3.再会(3)

 ミズナ――比企ひき水那みずなは、俺が小学5年生のときのクラスメイトだ。

 少し茶色っぽい髪の美少女で……だけど、いつも何かに怯えていて、誰かと喋ることは全くなかった。

 水那とは5年生になって初めて同じクラスになった。その頃はというと、俺は母親を亡くして間もなかったこともあり、結構落ち込んでいた時期だと思う。

 友達とは普通に喋っていたけど、ふとした瞬間に一人になりたくて移動すると……なぜか、ポツンといる水那とよく遭遇した。

 お互い何も喋らなかったけど……あまりにもよく会うから、何となく意識するようにはなっていた。


 でも……何であいつはいつも、独りなんだろう。俺と同じで、誰とも喋りたくない時があるのかな。

 だとしたら、声をかけない方がいいんだろうな。

 そんな風に思っていた。


 何かの機会に、同級生から水那は父親と二人暮らしだと聞いた。

 だから、俺と似た理由なのかな……と思って。


 そんなある日。

 俺が階段の下のデッドスペースみたいな所に行くと、また水那が独りで座り込んでいた。

 水那は俺を見ると、ハッとしたように顔を上げて、出ていこうとした。

 この場所は狭いから、二人並んで座っているのもおかしいと思ったのかもしれない。


 そのとき、水那のポケットからハンカチが落ちたから

「比企! 落としたよ!」

と言って去ろうとした水那の腕をガッと掴んだ。


「痛っ……!」


 水那は俺の腕を振り払うと、その場にうずくまってしまった。俺はびっくりして「ごめん」と反射的に謝った。


 ……だけど、そんなに強く掴んだっけ?

 水那を見下ろすと、髪が流れてうなじが見えていた。……火傷の痕。


「お前、首……」


 思わず呟くと、水那はハッとして首を押さえた。

 何か、堂々としていい話じゃなさそうだ。

 そう思い、俺は階段の下に潜り込むと、黙って水那を手招きした。

 水那は少し迷っていたが……おとなしく俺の隣に座った。


「お前、いじめられてるのか?」

「……」


 水那は首を横に振った。

 クラスでいじめに遭っている訳ではない、という意味だろうか。

 確かに……首の火傷は、小学生には無理だろう。

 多分、あれは……煙草の痕だ。


 俺は水那の手をとると、ブラウスの袖を捲りあげた。ひどく痣だらけだった。煙草の痕もある。


「これ……誰がやったんだ?」

「……」


 水那は再び首を横に振った。


「なあ……父親にやられたのか?」


 水那はビクッとしたが、涙をポロポロこぼしながら首を横に振った。


「だって……」

「……いいの……」


 水那の声を、初めて聞いた。とても……小さかったけど。


「よくないだろ」

「……」


 水那は泣いたまま何も答えなかった。


「あの……俺の親父さ、警察官なんだ。言ってやろうか?」

「駄目!」


 今度は強く否定される。

 ぎょっとして水那の顔を見ると、俺の顔を真っ直ぐにじっと見つめていた。

 いつも俯いておどおどしていたから、初めてまともに目を合わせた気がする。


「……行くとこ……なくなるから……」

「でも……」


 こういう虐待って、どんどんエスカレートするって聞いた気がする。


「このままじゃ、殺されるかもしれないぞ」

「……そしたら逃げる、から」


 子供が大人から逃げられるかよ。力が全然違うだろうが。

 そう思ったけど……じゃあどうしたらいいかまではわからないから、それ以上何も言えなかった。


「本当にヤバいと思ったら、絶対に言えよ」

「……」


 水那はこくんと頷いた。

 俺が勝手に先生とか親父に言ってしまったら、水那はもっと酷い目に遭うのかもしれない。

 とりあえず、毎日ちゃんと、水那の様子を見よう。

 ヤバいと思ったら、親父に相談しよう。忙しくて、なかなか会えないけど……。


「絶対、誰にも言わないで」

「……わかった。その代わり、毎日ここで、休み時間に俺と会おう」

「……」


 水那は少し考えこむと、小さく頷いた。



 その日から、俺と水那は毎日会って、話をした。

 最初は「大丈夫か?」「うん」ぐらいの会話しかできなかったけど、だんだん慣れてくるとお互いの事情も少しずつ話すようになった。


 水那の母親は水那が小学2年生の頃に亡くなったそうだ。

 それ以来、父親と二人暮らしだが……父親は仕事が忙しく、ずっと放っておかれていたらしい。

 そして、父親の事業がうまくいかなくなった1年前ぐらいから、暴力が始まったんだそうだ。


 そんな話をしているうちに……俺は水那、と呼ぶようになった。ヒキ、という苗字が言いにくかったからだ。

 ……いや、多分、ミズナって言いたかっただけかもしれないな。今にして思うと。

 水那が俺のことを苗字にしろ名前にしろ呼ぶことはなかったけど……心の距離は、だいぶん近付いていたと思う。

 そんなある日――あの事件が起こった。


 

 あの日……水那は学校を休んだ。

 俺と会うようになってから、水那は学校を休んだことはなかった。

 遅刻することはあったけど、約束した休み時間には必ず現れた。


 俺は嫌な予感がして、先生にプリントを家に届けるから、と言って住所を聞き出した。

 それは、学校からすぐ近くのマンションだった。


「……ここかな」


 表札が出てないからあまり自信がない。

 どうしよう、と思っていると

「何だ、こらぁー! 出てこい!」

という男の怒鳴り声が聞こえ、ガチャーンという何かが割れる音が聞こえた。


 ぎょっとしてしまい、ピンポンを押そうとする手を引っ込めてしまった。

 窓が少し開いていたので、覗くと……男がドアに手をかけて力任せに開こうとしている。


「水那!」


 思わず叫ぶと、男がギクッとしたように振り返った。


「何だ、どこのガキだ、この野郎……」


 これが……水那の父親なんだろうか。

 髪はボサボサで髭はボウボウ。目は血走ってチンピラみたいな表情だ。


「――おわっ!」


 男の後ろのドアが勢いよく開いて、水那が飛び出してきた。男はドアに背中をぶつけて、台所に転がった。

 外に逃げようとしてるんだ、と思って、俺は慌てて玄関のドアを開けた。


「颯太くん、耳を塞いで!」

「へっ!?」


 意味がわからず立ち尽くしていると、飛び出してきた水那が両手で俺の耳を塞いだ。

 そして振り返ると、追いかけてきた男に向かって何かを叫んだ。


「――ЙΨζБзФщ!」


 水那が何かわからない言葉を叫んだ瞬間、男は泡を吹いて倒れた。


「……えっ!」

「逃げて! お願い!」


 男のことは気になったけど……急に起き上がって暴れ出したらたまらない、と思い、俺は水那の手を掴んで走り出した。


 だけどマンションから出たところで、水那が

「ごめ……もう……」

と呟いたきり、気絶してしまった。


 どうしたらいいかわからなかったから、とりあえず水那を背負って学校に向かった。

 ちょうど校門近くに先生が一人いて、水那を抱えてくれた。

 先生は水那を見てギョッとしたようだった。

 水那は腕も足も痣だらけで、無事なのは多分……顔だけだ。

 だいぶん前から虐待を受けていたらしいということを先生に言うと、先生は水那を保健室に連れて行ったあと、警察と病院に連絡してくれた。

 俺の方でも親父と連絡を取って、事情を説明した。警察が水那の家に行くと、父親はまだ気絶していたらしい。


 そのあと、水那は病院に入院した。

 しばらく経ってから俺は病院に見舞いに行ったけど……そのときも水那は俯きがちで、一言二言、言葉を交わしただけだった。

 水那はその後、遠くの施設に預けられることになった。

 守秘義務とかで、俺にはどこに行ったのか教えてもらえなかった。


 結局……その見舞いが、水那に会った最後になってしまった。

 ……俺は最後まで、水那の笑顔を見ることができなかった。

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