第88話 決裂

 風のだけが響く雪の中、二人は向かい合っている。


 ヴィントの問いに、ディオルグは沈黙を返した。ヴィントがさらに言葉を重ねようとした瞬間、彼の背後で構成式が弾け、幼子を金色の球が覆う。息子を守るため、彼が仕掛けた術だった。眠っているだけとはいえ、雪の中に放っていては凍死しかねない。ディオルグや、イルフォード家の人間の剣が小さな心臓を貫くかもしれない。そういった危険から遠ざけるための、防壁の球だ。


 それが無事発動したことに、ヴィントは無表情のまま胸をなでおろす。そして、改めて、信用したはずの男と対峙した。


「どういうことだ、ディオルグ。俺たちを売る気はないんじゃなかったのか」


 邂逅の時と、先日の来客。二つの記憶を重ねていたヴィントに、彼は感情の読めない笑みを返す。


「そうさ。俺は二人の事情を詮索する気も、引き留める気も――帝国に売る気もなかった」

「ほう」


 平静を装って、相槌を打つ。

 この男は、やはり気づいていたのだ。浮浪者親子が『魔導の一族』であることに。あのときは、それを諒解した上で二人を屋敷に迎え入れた。


「だが、状況が変わった」


 ディオルグの声は冷たい。ヴィントはそれを黙って聞いている。


「俺は帝国の騎士だ。皇帝陛下の命令には従わなきゃならん。だから、あんたらにはここで死んでもらう」


 純白の雪の中、剣が不気味にきらめいた。その切っ先が自分の方を向いてなお、ヴィントは眉一つ動かさない。代わりに、小さく舌打ちした。


「らしくない理由付けだな。おまえが皇帝に忠実な犬だとは思わなかったぞ、ディオルグ」

「尻尾を振りたくなくても振らなきゃならないときはある。国に仕えるってのはそういうことだ」

「何があった」


 自虐とも皮肉ともとれる言葉を受け流し、ヴィントは問うた。


 ディオルグの表情が、苦しげに歪む。だが、それは一瞬のことだった。垣間見えた感情は、瞳に宿った苛烈な炎の下に隠れてしまう。


「……あんたが知る必要はない」


 ディオルグは、それだけ吐き捨てて、勢いよく地を蹴った。



 剣がうなる。ディオルグのそれは、ヴィントが今まで見てきたどんな剣よりも重く、速い。


 回避は間に合わない。判断したヴィントは半歩退くと、眼前で構成式を組み立てた。すばやく練りあがったそれは、一瞬で弾けて、黄金こがね色の防壁へと姿を変える。彼の視界が金色に染まった瞬間、刃が防壁にぶつかって、耳障りな金属音を立てた。


 防壁に亀裂が走り、割れる。その間にヴィントは左方向へ走り、別の魔導術を展開した。無数の魔力の刃が男の横顔めがけて殺到する。だが、それが到達する前にディオルグは体を反転させ、剣で刃を弾き落とす。魔力がほどけ、光となって雪の上に消えていく。ヴィントもディオルグも、それを見てはいなかった。


 ディオルグの視線が横に滑る。その先にあるのは、先ほど彼が砕いた防壁とは別の壁だ。彼が半球状のそれに狙いを定める前に、ヴィントは氷の塊を生み出してディオルグの頭上に展開する。風を切る音で氷の飛来に気づいたディオルグは、それを飛びのいてかわし、避けきれなかったものを剣で砕く。一連の動作が行われるのにかかった時間は、五秒ほど。その五秒の間にヴィントは再び防壁の前へ立った。


 思わず舌打ちする。やりにくいことこの上ない。相手が天下のディオルグ・イルフォードである上に、動けないレクシオを守りながら戦わなければならないのだ。


 男は再び騎士と対峙する。少し離れたところに立っている彼は、隙のない構えでこちらをうかがっていた。瞳に宿る光は、見たことがないほど鋭い。人を射殺しそうな視線、とはこういう目を言うのだろうか――そんなことを考えつつも、ヴィントは全く別の言葉を舌に乗せる。


「ディオルグ。なぜ、突然こんな行動に踏み切った?」


 それは、三度目の問いだった。しかし、今までとは違う響きをまとう。

 ディオルグの太い眉がわずかに跳ねた。


「言っただろう。あんたが知る必要はない」

「本当に?」


 すばやく切り返すと、ディオルグは沈黙した。


「心からそう思っているなら、おまえはそんな顔をしないだろう」


 雪が降る。音もなく降り積もる。


 ヴィントの言葉をディオルグがどう取ったのかはわからない。ただ、彼は静かに口を開いた。


「俺も同じなんだよ、ヴィント」

「……何?」

「あんたがレクシオを必死で守ろうとするように、俺にも守りたいもの、守らなきゃならんものがある。それだけだ」


 ディオルグの言葉はやはり曖昧で、最も重要な答えを示してはくれなかった。だが、ヴィントの頭の中では、急速に情報が繋がっていく。


 彼の気性。ここにいない子どもたちのこと。帝都からの来客と、その時期。今、殺意の裏からのぞく、隠し切れない苦渋――それらを考え合わせれば、自然に彼の言いたいことがわかってくる。


「……人質か」


 ヴィントは小さく呟いた。その声が聞こえたかどうかはわからない。ただ、一瞬だけ、騎士の息遣いが変化した。


 ――来訪者の目的の一つは、おそらく、『魔導の一族』の話を伝えることだった。その過程で、死亡が確認されていない一族の情報がディオルグに渡る。同時に、彼らを見つけ次第殺すように、との命令も下った。


 ディオルグのことだ。最初は拒もうとしただろう。あるいは従うふりをして、のらりくらりとかわそうとしたかもしれない。


 そこで来訪者たちは人質を使った。なぜかは知らないが、春まで帝都に滞在しているという長男と長女。彼らの存在をちらつかせて、ディオルグを追い込んだ。


 これらはヴィントの予想に過ぎないが、大きく外れてはいないだろう。ディオルグのような人間には、この方法が一番効く。

 実際、彼は今、一度は救った親子を殺そうとしているのだ。


 ヴィントは目を閉じ、また開く。緑の瞳が再びディオルグを映したときには、揺蕩う疑念もわずかな迷いも消えていた。


「そうか。……そうだな」


 少しだけ声を大きくする。今度は、北極星の騎士にしかと届くように。


「確かに、俺が知る必要はなかった。知ったところで、どうしようもないからな」


 お互いが守るべきもののために動いた。その結果、ぶつかり合ってしまったのなら、もう後には引けない。

 二人ができるのは、このまま突き進むことだけだ。


 つかの間、背後を振り返る。レクシオは動いていない。目を覚ます気配すらない。それを確かめたヴィントは息子から目をそらす。そして、無言のまま構成式を組み立てた。


 上空、鈍色の雲の隙間に、白い光が迸った。さながら龍のごときそれは、太い稲妻となって地上へと降り注ぐ。


 白光があたりを包むと同時、天地を割らんばかりの轟音が響いた。


 雷電は、光が収まった後もバチバチと散っている。地面を踏みしめたヴィントは、その光の合間を縫って駆け出した。陥没した雪原を飛び越えてディオルグとの距離を詰め、手元で魔導術を展開する。先刻放ったのと似た刃、しかしそれよりずっと細いもの。針のような刃に進路の命令を与え、放つ。


 大量に向けられた魔導の刃に、ディオルグは一切動揺しなかった。少し視線を動かしたかと思えば、ヴィントの方へ向かって駆けてくる。襲いくる刃のほとんどを、彼の剣戟が切り払った。そのたびか細い音が響き、小さな光が明滅する。


 自分めがけて振りかざされる剣を、ヴィントはすんでのところでかわした。一度は転がるようにして、二度は横に、後ろに跳躍して。そのたびに、鋭く重い剣風が頬をなで、髪を乱した。頬に幾筋かの赤い線が走ったが、本人はそのことに気づいていなかった。


 ディオルグは止まらない。間断なく剣を突き込んでくる。舌打ちしたヴィントは、右手で魔力を集め、透明な剣を作り出す。それを握って、大きく薙いだ。振りかざされた剣を弾く。けたたましい金属音が鼓膜を揺さぶり、伝わった衝撃が手先から肘にかけて強烈な痺れをもたらす。それでもヴィントは動きを止めず、左手側で別の構成式を展開した。


 辛うじて相手の剣を二度ほど弾いたとき、ヴィントの左側から青白い炎が上がる。それは、まっすぐディオルグを狙って走った。彼が初めて、大きく目をみはる。一度飛びのいたディオルグは、足を大きく蹴り上げた。雪が舞い、青い炎に降りかかる。炎の勢いは衰えなかったが、ややして構成式がほどけ、徐々に魔力へ戻って霧散した。


 青白い残滓が極光のように揺らめく雪原。二人の男は再び静寂の中で対峙する。


 しばしの間、どちらもが無言だった。それどころか、身じろぎひとつしなかった。


 ただひたすら、隙を狙う。その命を取るために。その命を守るために。


 視界が薄く白に覆われる。ささやかだった風がその強さを増し、ごうごうとうなりを上げた。


 冷え切った沈黙、視界不良の中で、しかしヴィントは、ディオルグの目がわずかに動いたのを見逃さなかった。魔力を動かして彼をけん制しつつ、背後をうかがう。そして、驚きのあまり硬直した。同時にディオルグが瞠目したことを、彼は知らない。それよりも、半球状の防壁に釘付けになっていた。


 幼子が眠っているであろう防壁。そこに、いつの間にか人影が迫っていた。『彼女』は、風雪で髪と衣服が荒ぶることも気にせずに、すらりと腰の剣を抜く。男たちが気づいたときには、切っ先を防壁に向けていた。


 息をのんだのは、どちらだろう。先に走り出したのは、誰だったろう。


 何もわからない。すべてを雪と風がかき消した。確かなことは、ただひとつ。


「――リーシェル!」


『彼女』の名。それを呼ぶ声は、重なった。

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