び彼の手元に戻ってくる。


 すると彼は、自身の羊皮紙に顔を近づけて、念入りに見回す。爬虫類のように鋭く尖った眼は更に細く鋭くなり、鼻先が紙に触れるほどの近距離で凝視する。それは不気味なほどに、紙面の端から端までを。まるで、付着したモノを目で抉り取るかのように。


「ふむ……ルカニアファミリー、には、魔術師は居ない、と伺って、おりました。それは、真実の、ようです。が――ここに一人、魔術師の手に、掛かっている者が、居ます」


 ティホンの言葉に、空気が凍てつく。


「……説明しろ」


 サムがそう一言呟くと、ティホンは「よろしい」と言って、手に持った羊皮紙を机上に置いた。そして彼は、机上に置いた羊皮紙の上で手を開き、静まり返った室内ですら聴き取れないほどの小声で、呪文を囁き始める。


「『魔を以って魔を示す、魔がまつわるはその残滓、相対するはその痕跡、示したるは魔のあかし斑痕燈スペルトレイル』」


 そのかすかな声で唱えた魔術は、確かな神秘となって発現する。羊皮紙は青色に淡く発光し、紙面に付着した指紋が光を帯びて浮かび上がってきた。


 すると、それに共鳴するかのように“男”の掌が発光し始める。


「おい、お前……」


 幹部らは即座に“男”の方へと振り向く。“男”には、それを隠蔽する手立ては無い。


 “男”は、観念した。


「犯人が、暴かれた、ようです。私が、唱えた呪文は、簡単な、ものです。この羊皮紙に、付着した、“私以外”の、魔術の痕跡、を辿れ。そう命じた――それだけです」


 ティホンがそう言い終わると同時に、“男”は懐に手を入れる。いざという時のために持たされた、緊急時用の呪物ウィッチガイド――しかし、それを懐から取り出そうとした時だった。


「『略式詠唱、金剛錬縄ヴァジュラ・インモービル』」


 “男”は聴覚の端に、先ほどと同様の、かすかな詠唱を捉えた。途端、“男”は身体が動かないことに気がつく。それもそのはず、身体中に“何か”がまとわり付いて締め付けていたのだ。それが魔術によるものだということは明白だった。指先はおろか、次第に眼球すらも動かせなくなってしまった。


「何か……隠し、持ってますね。周到な魔術師、の後ろ盾……興味が、あります」


 “男”の視界の端、周囲の者が呆気にとられる中、ティホンが少しずつ近づいてくるのが分かる。彼のその一歩一歩が“男”の恐怖を駆り立てていく。全身が泡立っていくのを感じた。


「君は……君自身の、性質が、魔術を、後押ししている。君の、持つ、天性……興味深い」


 そして、ティホンが“男”の眼前にまで近づき――言い放つ。


「さて……解剖、しましょう」

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