第62話 黄昏時の帰還

 ステラはその日、鉛と化した足を動かしながら帰途についていた。学院祭フェスティバルを間近に控えて忙しさはさらに増し、ステラもあちらこちらへ駆け回ることが増えていたのだ。今日は教室と理科実験室を三回ほど往復するはめになった。


 日々の授業と修練とで鍛えているとはいえ、多忙が続けば疲労は溜まる。ステラはここのところ、げっそりした顔で孤児院の門をくぐってばかりであり、今日もそうなりそうである。


 ひと気の少ない通りを抜け、孤児院へとたどり着く。鞄を持ち直して門を通り過ぎ、さらに扉を開くと、子どもたちの元気な声が彼女を出迎えた。


「あ! ステラ、おかえりー」

「ねーちゃんおかえりー!」


 ステラに気づいた子どもたちが一斉に押し寄せてくる。ステラは「ただいま」とほほ笑んで、一人ひとりの頭をなでたり、肩を叩いたりした。真っ先に駆け寄ってきた子が、きらきらと目を輝かせる。


「あのね、あのね、今日のご飯はオムレツだって!」

「オムレツかあ。よかったね」

「うん! あ、ステラ姉ちゃんは休んでていいよ、おれたちで作るから」


 その子が言うと、他の子たちも得意げに胸を張る。中には気合十分に腕まくりをする子もいた。彼らの唐突な発言に、ステラは目を丸くする。


「ええ? ど、どうしたの、突然」

「だって、ステラねえ、最近つかれてるだろ? 今日だって、かおいろ悪いし」


 子どもたちの群れの中にいたファレス少年が、顔を突き出してくる。ステラは思わずのけぞった。


「そうかなあ」

「そうだよ。それに――」


 ファレスがなにかを言いかけたところで、奥の方からステラを呼ぶ声がする。振り返ると、リーエンが階段を下りてきたところだった。


「おかえり! あのね、ミントおばさんが呼んでるよ。ステラが帰ったら二階に来てって伝えて、って言われてたの」

「ミントおばさんが?」


 院長のあだ名を口にして、ステラは首をかしげる。リーエンの声に反応した子どもたちがばらばらと道を開けはじめた。それを見て、ステラはますます頭を傾けたが、とりあえずは伝言に従うことにする。


 鞄を持ったまま、小走りで子どもたちの間を通り抜けた。そのまま、弾みをつけて階段を駆け上がる。ちょうど上りきったところで、何やら慌ただしく動き回っているミントおばさんを見つけた。


「ミントおばさん、ただいま」

「ステラ、お帰りなさい。ちょうどよかったわ」


 ミントおばさんは、彼女の声掛けに反応して、その方を見た。いつものようにほほ笑んでくれるが、その微笑はいつもよりもやや緊張しているように映る。


 そこで、ステラは気がついた。ミントおばさんが両手に手袋をし、さらに、何やら難しげな薬の名前が書かれた袋を持っていることに。


「なんかあったの? 誰か体調崩した?」

「そうとも言えるけど、ステラが予想しているような事態じゃないわよ」


 顔と声をかたくして問うたステラに、ミントおばさんはかぶりを振る。それから、なにげないふうを装って、ささやいた。


「レクシオが、帰ってきたの」

「――え?」


 ステラは、少しの沈黙の後、反問する。だが、彼女自身は、己の声がまったく聞こえていなかった。



 孤児院には、医務室が各階に一つずつある。そのうちの一つは今、いつになくものものしい雰囲気に包まれていた。いつもは救急箱と少しの薬くらいしか登場しないところに、点滴の針や大きな包帯、見たことのない瓶が並んでいる。そして、肝心のレクシオは、部屋の最奥の寝台に寝かせられていた。間違いなく、ステラの知る幼馴染だ。だが、最後に見たときより明らかに痩せた体躯といい、色の悪い肌といい、目を閉じて動かない貌といい、まるで別人のように見えてしまう。


 しばらくの間、呆然と彼の姿をながめたステラは、脚の力が抜けていくのを感じた。とっさに自分を支えきれず、その場に座り込む。


「……どうして」


 曖昧に過ぎるステラの問い。その意味を、隣にいる女性は正確に拾ったらしい。順を追って話してくれた。


「今朝、憲兵隊本部の方から連絡があったの。この子を迎えにきてくれって。私はレクシオの身元保証人になっているから、それで連絡が来たのね」

「ってことは、憲兵隊はレクを拘束したことを認めた、ってこと?」

「あまり詳しいことは聞けなかったけど、憲兵隊が不正をした疑いがあって、今朝その調査があったらしいのよ。レクシオはそこで保護されたのね。それで、私に連絡をくれた人が、調査を担当した少佐さんだったわ」


 レクシオの様子を見、きんを水の入った容器に広げ、取り出して絞る。その作業の手を止めないまま、ミントおばさんは話した。内容を聞いたステラの脳裏に、先日出会った青年の姿がよぎる。名前すら聞けなかった彼が――本当に、動いたというのだろうか。


「明日、学生たちに向けた声明も出すそうよ。ステラに伝えてくれって言われたけど……なにかしていたの?」

「まあ、ちょっとね」


 ステラは、この上なく歯切れの悪い答えを返した。作戦の詳細は、ミントおばさんには伝えていなかったのだ。幸い彼女は、深く追及する気はないらしい。そう、とだけ答えて、忙しなく手を動かす。


 耳が痛くなるような静寂。そしてミントおばさん一人だけが動き回っている。異様な空気の中に身を置いているうちに、ステラはだんだんいたたまれなくなってきた。なにか手伝うことはないか、と訊こうとしたが、その言葉はほかならぬミントおばさんによって打ち消された。


「ステラ。あなた、今日は休んでいなさいな」

「え? でも……」


 目を白黒させる少女に向かって、院長の女性はほほ笑んだ。ふくよかな顔が、太陽に照らされたかのように明るくなる。たとえ、多少取り繕っていたとしても、それはいつもの「ミントおばさん」の姿だった。


「疲れてるでしょう? それに、ここ数日ずっと気を張ってたでしょうし。今日くらいは力を抜いて過ごしなさい」


 ぎくり、とステラは肩をこわばらせた。ここ数日、夜中に目が覚めていたことを見透かされていたらしい。そういえば、子どもたちにも同じことを言われたばかりだ。


「わかった。ありがとう」


 しかたなくそう返すと、ミントおばさんはうなずいた。


「院のことは他のみんなでやるから、心配しなくていいわよ。たまには小さい子たちに任せてみることも必要でしょう」


 歌うように言う女性を見て、ステラは肩を揺らして笑った。ただし、漏れ出る声は少し乾いて響く。


 レクシオは相変わらず、部屋の奥で沈黙していた。



 医務室を辞したステラは、階下で響く悲鳴や笑い声を聞き流しつつ、自分の部屋へ戻った。


 部屋の内装は、彼女が入った頃からほとんど変わっていない。さすがに窓辺の寝台や書棚は少し大きくなったが、そのくらいだ。書棚が大きくなったと言っても、ジャックの実家の私室のように天井まで伸びたわけでも、壁じゅうを支配したわけでもない。あとは剣を立て掛けるところと最低限の調度品があるだけだ。「女の子の部屋とは思えんわ」とナタリーにあきれられたことがある。当時は首をひねっていたが、今こうして見ていると、確かに殺風景かもしれない。気を紛らわすものが何もないというのは、考えものだった。


 ステラは扉を後ろ手に閉めると、そのままずるずるとへたり込んだ。鞄をしまうくらいのことはしなければ、と思うが、体が思うように動かなかった。


 床に手をつく。大きく息を吐きだす。肺の中の空気と一緒に、抑え込んでいた思いがどっとあふれ出してきた。


――レクが帰ってきた。作戦は成功した、とまでは言えなくても、一定の効果をもたらした。そのことはじんわりとした歓喜をもたらす。だが、同時に、先ほどの彼の姿を思い出すと心が冷えた。


 顔色が悪かった。体が少し細くなっていたし、怪我もしていた。ミオンが教えてくれたとおり、軍部の大人たちは彼を殺すつもりだったのかもしれない。もっと早くステラたちが動いていれば、レクシオはあんなふうにならずに済んだのだろうか。


 わからない。自分たちは上手くやったのか、それともなにか間違ったのか。


 彼はきっと、ステラたちには動いてほしくなかったのだろう。本当にルーウェン解体を逃れた魔導の一族なら、軍部の恐ろしい部分はステラ以上に知っている。だからこそ、トニーを止めて、自分は大人しく檻に入った。その気持ちを無視したことは――本当に正解だったのだろうか。


 思考がめちゃくちゃに絡まりあう。頭がひどく痛い。にらみつけた世界が、奇妙に歪んでいることに気づく。だからといって、何ができるわけでもなかった。


 熱っぽい目もとから、雫が一粒こぼれ落ちる。二粒、三粒、立て続けに次々と。それは床板を濡らし、手の甲で跳ねた。それを拭い去る気にもなれないから、ステラは心が動くままに任せた。


 嗚咽を漏らし、うずくまる。同時に、ステラの冷静な部分は、ふと疑問を抱いていた。


 この熱は――この雫は、いったいどの感情からきているのだろうか、と。



     ※



 懐かしい声がした。


 その音を追いかけた先で、レクシオは目を開く。


 視界に広がったのは、夜の闇。しかし、ここ数日見ていた冷たい天井でないことだけは、なぜかわかった。


 魂だけがふわふわと漂っているような感覚が、じょじょに薄れていく。代わりに、肉体の重みがのしかかってきた。痛みが走る。その主張があまりにも激しくて、どこが痛みの根源なのかわからなかった。全身だるくて、手足のひとつ、指一本も動かせない。


 うめき声が漏れる。なんとか頭を回したとき、誰かと目が合った。警戒が高まりかけて、すとんと落ちる。そこにいたのが彼の知る人物だったからだ。


「レクシオ、気がついたのね」


 優しげな顔が、ふっとほころぶ。行燈ランタンに照らされたそれを見て、レクシオもふっと力を抜いた。


「……せんせい」


 口をついて出たのは、古い呼び名だった。彼がこの女性と出会ったばかりの頃に使っていたのと、同じ。それを聞いて、彼女はどう思ったのだろう。目を細める姿からは、その答えは読み取れなかった。


 彼女はあいた方の手を伸ばす。ぼさぼさの黒髪を避けた後、少年の額を優しくなでてきた。


「ごめんね。肝心なときに、守ってあげられなくて」


 語り掛けてくる声が、少し揺れている気がする。だから、レクシオは目を細めて「いや」と返した。


「せんせいは悪くないですよ。だって、俺のこと、誰にも言わなかったじゃないですか――ずっと」


 それは、今や二人しか知る者のない、古い記憶だ。褪せてひび割れた思い出をなぞりながら、レクシオは少し歳をとった女性を見つめる。曖昧にうなずいた彼女は、笑っていただろうか。それとも、泣いていただろうか。レクシオにはわからない。ただ、自分に語り掛けてくる、たんぽぽの花びらみたいな音だけが、聞こえた。


「もう、大丈夫よ。今度こそ、大丈夫。怖いことは、何もないからね」


 あの日かけられたそれとよく似た言葉はだが、あの日とは違う色合いをまとって響く。


 それを漫然と聞きながら――額をなでる指の感触に身をゆだね、レクシオはそっと目を閉じた。

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