第45話 聖公女の祖父
クロムウェル王国正教会の現総司教キース・ハイベルトは、クリスタが最も信頼する人物であり、同志である部下たちを除けば、数少ない彼女の理解者だった。
当時、僅か十四歳のクリスタは単身で竜を仕留めてしまった。
本人としては、襲われた村を守るために行った『正しいこと』だったが、周りは全く違う受け止め方をした。
竜を仕留める以前から、すでに魔力と知性の両方で頭角を現していたクリスタに、父親であるエリオネスティ公爵は手を焼いていた。
プラチナブロンドと青い瞳の美しき公女――クリスタの評判を知った若い貴族たちが、気を引こうとして挑んできた勝負の尽くにおいて、彼女は相手を完膚なきまでに叩きのめしていたのだ。
「クリスタ……おまえに才能があることは認めよう。だが、その力をひけらかす態度は貴族として相応しいものではない。もっと自嘲してくれないか!」
父親の言葉がクリスタには心外だった。自分から勝負を挑んだことは一度もないし、魔力や知識を他人に見せつけようなどとは思っていなかった。
しかし、貴族であれば挑まれた勝負から逃げるのは恥であるし、勝負において手を抜くことは相手を愚弄する行為だと――他ならぬ父から教えられてきたのだ。
さらにクリスタは不幸なことに、大人の事情を理解できる賢明さを持ち合わせていた。
仮に自分が男であれば何の問題もなかったのだ――大人たちを打ち負かそうと、大貴族エリオネスティ公爵家の嫡男であれば、将来が楽しみだと逆に称賛されただろう。
しかし、女性であるクリスタは、いずれは政略結婚によって他の貴族に嫁がなければならない。
高貴な血筋と美貌という二つの大きな武器は、クロムウェル国王や他国の王すら篭絡する可能性を秘めているというのに、大人たちを打ち負かしたという評判が、相手の腰を引かせていたのだ。
それでも、エリオネスティ公爵家に男子が生まれなければ、婿を取って女帝として君臨する道もあったが……クリスタが十三歳のときに弟が生まれた。
幼い弟であるアデルのことをクリスタは愛している。この世界でたった一人の弟に比べれば、家督を継げないなど大したことではなかった。
弟が生まれるまでは、父もクリスタが大人たちに勝ったことを咎めなかった。事情を話せば、貴族として当然のことをしたと褒めてさえくれた。
弟の誕生により全てが一変したことを、公爵の娘として生まれた以上仕方のないことだとクリスタは理解して――父に言われるままに地方の荘園に行くことを承諾した。
ほとぼりが冷めるまで待ってから、淑女然としたクリスタを社交界に復帰させる。それがエリオネスティ公爵の思惑だったが――彼女が竜を討伐したことで瓦解してしまった。
村を守るために竜を倒したことをクリスタは後悔していない。そもそも、結果として起こることを彼女は理解した上で行動したのだ。
竜を討伐した後に初めて父親と再会した日、父が見せた失望の濃さにもクリスタは動揺しなかった。自分は正しいことをしたのだから恥じることなど一切ない。頑なで真っすぐなクリスタの態度に、父は何も言わなかった。
手元に置いておかなければ、次は何をしでかすか解らない。ただそれだけの理由で、エリオネスティ公爵はクリスタを傍に置いた。
侍女たちの噂話から、父がクリスタを王家に嫁がせることを諦めて、蛮勇を誇りとする亜人の国や、噂が届かない遠い異国の大貴族との婚姻話を進めていることを知る。
これも公爵の娘なら仕方のないことだと、クリスタは諦めていた。
そもそも彼女は、王家に嫁ぐことを望んでいた訳ではない。
弟が生まれるまでは、公爵家の一人娘として家督を守らなければと思っていた。
弟が生まれてからは、せめて嫁ぐまでは弟を支えてあげたいと思った。
本心で言えば、クリスタは貴族社会などに興味はなく、自分が思うように生きたかったのだが――それが叶う筈がないと理解していたのだ。
そんな死刑宣告を待つ囚人のような日々を送るクリスタの元に、突然訪れてきたのがキース・ハイベルト総司教だった。
「やあ、クリスタ。君の話は聞いているよ……一人で竜を仕留めてしまうとは、まさに光の神ヴァレリウスの寵愛を受けているに違いない!」
老人は人懐っこい笑みを浮かべて、手放しでクリスタを称賛した。
キース・ハイベルトは故人である先代エリオネスティ公爵の友人で、クリスタの父である現公爵とも交友関係にある。だからクリスタも、幼いころから面識があった。
彼は貴族出身ではなく、祖父の代から正教会の修道士であり、若い頃は聖騎士を務めていた。その人望と実力で三代目にして総司教の地位に就いたのだ。
信徒として敬虔な生活を送ることが、クリスタが淑女となるための一役となる――という名目でキースはエリオネスティ公爵を説得することで、彼女の教会での生活が始まった。
修道女としての生活は確かに規律に沿ったものだったが――それは教会の務めを行う公的な部分だけであり、クリスタは一日の大半を自由に過ごすことができた。
公爵家の生活と比べれば食事も質素であり、世話を焼く侍女などおらず、自分のことは全て自分で行う必要があったが――特別扱いされない生活が、むしろクリスタには好ましかった。
そして何よりも嬉しかったのは、キースがクリスタを一人の人間として温かく迎えて入れてくれたことだ。
「貴族社会の重みは、聖職の身である私も多少は理解しているつもりだが――クリスタにとって、それが全てとは思わない。君はエリオネスティ家の公女である前に、一人の人間だからね……クリスタ自身は、どう思うんだい?」
孫のような年のクリスタに、キースは優しく語り掛ける。しかし、決して子ども扱いはしなかった。
早熟の天才と呼ばれたクリスタから見てもキースは博識であり、七十の齢にして今でも勉強家だった。
キースの私室にはあらゆる分野の本が積み上げられ、クリスタが何か質問をすると、答えの代わりに本を貸してくれた。
「クリスタ――これはエリオネスティ公爵に対する裏切りとなることを承知の上で、私は君に聖職者となることを勧めるよ」
教会での生活を始めて半年ほどたった頃、キースは語った。
「私は何も、君が神に身を捧げる敬虔な信者だなんて思っていない――此処だけの話だが、私も同類だからね――教義とは神の教えという名の道徳を説くものであり、人々は教義の意味を自分自身で考えるべきだ。だから、クリスタ……君は自分が信じる正しい道を歩むために、私と教会を利用すれば良い」
キースの提案はこうだった。修道女は、その職に就いている間は結婚することができない。
しかし、それは建前に過ぎず、結婚をする者は申し出るだけで総司教により円満に職を解かれる。
そもそも修道女として教会で生活していたら結婚などできないからだ。
しかし、キースは修道女の制約を悪用して、クリスタを政略結婚の道具から解放しようと言うのだ。
「総司教様……お気持ちは嬉しいですが。それでは総司教様の立場が……」
「何、老い先短い私は今さら立場など気にしていない。それに、これは先代のエリオネスティ公爵への恩返しにもなるからね」
祖父である先代公爵はクリスタが六歳の頃に亡くなっているが、生前の祖父は彼女のことを溺愛していた。
幼い頃のおぼろげな記憶ながら、祖父が公爵という立場にありながら、平民にも分け隔てなく接していたことを憶えている。
「私が一修道士であった頃から、先代は私に友人として接してくれた――ああ、勘違いしないで欲しいが。私は先代を利用して今の地位を手に入れた訳ではないからね?」
キースは茶目っ気たっぷりに言った。
「私は先代から色々なことを教えた貰った。だから今度は――クリスタ。私が君に教える番だ。君は自分の信じる道を生きて良いんだよ」
キースは約束した通りに、クリスタをエリオネスティ公爵家から守ってくれた。
「総司教様……本当に、本当に有難うございます」
頭を垂れて涙するクリスタの肩を叩いて、キースは片目を瞑った。
「礼節を重んじることは決して悪いことではないが――私はそんなことを望んではないよ。先代の代わりにはなれないが、君のことを孫のように思っているんだ」
その日からクリスタは、キースのことを『お爺様』と呼ぶようになった。
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