Log-010【砂紋を描く-弐】

 澄み切った淡水が覆うヌビラ湖、その中央に盛り上がった小島には、乳白色の王宮がそびえ立っていた。その湖の畔から長大な橋梁が架けられ、王宮へと伸びている。


 湖の周囲には城下町が広がり、煉瓦造りの建物が規則的に並んでいた。街路には翡翠色や天色といった色彩の屋根布に彩られた露店が立ち並び、盛況を博している。


 明媚に縁取られた交易都市、その繁栄を表すかのように、砂漠の中央に位置するにもかかわらず、行商人や旅人の往来は激しい。


 駱駝を国営の厩舎きゅうしゃに返還し、旅客用の宿舎の扉を開いた。


 一階の広間では、併設された食堂に行商人たちが集まって、談笑に耽っていた。アクセルたちは窓口へと向かい、一人部屋と二人部屋を借りる。


 アクセルも路銀を持ち合わせているものの、ウルリカは自分が始めた旅であると言って、頑なにこれまで掛かった費用を払わせようとしなかった。


「アクセル、あたしはエレインに話をつけてくるから、宿屋で休んでて頂戴」


 そう言ってウルリカが宿舎を出て行ってしまったため、アクセルは時間を持て余していた。


 寝台に横臥したはいいものの、まだ日も傾かない昼過ぎ。このまま眠ってしまうこともできるが、わざわざ砂漠を越えてまで異国の都市に来たというのに、勿体無い気がしてならなかった。


「……少し、外に出ようか」


 この都市に入ってから、外気は随分と涼しく感じた。広大な湖によるものか、生い茂る草木によるものか、その両方か。どちらにしろ、寒々として荒れ果てていたパスクの関門と比べ、想像以上に過ごしやすいものだった。


 アクセルは雲ひとつない蒼天に両腕を挙げて、身体が扇状に反るほど伸びをする。駱駝の上に座り続けていた足腰は、疲労以上に凝りを感じた。


「こりゃ、結構鈍ってるな」


 旅路の途中で立ち寄ってきたオアシスでは、身体が鈍らないように、沐浴の前に必ず運動を欠かさなかった。それでも関門の警護を行ってきた時分に比べれば、微々たるものでしかない。訓練という水準まで身体を動かす必要性を感じたアクセルは、一先ず人気の少ない広場まで駆け走ることにした。


 街道の人通りを避けて、家屋が立ち並ぶ路地を抜けていく。琴掛け柳が街路樹として列植された、湖畔を囲う小道に出た。ヌビラ湖が横目に見える、見晴らしの良い道路。そこは、肌に滲む汗に涼風を届けてくれた。


 その道路を掛け走り続けて、次第に見えてきたのは、湖中央の王宮まで伸びた、翡翠色の長大な橋梁。透き通った空色の湖に溶け込むような淡い色合いの橋梁と、乳白色の煉瓦で組み上げられた質素でありながら優雅な王宮。それに、周囲を覆う琴掛け柳が、素朴な額縁となって、まるで視界全体に清澄な水彩画が広がっているようだった。


「綺麗だな……初めて駐屯地に派遣された時もそうだったけれど……今や途方もなく、遠くに来た気がしてしまう」


 アクセルにとっては、今の境遇など、考えてもみなかったことだった。かつてはローエングリン家との袂を分かち、命を捧げた身だった。それが意味するものは――それ以上もそれ以下も望めない立場に身を置くということ。不思議なことになってきたものだ、と呟く。


 いよいよ自らの行く末が、想像だにしない方向に転がっているのだと自覚する。



―――



「アイツ、どこに行ったのよ」


 宿舎の広間の一角にある食堂の円卓に座って、紅茶を注文していた。ウルリカは頻りに懐中時計を気にしながら腕を組み、眉間に皺を寄せて、床を踏み鳴らす。


「ウルリカ様、行儀がよろしくありません」


「……はぁ。もう日が傾くってのに、どこで油を売ってんのよ。大体、こんな都会で贅沢できるほどの金銭なんて持ち合わせてないくせに」


 誰かに話すわけでもなく、ぶつくさと文句を垂れる。店員が紅茶の入ったカップを持ってくると、奪い取るように口をつける。


「ウルリカ様、無礼はお謹み下さい」


 淹れたばかりの、火傷をするほどには熱いはずの紅茶を、一気に飲み干してしまった。熱さに耐える様子もなく、瞼を閉じながら一息ついて、脱力しながら背凭れに寄り掛かる。


「ごめんなさい、ルイーサ。頭にきて我を忘れてたわ。どうも駄目ね、とりわけアイツの話しになると。まったく……我ながら呆れ返ってしまうわ。なんとも――無粋ね、あたしは」


 ウルリカは額に手をやり、背中を丸くして俯く。一頻り溜息を吐くと、前髪を掻きあげて、姿勢を正す。そうして、目の前のルイーサを見遣った。


「貴方は、ないの? こういうの」


「私、ですか? そうですね……幼い頃は、もちろんあったのでしょう。憧憬や恋慕といった感情を尊ぶ、剥き出しの心が、確かにありました」


 ルイーサは天井に視線を上げる。追憶に浸るかのような、それでいて苦虫を噛み潰すかのような、陰陽どちらの感情も交じり合った表情を湛えていた。もっとも、表情の乏しい彼女の、この複雑な機微を読み取れるのは、長い時間を共にしてきた者だけだろう。


「……そうよね、貴方はアイツに似た経験をしてるんだものね、だから付いてきてもらってるわけだし。無理もないわ、ぬるま湯に浸かった人間とは、生きようとする覚悟の質が違うもの。そんな感情にかまけてる時間があれば、生存競争に勝ち抜くことを優先して考えるくらいには、ね。まあ、アイツは例外的な馬鹿だから、一様には考えられないけど」


 過去、ルイーサにも賑やかな家族があった。祖父母に両親、そして四人の兄弟。そのいずれもが、魔物の手によってこの世を去った。


 ――彼女は牧歌的な故郷が恋しかった。何でもない当たり前の日々を、ただ当たり前の煌きに包まれながら、生きていきたかった。そこいらの人間よりもおよそ人間らしい、穏やかな価値観の持ち主だった。それを全てかなぐり捨ててまで、生き続けることを選んだのは、


「今の私がいるのは、当主レンブラント様のお陰です。幼少の頃では決して抗えなかった――いえ、今も多くの人々が抗えず、ただ被るほかない災厄に対して、報いる力を授けてくださった旦那様は、私の誇りです。事実、こうしてウルリカ様の旅路に同行できるのも――勇者という肩書きの真実を託されているのも、あのお方が私に“生きることの何と素晴らしいことか”を、私の手を取り、真摯に語らってくれたからに他なりません」


 過去の一つ一つを丁寧に振り返るように、粛々と言葉を紡ぐ。


「……皮肉なものだけど、ウチは血族なんかよりも、それに仕えてる使用人達の方が余程、家訓を心得てるのよね。まあ、あたし達姉妹が際立って身勝手なだけかもしれないけど」


 そう言うと、苦笑いが込み上げてきた。バツが悪くなり、こめかみを掻く。そんなウルリカの様子が微笑ましいのか、ルイーサは目を細めて口角を上げた。


「ウルリカ様には随分と手を焼きましたからね。何事にも反感を抱いて、誰に対しても反抗してきましたから。私たち教育係はおろか、家族の誰であっても貴女は心を開こうとしなかった。今では想像もつきませんが」


「そうね……あの頃はとことん迷惑をかけたわ。なまじ知識があっただけに、あらゆるものが馬鹿みたいに見えて、愚かで矮小で――この世が信頼に値する世界だとは到底思えなかった」


 ウルリカは自らの幼少期を追想する。それは俗に言う「荒れていた、擦れていた」などという生易しい言葉では表現し切れないものだった。


 彼女の行いは法治下にあって、“悪”の烙印を押される程の所業。そんな“悪”の世界に手を染めたのは弱冠十歳。それを可能にしたのは、彼女の天性の実力によるものだった。その早熟した類稀なる頭脳と才能により、奇異を見るような周囲の目を捻じ伏せ、屈服させた。


 その汚濁した非行の世界は、彼女にとっては自然体で居られる、唯一の居場所だった。短絡的で直情的な世界、それは誰もが本心で行動しているということに他ならない。


 元居た“普遍”の世界は、世間に迎合し媚びへつらい、それでいて弱者を蹴落とし、尚且つ異端者を排斥するもの、そんな認識が彼女の中にあった。虚飾と欺瞞で塗り固められた”普遍”の世界で、それに倣って生きていくのなら、堂々と弱肉強食を謳い、悪辣な本音でぶつかり合う”悪”の世界の方が余程生きやすい、と。


 ゆえに彼女は、自ら“悪”の烙印を背負った。それが例え、己が名誉を汚すことになっても。


「彼を知ってから、ですか」


 そんな彼女を変えたのは、他でもなかったようだ。


「……ええ、そうね。改めて肯定するには恥ずかし過ぎるけど。本当、あの馬鹿さ加減には参ったものよ」

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