上司のお見舞い from 海外
上司が自宅を訪ねてきた。
キッツはいわゆる外資系IT会社に勤めている。上司はアジア諸国に数名いる。そのうちの一人が、シンガポールから日本に出張で来ているとのことで、キッツの様子を見たいと人事経由で連絡が入った。
嫌だな。
まず初めにそう思った。
日本の上司や同僚からも、お見舞いにきたいという打診は受けていた。それは病状がまだ酷い時で、人に会う体力も気力もなかった時で、全て断っていた。しかし今は違う。ムーンフェイスもニキビも多少落ち着いてきている。体力も人と会って話すくらいには回復している。
(6、7、8……)
休職開始から、9カ月近く経っている。
そろそろ上司に直接会って、現状を見てもらっておいた方がよいだろうか。
復職についても話しておくべきだろう。
会いたくない。
それでもキッツはそう思った。
それはつまり、キッツがその上司に好感を抱いていないからだ。仕事外で出会っていたら、おしゃべり好きの甘えん坊キャラ、で終わっていただろう。しかし彼は上司で、仕事を介すと厄介な人物だった。仕事で受けたストレスの一定部分は彼からのものである。
自分のミスを部下のせいにする。
自分が発した指示の責任を負わない。
キッツより2歳年下の上司は、それでも頑張っているのだとは思う。部下がどんどん増え、彼に対するプレッシャーも大きくなり、彼自身のキャパを超えていたのだろうとも思うが、それでもやはり実害をたくさん被ったキッツとしては、彼に対する印象は悪かった。
(どうしようかな)
キッツは、キッツの姉の姉子にラインをした。返信を待っている間に、キッツの夫のパップス、仲の良い同僚にもメッセージを送った。
結果、会った方が良い・2票。どちらでもない・1票で、キッツは民主主義の原理に従い、大多数の意見を受け入れた。また、助言として、第三者に同席してもらった方が良い、という意見も取り入れ、キッツの両親に同席を依頼した。
「来ないね……」
約束の時間は、朝の9時から10時の間というものだった。その1時間枠のどこかで、キッツの自宅を訪ねると、人事経由で連絡が来ていた。1時間の枠というのも随分と幅があるが、慣れない東京の移動ということもあり、その辺りは許容範囲であろうと思う。
両親とキッツは掃除を済ませ、9時前から待機している。
キッツの経験上、9時から10時と言ったら、10時に来ると推測していた。上司は日頃から遅刻魔だ。会議にも30分や1時間遅れてくる。特に朝一番の会議は致命的だった。朝に弱いのだろう。
しかしキッツの予想も上回り、10時を過ぎても現れる気配はない。電話もメールも何もない。
待ち疲れ。
これが楽しく食事をしているならば、あっという間に時間は過ぎるが、いつ現れるとも知れない人を待つとなると、時間は遅々として進まない。会話も弾まないし、ただ悶々と過ごすばかり。
10時半を過ぎ、キッツは人事へメールをした。人事部の担当者はすぐに返信をくれ、かの上司へ連絡するとのこだった。
10時45分になり、両親はとうとう帰っていった。この日は上司がシンガポールへ帰国する日でもあり、フライト時間は不明だったが、羽田空港から1時間以上かかるキッツの自宅へこの時間になってやってくるとは思えなかった。
キッツはブツブツと悪態をつきながら、洗濯機を回し始めた。セットしたコーヒーも、用意した和菓子のお土産も無駄になったがしょうがない。これ以上自分の時間を無駄にしないために、洗濯は始めたい。
「ピンポーン」
「えっ」
まさかの訪問?!
慌てて時計を確認すると、11時25分。
「ありえん」
キッツは目を細め、Fワードを小声で呟き、玄関のドアを開けた。
そこには、人事からの連絡がどうのと言いながらたたずむ上司の姿。想定通りの言い訳をする上司を見て、キッツは思わず笑顔になる。
来てくれたことに礼を述べ、招き入れる。果たしてシンガポール人にスリッパというものは理解されるのかと思いつつも、まずはスリッパを勧める。
良いところに住んでいるねと褒められると、悪い気はしない。
その後すかさず家賃はいくら?と聞いてくるのが、中華系だなぁ、と思う。
40分間の訪問で話した内容はというと、
―上司のロンドン出張の話:30%
―上司の結婚式の話(5年前の出来事):30%
―職場の同僚の話:15%
―キッツの病気について:15%
―キッツの復帰について:5%
―その他:5%
半分以上、上司自身の話で終わってしまった。
キッツ側としては、復職するにあたり、リモートワークから始められたらという希望を述べることはできた。病気については、入院時の一番外見が酷い時の写真を見せて説明した。視覚情報はインパクトに残りやすい。目も開かないほどに顔が腫れ、皮膚もただれている写真を見せられたのは、これだけ大変だったのよ、と印象付けるには効果的だったと思われる。
とにかくまずは、健康をとりもどすことが大切。
そう繰り返して上司は去っていった。
お見舞いでもらった桃が、妙に甘く感じた。
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