第四章 神授の剣

第139話 心を暴くもの

 眼前に炎が広がった瞬間、レクシオは叫んだままの体勢で固まってしまった。


 猛る赤を見つめ、無意識のうちに後ずさる。――と気づいたのは、その直後だ。


 周囲の物が燃えていない。煙も上がっていない。そして、魔力の激しい揺らぎや濃度の変化も感じられない。おそらくは、幻術のたぐいだろう。魔導術もなしにどうやってそんなものを生み出せるのかはわからないが、目の前にある事実からレクシオはそう判断した。


 だが、頭では理解していても、感情が追いつかない。心は恐怖と焦燥に縮み、それは体をも縛りつける。剣を下げて持ったまま、レクシオは震える顔を炎に向け続けていた。


 どれほどの時間そうしていたのか、レクシオにはわからない。永遠のように感じていたが、実際はほんの数秒かもしれない。それほどの不明瞭な空白の後。凍りついていた思考の上に火が灯った。


 頭の端で火花が弾ける。本能が発する警告に任せ、レクシオは身をひねった。直後、不可視の力が防壁魔導術にぶつかる。表面に波紋が広がった防壁は、ほどなくして砕け散った。


「きれいな炎でしょう?」


 甘い声が、降ってくる。


 レクシオは震える手で剣を構えた。刃のむこうにいる女は、炎の明かりに照らされた黒髪をなびかせ、ほほ笑む。


「ルーウェンのあなたのお家も、最後はこんな感じだったのかしら」

「……なるほど。この幻は、俺から生まれてるわけだ」


 この場にいる者が無意識下で強く覚えていることを読み取り、引き出し、再現する。それがダレットの得意技らしい。実際、レクシオの推測を彼女は否定しなかった。


「正確には、あなたたちの記憶から生まれたものよ。ねえ、覚えているでしょう?」

「そうだな。ちっさい頃のことの割には覚えてる」


 言い返しながら、レクシオは先ほどとは違う焦燥感を抱く。


 まずい状況だ。力と精神、どちらもむこうが優位になってしまっている。このまま主導権を握られてしまえば、ダレットの思うつぼだ。それに、ヌンもその気になれば動くことができるだろう。


 身心の震えは収まらない。無理になだめようとすれば逆効果だ。


 火の爆ぜる音がする。誰かの笑い声がそこに重なる。


 自分を呼ぶ母の声。覆う影。顔に落ちて肌をつたう、生温かい赤――


 レクシオはかぶりを振る。連鎖する記憶を断ち切ろうとした。幻影は消え切らない。それでも、なんとか剣を握って。


「――幻だ!」


 その刹那、頭の靄を吹き飛ばすような声がした。


 ダレットが瞠目する。レクシオも、思わず炎の方を振り返った。


「みんな、吞まれてはだめだ! あれは炎じゃない! 僕らは幻を見せられているだけだ!」


 鋭く、それでいて明るい声が紅蓮の壁を突き破って響き渡る。それに引きつけられたレクシオは我知らず、団長、と呟いていた。音に呼応するように、突き上げるような恐怖心が徐々に鎮静する。頭の中が澄み渡り、四肢の感覚が戻ってきた。


 深呼吸する。改めて剣を握る。そうしてレクシオが両目を開いた瞬間、炎が割れて消えた。


 地下神殿の闇の中、学友たちの姿が見える。けれど少年は気を緩めず、正面をにらんだ。


 視線の先。浮いている女が、なまめかしく微笑した。


「あらま。もう見破られたのね。まあいいわ、ちょっとしたお遊びだったから」


 笑い含みの声で言い放った彼女は、長い黒髪を軽く払う。


「やっぱり、ヌン一人に『翼』二人の相手をさせるのは酷だわ。だから――私も参加させていただくわね」


 ささやきと、鋭い視線が突き刺さった。それは間違いなくレクシオに向けられたものだ。にらまれた――そう言っていいだろう――側の少年も、挑むように目を細める。


 透明な沈黙。鈍い低音と、震動。それらが過ぎ去ったのち、ダレットが軽く手を振った。白い五指が闇を裂き、魔力が奇妙に流動する。


 レクシオはほとんど反射で飛びのいた。すぐ後、虚空に半透明の球体が三つ、現れる。それらは彼めがけて凄まじい速度で飛んできた。レクシオは球体のうちふたつをかわし、ひとつを突いて落とす。金色をまとう刃が球体を叩き割った瞬間――幼い子どもの泣き声がした。


 レクシオは瞠目したのち、顔をしかめる。泣き声はやまない。何かを求め、力という力を振り絞っているような声は、不安を掻き立て、彼の古傷を容赦なく引っかいてくる。


 胸の奥に痛みが走った。だからといって、レクシオは立ち止まらなかった。この場に幼子はいない。あれは彼自身の声だった。


 砕けた球体のむこうから放たれた不可視の力をかがんで避ける。


「悪趣味な」


 彼が細剣を構えて吐き捨てると、ダレットは楽しげに笑う。


「私は『情愛と欲の神』。その役目を忠実に遂行しているだけよ」

「その行為が悪趣味だっつってんだよ。役目ってのも、本来のものじゃないだろ」

「当然。今の私はセルフィラ神族ですもの」


 少年の刺々しい言葉にダレットが答えると同時、背後で低音がとどろいた。数度、光が瞬く。ヌンとステラたちの衝突が始まったのだろう。心配は心配だが、今は信じて任せるしかない。


 それよりも、今はこちらだ。レクシオは敵から目を離さないまま、己の深層に意識を集中させる。さほど経たぬうちに、刃の輝きが強まった。


「俺相手だからまだいいけどな」


 レクシオは、まばゆい黄金色に覆われた剣を鋭く振った。すると、金色の光が一直線に伸びてゆく。黒い女神の相貌に初めて焦りの色が浮かんだ。彼女は身をひねって光を避ける。壁にぶつかった光線は、澄んだ音を立てて弾け飛んだ。


「――ほかの奴らに同じことしたら、その腕、消し飛ばしてやる」


 ささやく声は低い。緑の双眸に激情の色はなく、むしろぞっとするほど透徹していた。レクシオは、衰え知らずの『金の魔力』を――それをまとった剣を、反逆の神に突きつける。


 ダレットはつかの間、虚を突かれたように固まった。だが、次の時には薄い微笑を再び浮かべて、右腕を高く掲げる。


 また半透明の球体が現れた。先ほどの三倍はあるだろうか。レクシオは黙ってそれらに視線を走らせる。球体が指揮者の手もとを離れた瞬間、彼も駆け出した。


 次々と飛来する球体を、時に身をひねり、時に姿勢を低くして回避する。それでも避けきれない球体は、躊躇なく切り捨てた。刃が球体に触れると同時、全身を魔力で薄く覆う。そのおかげか、流れ込む感情の波は最初より弱かった。


 けれども、自分のやわらかい部分を揺さぶられていることには変わりない。慟哭、泣き声、怒りと恐怖――それらをレクシオはかみ砕き、飲み下し、その上で前を見た。


 うずくまるのは後でもできる。そのために、今は目の前の脅威を切り払うのだ。


 球体の猛攻をかいくぐった先、黒髪の女めがけて少年は剣を突く。


 かたい手ごたえ。澄んだ音が響き渡る。レクシオは、考える前に跳んでいた。


 鈍い銀色がきらめく。お返しの突きが、二発。レクシオはそれを静かにかわすと、牽制の意味も込めて武器を構え直した。


「武術は苦手分野なのだけれど、しかたないわね」


 そう呟いたダレットの手もとには、いつの間にか剣があった。見た目は素朴だが、おそらく、かなりしっかりした作りだ。


 ギーメルの大鎌と同じ要領で持ち出したのであろうそれを、ダレットは音もなく構える。


 同時に踏み出す。剣が一瞬交わって、離れる。


 その刹那、彼女の前にふたつの球体が現れた。


 顔をこわばらせたレクシオは、とっさに球体のひとつを突いて割った。とたん、目の前が激しい風雪に覆われる。それが恐怖心によって生み出された一瞬の幻覚だとわかっても、体は勝手に凍りついた。


 視界の端で、もうひとつの球がてらりと光る。直撃を覚悟したレクシオは、全身に力を込めて身構えた。


 そのとき、球体が弾け飛んだ。正確には、一直線に飛んできた石の刃によって砕かれた。


 レクシオは舞い落ちる破片を呆然と見つめる。驚く一方、自分の感覚が馴染みある魔力を察知したことにも気づいていた。


「レクシオさん!」


 砂ぼこりが舞い、断続的に地面が揺れる戦場を、一人の少女が駆けてくる。名を呼んだ彼女は、レクシオが今のところ無傷であると見て取ると、顔をほころばせた。


「ミオン、よく抜け出してこられたな」

「ジャックさんとオスカーさんが手伝ってくださいました」


 レクシオの言葉に答えながら、ミオンは構成式を広げて弾く。彼らの前に広がった淡い金色の円板が、ダレットの剣を弾いた。


 レクシオは同級生に「ありがとな」とほほ笑みかけた後、『情愛と欲の神』に向き直る。ミオンも表情を引き締めて、剣の柄に手をかけた。


「二対一、とはいえ若干不利かもな。あいつ、こっちの嫌な記憶や感情を呼び起こしてきやがるから」

「……厄介な相手ですね」


 苦々しく呟いたレクシオを、ミオンが少し驚いた様子で見上げる。しかし彼女は、すぐに目を細めて正面をにらみつけた。


「――では、三対一ならどうだ?」


 背後から明るい声が届く。それにかぶさるようにして、硝子が割れるような音がした。レクシオとミオンは、弾かれたように振り返る。幸い、そこを狙って攻撃されることはなかった。ダレットもまた、目をみはって音の方を見ていたからだ。


 抜き身の剣を持ったアーサーが歩いてきたところだった。彼のまわりを半透明の破片が舞っている。あの球体をひとつかふたつ、叩き割ったのだろう。


「ふむ。球を斬った相手の感情を揺るがすのではなく、特定の対象から抽出した記憶や感情を球体にしているのか。確かに厄介な力だが、他者の感情と思えば多少は線を引ける」


 淡々と呟きながら、アーサーは散歩のような足取りでやってきた。レクシオたちの隣で、一切のぶれなく立ち止まる。


「もちろん、愉快なものではないがな。他人ひとの心に土足で踏み入っているような気分になる」


 皇子はレクシオを一瞥したのち、剣の切っ先をダレットに向けた。


「助太刀するぞ、レクシオどの。やはりあれを野放しにはしておけん」

「ありがとうございます。けど、危ないと思ったら逃げてください。多分、あれに太刀打ちできるのは『翼』だけなんで」


 レクシオは、ダレットから視線を逸らさぬままそうささやく。アーサーは目を丸くした後、ふっとほほ笑んだ。


「断る」

「いやちょっと、殿下」

「皇族とは、民を守り導く存在だ。その皇族である私が、おぬしらを見捨てて逃げることはできんよ」


 皇子の口調は強く、晴天の瞳は揺るがない。その言動はレクシオに、幼馴染の少女を連想させる。彼は口もとをほころばせ、かすかに笑った。


「無茶だけはしないでくださいよ」

「善処しよう」


 ひそやかな応酬は、そうして終わる。


 そのときを見計らったかのように、ダレットが口を開いた。


「少しは楽しめそうね。――いいわ、三人まとめてかかってらっしゃい」


 地下神殿の一角に、冷たい敵意がひたひたと満ちていく。


 その中で、少年少女と青年は、視線を交わしてうなずきあった。

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