第30話「思い出した出会いの時 前編」
30話「思い出した出会いの時 前編」
しずくが思い出したのは、約10年も前の出来事だった。
しずくにとって小さな出来事だったかもしれない。
けれど、白にとって、そして今のしずくにとっては大きな出来事。
あの1日が2人を繋げたのだから。
☆☆☆
10年前のその日。
その頃のしずくは、保育園で働き始めたばかりの新人だった。
複数担任のクラスを任されており、1日の保育の流れ、保護者対応、書類等で毎日を過ごすのに必死だった。
それでも、昔からの夢だった保育士として働く日々は充実しており、しずくは働く事で充実した生活だと感じ始めていた。
働き始め、ようやく子どもや保護者の名前、そして仕事の仕方がわかってきた頃。職場にある実習生が入ることになった。
実習といっても、保育者になるために本格的に勉強しに来た学生ではなかった。
中学生の職場体験だ。
各学年1クラスずつ入れるようにと6名の中学生が2日に渡り、保育園にやってきた。もちろん、しずくのクラスも例外ではなかった。
しずくのクラスは3歳児クラスだった。言葉もスムーズに話せるようになり、活発になる学年。トイレトレーニングなど、日常生活の基礎となる部分を本格的に教えていくクラスだった。
そのため、しずくの他の保育士は皆ベテランばかりだった。
そこに入ったのが羽衣石白という男の子だった。
スラリとした長身で、細身、さらさらの黒髪には少し寝癖がついていたが、本人は全く気にしていなかった。
鋭い瞳が印象的だった。
学校からは「コミュニケーションが上手くとれない学生。」と話が来ていたようで、そこでベテラン保育士がいる3歳クラスに入ったようだった。
基本的に、子ども達はお客さんが大好きだ。
実習生などが来ると、甘えて抱っこを求めたり、一緒に遊ぼうと誘う。
そのため白が2日間クラスに入ると聞き、クラスの子ども達は大喜びだった。
が、それは数時間だけだった。
白は、子ども達と遊ぼうともせずただ部屋の隅に座っていた。
自己紹介では「ういしはくです。」と話しただけでそれ以外はあまり声を発さないのだ。
子ども達が「遊ぼう!」と誘うと始めは一緒にいる事もあったが、子ども達が夢中になる頃にはいつの間にか違う場所へ逃げてしまうのだ。
そして、それからはずっと子どもの事を見ているだけで誘われても、それからは首を振って逃げていた。
部屋から出て行くような事はなかったが、子どもをかわし続け、いつしか子ども達も「この人は遊んでくれない。」とわかると誘うのを止めていく。
「困ったわねー。あまり子どもが好きじゃないのかしら。」
その様子を見ていたベテラン先生は心配そうに白を見つめていた。その先生は、とても優しいがダメな事はダメだとしっかり伝える保育のやり方だった。
毎日子ども達の接し方を見て、勉強になることばかりだった。
大きくなるにつれて、見守ることも大切だとよく言っており、白に対してもまずは見守ることに決めたらしい。
初日は、子ども達と触れ合う事もなかったため、トラブルもなく終わった。
だが、事件が起こったのは2日目の自由遊びの時間だった。
その日は部屋でお絵描きやパズルなどをしてゆっくりと過ごしていた。
子ども達の横に座ってパズルをして共に遊んでいる時だった。
「それに触るなッ!!」
突然、大きな怒鳴り声が部屋に響き渡った。
その瞬間、部屋は静かになり、子ども達は声の方を見つめている。
しずくは、すぐに立ち上がりその声の主に近づこうとした。
そこには、子どもから何かのノートを怒りのまま奪い取り、そしてそのまま部屋を飛び出していく白と、驚いて今にも泣きそうなクラスの男の子がいた。
しずくは、どちらを優先するべきか迷った。この時は子どもに寄り添うのが1番だというのはわかっていた。
だが、中学生の羽衣石くんを何故か無償に追いかけたくなっていた。
それは、逃げ出す彼。起こっていると思っていたが、何故か彼の方が泣きそうな顔をしていたのだ。
出て行った彼を見つめて呆然としていると、しずくの考えを察したのかベテラン保育士が「この子の話は私が聞いておくから、しずく先生は中学生を追って。」と声を掛けられた。
さすがベテラン保育士だ。しずくと違って、その声はとても冷静で落ち着いていた。その声を聞くと、しずくはすっと焦りがなくなっていくのがわかった。
「わかりました。」
そう返事をして彼を追いかけた。
部屋を出ていってから、彼の姿はなかった。
玄関に行くと外靴はまだ下駄箱にあったので保育園内にはいる事がわかった。
そのため、ひとつひとつ部屋の中を確認していく。
すると、保育園の端にある小さな部屋のドアが開いているのがわかった。
そこは、子ども達には「図書館」と呼ばれている部屋だった。小さな部屋だったが、部屋中本棚ばかりでそこには子ども向けの絵本が並んでいた。
紙の匂いがするこの部屋。本好きなしずくは、この部屋の雰囲気が好きでよくここから絵本を選んだり、整理をしたりしに来ていた。
その部屋の本棚の影に隠れるようにして、その青年は座り込んでいた。
「羽衣石くん?」
恐る恐る声を掛けると、白は顔を上げてしずくを一瞬見た。それはとても威圧的な物で、しずくは思わず後ずさりしてしまいそうになる。
それに気づいたのか、白は気まずそうに視線を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。
「すみませんでした。」
「え・・・?」
「栗花落先生は、俺を怒りに来たんだろ?」
(優しい声だな、声をたくさん聞いたのは初めてだな。)と、そんな事を思ってしまい、しずくはその考えをすぐに振り払い、ゆっくりと白に近づいた。
近づくと、背が高めの自分よりも大きな白を見上げるようにして見つめた。
鋭い目線だったが、目には戸惑いがあり、そして悲しげな雰囲気が感じられた。
なんとなく、子どもに大声を出したことを後悔しているように感じられた。
なるべく安心できるように、白に向かって笑顔を向けた。
「怒ってるんじゃないよ。どうして大きな声を出してしまったのか聞きたかったの。何か理由があったんでしょ?」
そう伝えると、白は少し驚いた顔を見せて、しずくの事をまじまじと見つめてきた。
何か珍しいものを見つけたかのように、何も言わずに白はしずくを見つめた。
それでも、しずくは白の答えを待った。
しばらくすると、彼の目の色が変わり、素なのか優しい物になった。
そして、優しい声変わりのしてない少し幼い声で話しを始めた。
それが嬉しくて、しずくは相槌をうちながら話を聞いた。
それは、今はしっかり覚えている。話すのが苦手な様子を見せながら、一生懸命気持ちを伝えようとする彼を、とても素敵な青年だと心を温めながらを見守ったのだった。
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