第86話 それは真白き夢のような

 レクシオの熱は日没頃になって緩やかに下がりはじめた。この家の主人が医務室を訪れたのも、同じ頃である。


「おっ、意識が戻ったか! 先生から聞いてはいたが、いやあ、よかった」


 少年のような笑顔で言った男は、今は鎧姿ではなく、平服だ。青い上着に白いズボン、どちらも装飾のない簡素なものだが、仕立てがよいのは一目でわかった。


 ディオルグは、寝台の上のレクシオに目線を合わせ、気さくに、しかしいくらか穏やかに話しかけている。ヴィントの尖った視線には気づいていないのか、無視をしているのか。ともかく、意に介する様子がない。


 レクシオははじめこそぽかんとしていたが、彼がこの家の主だとわかると、瞳を輝かせた。


「親切な人!」

「お、おう?」

「おとうさんが言ってた! ここ、親切な人のおうちだって!」

「おお、そうか。いや、照れるねえ」


 笑声とともに、ディオルグの視線が部屋の隅のヴィントへ向く。見られた当人は、無言でそっぽを向いた。


「えっと、助けてくれて、ありがとうございます」

「どういたしまして。きちんと休んで、元気になってくれよ」

「うん!」


 大きくうなずいたレクシオの頭を、ディオルグは豪快になでる。明るく笑う二人の姿を、ヴィントは黙ったまま見つめていた。


 ――医務室を辞す直前、ディオルグはヴィントを呼んだ。彼について廊下へ出ると、ディオルグは少し前と変わらぬ人の好い笑みを浮かべた。


「いい子だな、あんたの息子」

「……それはどうも」

「このまま元気になるといいな、うん」


 一人でうんうんとうなずいてから、男は軽やかにヴィントを振り返る。


「で、だ。客室の準備が整ったらしい。今夜からヴィントはそこを使ってくれ。場所は教えるから」

「それが本題だったか」

「レクシオの様子見も本題だったぞ!」


 ディオルグの朗らかな声色は、一切揺らぐことがない。ヴィントは思わずため息をついたが、それすら気にされていないようだ。


「……世話になる」

「ああ」

「それと、なるべく早く出ていくようにする」


 ヴィントが不愛想に付け足すと、ディオルグはさも不思議そうに目を瞬いた。


「気にするなって。春までは滞在していけよ」

「は……?」


 きょとんとしたディオルグの言葉に、今度はヴィントの方こそがきょとんとした。

 ディオルグは背を向けて歩き出す。我に返ったヴィントは、とりあえずそれを追った。


「あんたらが訳ありなのはわかってるさ。けど、これから北部はどんどん厳しい気候になる。極寒に吹雪、夜になるのだって早い。そんな中、子連れで飛び出していくのは自殺行為だ」


 ヴィントは何も言わなかった。いや、何も言えなかった。

 最前と打って変わって厳しい声で語る騎士を、ただ見つめる。


「俺は事情を詮索するつもりも、二人を無理に引き留めるつもりもない。ただ、一度助けた人間が、死に向かって飛び出していくのは見過ごせない。だから、せめて気候が安定するまでは無茶しないでくれ。……俺とリーシェルからの、頼みだ」


 ディオルグが振り返る。その瞳は無風の夜のように静かだ。ヴィントはその目と、真正面から向き合う。


 もう、何もなくなったと思っていた。息子以外、何もかも失ったと。

 だから、息子さえ守れれば自分はどうなってもいい、と思っていたのは確かだ。


 それなのに――自分たちに向かって生きてくれと願う人が、また現れた。


 まだ『そちら』へ行くな、ということだろうか?


 心の中で妻の名を呼んでから、ヴィントは長く息を吐いた。そして、しぶしぶ首を縦に振る。


「……様子を見て決める」

「ああ、そうしてくれ!」


 ヴィントの答えを聞いて、ディオルグはわかりやすく相好を崩した。それから「さ、こっちだ!」と言って歩みを再開する。思いのほか速歩はやあしな男を、ヴィントは慌てて追うはめになった。



     ※



 それからしばらく、親子はイルフォード家に滞在した。


 レクシオの熱は二日ほどで完全に引いた。大事をとって静養させた日を含めても、回復までにかかった時間は一週間弱である。だが、その後すぐに出立することは叶わなかった。理由は単純で、降雪の量が増えたからだ。イルフォード家周辺がまっ白になるなどほぼ毎日のことで、ひどいと一日吹雪ということもあった。


 ディオルグの言ったとおりである。結局そのままずるずると留まり続け、ヴィントがふと気づいたときには、シュトラーゼに辿り着いてから半月が過ぎていた。


 幸いにも、と言うべきか不幸にも、と言うべきか。レクシオはイルフォード夫妻によく懐いていて、家の人々も彼らの存在を歓迎していたから、居心地は悪くなかった。最も、それがヴィントにとって一番の問題だったのだが。


 貴族らしからぬ貴族の家で過ごすうち、親子にちょっとした変化が生まれていた。

 ある朝。中庭の方から何やら甲高い音が聞こえてきた。ふとその音を拾ったヴィントは、何事かと眉をひそめつつ、音のする方へ向かう。


 そしてのぞいた中庭には、ディオルグとレクシオがいた。二人はなんと、剣を手に向かい合っている。刃が潰されている試合用の剣ではあったが、ヴィントは新鮮な驚きを覚えた。


 レクシオがディオルグに武術を習いはじめたことは、知っていた。本人が時折嬉しそうに話していたからだ。だが、現場を見るのはこれが初めてである。実際にその光景を目の当たりにすると、形容しがたい疼きが、胸中に起きた。


「おとうさん!」


 レクシオの弾んだ声が響き渡る。ヴィントの存在に気づいたらしい。父の複雑な心境を知るはずもない男児は、笑顔で駆け寄ってきた。その後について、ディオルグもやってくる。

 ヴィントはとりあえず息子に視線を合わせた。


「剣の練習か、レク」

「うん! おじさんに褒められたよ」

「そうか」


 ヴィントはレクシオの頭を軽くなでて、立ち上がる。視線は自然と、ディオルグの方に向いた。名高き北極星の騎士は、屈託のない笑顔でそれに応じる。


「お世辞抜きに、筋がいいぜ、レクシオは」

「……正直、意外だったな」

「まあ、そうだろうな」


 魔導の一族にとって、剣や銃は縁遠いものである。魔導術に優れているから、というのもあるが、研究者気質の者が多いから、というのが一番の理由だ。その気質と技術ゆえに戦闘職を選ぶ者が少ないのである。ヴィントもミリアムも自衛くらいは可能だったが、積極的に剣を持つ気はなかった。もちろん、それを息子に教えるという発想もなかった。


 だからといって、レクシオが剣や武術を学ぶことを否定する気もない。興味があるならやってみればいい、学んで悪いことはない――それが両親の考えだった。


「じっくり教えれば、きっと優秀な剣士になるぞ」


 妙に真剣な口調で呟いたディオルグが、ねだるようなまなざしをヴィントに向ける。


「なあ。春までと言わず、一、二年この子貸してくれないか?」

「……断る。そこまで長居はできん」


 冗談なのか本気なのかわからない言葉を、ヴィントはため息まじりに切り捨てた。「けちー」と返されたが、無視した。子どもか、などと突っ込んではいけない。突っ込んだらこの男は喜んで調子に乗る。


 かぶりを振ったヴィントの横で、ディオルグが惜しむようにレクシオの頭をなでる。レクシオは、そんな二人をかわるがわる見ていた。


 リーシェルが中庭にやってきたのはそんなときだった。赤子を抱いた彼女は、少年のような夫に苦笑を向ける。先のやり取りを遠くから聞いていたのだろう。


 やがてディオルグとレクシオが練習を再開したので、ヴィントは少し離れたところで見ていることにした。白い帽子をかぶった花壇の端、雪が払われているベンチに腰かける。自然と、隣にリーシェルが並んだ。ヴィントは何も言わない。どこかミリアムを思い起こさせるこの女性に対しては、彼も冷たく対応できなかった。


「レクシオくんを巻き込んでしまってすみません。あの人、最近退屈していたみたいで」

「いや……構わない。あいつも楽しそうだから」


 二人の方を見るようにしながらヴィントが答えると、リーシェルは「それならよかった」と笑う。


「普段は仕事の合間に長男や長女と手合わせをしているんですけどね。今は二人とも、帝都にいるので」


 独り言のようなその言葉に、ヴィントは黙って耳を傾けていた。


 この家に本来三人の子どもがいることは、すでにヴィントも聞いていた。うち二人は、春まで不在なのだということも。今、家にいるのは、隣の赤ん坊――リオンだけだ。

 それを知ったとき、ヴィントは、なぜディオルグが自分たち親子を放っておけなかったのか、わかった気がした。


 懐かしい声がする。リオンがぐずりはじめたらしい。不満そうな声を上げる赤子を、リーシェルは優しくあやしていた。


 穏やかな光景から目を逸らすように、ヴィントは空を仰ぐ。


 今日は雪が降らないのだろうか。

 薄い雲の間からのぞく青を見つめて、ぼんやりとそんなことを思った。

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