第一章 転入生の秘密

第44話『翼』の意志

 緋の月ヴェルミエル十六日――幽霊森での調査から、ちょうど一週間後の朝に、ステラは帝都の教会を訪れた。みやこの片隅、忘れられたように建つ教会には今日も優しい陽の光が降り注いでいる。


 両開きの扉の前に立った少女は、胸を張って深呼吸をした。それから、真剣な表情でひとつうなずく。まるで好きな男の子に告白でもするかのように。そして、重い扉に手をかけた。


 彼女が手に少し力を込めると、扉は鈍い音を立てて開いた。長椅子の並んだ内部に人の気配はほとんどなく、薄闇の中に淡い光の筋だけがきらめいている。


 がらんとしたその場所に、ステラは頭を突き出した。


「こんにちは」


 声を張って、呼びかける。――返事はない。

 軽く首をかしげてから、少女はもう一度声を上げた。


「エドワーズさん、いらっしゃいますか?」


 すると、わずかな間の後に足音が聞こえてきた。この静寂の中でないと聞き逃してしまいそうな音だ。それとともに、人影も現れて、優しく扉を開いてくれる。


「ステラさん! すみません、お客様と少し話をしていたもので」


 日の光の下に出てきた神父は、優しげな顔に色濃い焦りをにじませた。対するステラも、慌てて弾むように頭を下げる。


「あ、いえ、こちらこそ急に来てすみません」

「どうぞ、お入りください」


 エドワーズ神父は、ふわりと笑って扉の方に寄った。ステラは目を瞬いて、彼を見上げる。


「え……? でも、お客様がいらっしゃってるんですよね」

「大丈夫ですよ。ちょうど話が一段落ついたところだったので」


 神父の笑顔はやわらかいままだ。過剰に気遣っているというふうでもない。ステラはそれじゃあ、と頭を下げて教会にお邪魔した。『翼』に絡む話なので、また神父の私室を使わせてもらうことになった。反響する靴音を聞きながらエドワーズについて歩いていたステラは、薄暗い廊下でもう一人分の人影を見出して、目を瞬く。


「慌ただしくて申し訳ありません。次のお客様がいらっしゃったので」

「い、いえ。こちらこそ、長居してすみません。今日はありがとうございました」


 エドワーズが人影に向かってお辞儀をする。そして返った言葉を聞き、ステラはまたしても目を瞬いた。どこかで聞いたような声と言動だ。彼女は神父の長身の後ろから顔をのぞかせ、薄闇の中で目をこらす。


 自分より先に来ていた「お客様」は、ステラと同じくらいの背丈だった。ラフェイリアス教の紋章があしらわれた空色の長衣ローブを身にまとっている。ふわふわの茶髪と、細い体と、ちょっと頼りなさそうな顔。その姿は、やはり彼女の記憶を刺激した。


「えっ……カーターさん?」

「え――」


 素っ頓狂な声が二つ、教会の廊下でぶつかり合う。むこうもステラの顔に気づいたらしく、面白いほどに目を見開いた。


「い、イルフォードさん!」

「なんだ、お客様ってあなたのことだったんだ」


 仰天している少年――カーター・ソフィーリヤにステラは笑顔で手を振る。二人の奇妙なやり取りを、心優しい神父が目を白黒させて見ていた。



「変わった格好してるね。いや、似合ってるけど」

「ああ……これは、ラフェイリアス教の神官の正装です」

「しんかん」

「信徒の中である一定の魔導術が使える人は、神官と呼ばれるんです」


 照れくさそうな少年の解説に、ステラは何度もうなずいた。頭の中に神官の二文字を書き込んでおく。今後お世話になる可能性が高いのだから覚えておかなければ、と念じた。


 二人がいるのは、神父の部屋だ。二人が知り合いだとわかると、エドワーズは彼らを揃って部屋に招いた。飲み物を用意すると言って一度退室した彼が、少し嬉しそうだった気がして、ステラは首をかしげた。


 少しして、当のエドワーズ神父が戻ってくる。彼は人数分の玉杯を載せたトレイを両手で持っていた。トレイを寝台横の小机に置くと、ステラとカーターにそれぞれ玉杯を渡してくれる。二人が礼を言って受け取ったそれには、透き通った色の茶が入っていた。


 自分のぶんのお茶を両手で持ったエドワーズに、ステラはおずおずと話しかける。


「エドワーズさんがカーターさんと知り合いだとは思いませんでした」

「私もです。でも、不思議なことではありませんね。カーターくんもクレメンツ帝国学院の学生なのですから」


 玉杯を揺らして、神父はほほ笑む。


「彼のお父君に、すごくお世話になっているんですよ。カーターくんとも以前から何度かお会いしたことがあって」


 ステラは軽く首をかしげる。隣にいる少年の父親も神父なのだろうか。降ってわいた疑問に答えるように、カーターは口を開いた。


「父はセント・ソロネ大聖堂でお勤めをしている神官なんです。その……ラフェイリアス教ではかなり上の方の人で……」

「セント・ソロネ大聖堂って、確かラフェイリアス教の総本山っていう……」


 ステラは頬を引きつらせる。まさかそんな偉い人の息子と知り合って、あまつさえ助けられたとは思わなかった。外堀を着々と埋められているような気配がする――誰に、というわけでもないのだが。


 ステラの表情をどうとらえたのか、カーターが少し顔を歪めてうつむいた。しまった、と思ったところで、神父の穏やかな声が響く。


「それで――ステラさんのご用件は、『翼』に関わるご相談ですか」

「あっ。そ、そうなんです。でも……」


 肩を落としている少年の方をちらりと見る。エドワーズはうなずいた。


「さっきカーターくんとも話をしていたので、おおよその事情は把握しています。課外活動中に、神々に関わる事件があったとか」

「はい」


 少年が弾かれたように顔を上げた。その横で、ステラはなるべく淡々と神父に幽霊森でのことを語った。自分が使った銀の魔力のことと、『セルフィラ神族しんぞく』を名乗った二人の男のこと、そしてオスカーから提示された『条件』のことを。神々の話を聞くと、エドワーズは難しい顔になった。ものやわらかな雰囲気が薄まり、緊張の色すら見て取れる。


「ラフィア様にそむいた神々、ですか」

「本当なんでしょうか」

「なんとも言えません。ただ、我々に伝わっている神話の中で、セルフィラ神についた神族がある程度いると言われているのは確かです。そのあたりについては、私も調べてみますね」


 エドワーズは神妙な面持ちでうなずいた。ステラは肩を寄せて縮こまる。教会のいち神父にとんでもない話をしてしまったことに少なからぬ罪悪感を覚えた。その気持ちが消えぬうちから、彼女はもごもごともう一つの話を切り出す。


「それで、その……森で一緒になった四人に『翼』のことを話す件なんですけど……あ、すでに一人は知っちゃってるわけですが」


 目を見開いた神父が、呆然としている少年の方を見ていることに気づき、ステラは居心地悪く目を細めた。


「やっぱり、だめですよね……」


 カーターがいる前で話をしているのは、彼が神官であり聖職者の息子だからだろう。今は知らずともいずれ隠された神話を知る立場の者。ゆえに同席を許しているのだ。『ミステール研究部』の他の三人は、聖職者の家系でもなんでもない。これまでの決まり事にのっとれば、彼らには『翼』のことは伏せておくべき、のはずだ。


 考え込むようにしてお茶を一口飲んだ神父は、かすかにうなるような声を上げる。


「そうですね。本来であれば、学校での活動のためにこの神話の情報を利用するのは好ましくありません」

「ですよね……」


 ステラはがっくりとうなだれる。ただ、エドワーズ神父の言葉はそれで終わりではなかった。


「しかし、ステラさんがそれも良しと仰るのであれば、我々はなにも言えませんね」


 エドワーズの声音はいつも通り穏やかで、口調もさりげなかった。だからステラは、彼の口にした内容をすぐにはのみこめなかった。言葉が何度か頭の中で反響するうち、その相貌はじわじわと驚きに染まっていく。ステラは思わずカーターと顔を見合わせた。それから、二人揃って笑顔の神父を凝視する。


「え、いいんですか?」

「それが『銀の翼』のご意志ということになりますから」


 答えた後、エドワーズは付け足した。「『翼』は女神の代理人です。最高位の聖職者も同然ですよ」と。すまし顔の神父を見返し、ステラはまた頬を引きつらせる。『銀の選定』の夜、彼にひざまずかれたことを思い出した。幽霊森の事件があってそのことが頭から吹き飛んでいたものの、今後『翼』という立場からは逃れられないのだ。その実態を突きつけられて苦々しく思うと同時に、覚悟を決めねばならない、と張り詰めたような気持ちにもなる。


 そんな思いが表面に出ていたのだろうか。カーターが息をのみ、エドワーズは目もとをよりやわらげた。最初に会ったときと同じような口調でステラに語りかけてくる。


「そのお三方がステラさんにとってどういう存在になっていくか、心の底から信頼できるかどうか。しっかり考えて、見極めて、その上で打ち明けていいと思えるのなら――後は、ステラさんの思うままになさっていいと思います。私はステラさんの選択を支持しますから」


 目を見開いた少女は、神父の顔を凝視する。彼の陽だまりのような笑顔が揺らがないのを確かめて、彼女は強くうなずいた。


「ありがとうございます、エドワーズさん」


 ささやくように感謝を述べると、神父は恭しくお辞儀をする。その姿すら、ステラにとっては安堵をもたらすものだった。



 話を終えて教会を辞したステラは、後ろから少年が申し訳なさそうについてきているのに気づいて苦笑した。カーターは確か寮生だ。ステラは孤児院に帰るわけだが、途中まではどうしても方向が一緒になる。別に彼女はなんとも思わないのだが、少年はそういうところを気にするたちなのかもしれない。もしくは、先ほどの話について考えているのだろうか。


 少しうつむいている少年から目をそらして歩き出す。教会のまわりは今日も静かだ。人と生き物の気配はあるが、それは草木の陰に潜む獣の息遣いに似て決して表には出てこない。そのおかげか、風に乗って漂ってくる大通りの音が、帰路を彩る旋律のように響いている。足音が、その切れ間を縫っていた。


「――昔は、子どもに聞かせるおとぎ話のたぐいだと思っていたんです」


 ふいに、優しい少年の声がする。ステラは足を止めて振り返った。カーターが、困った風に両手の指を絡めて握りしめている。


「今でも正直、心の底から信じているわけじゃなくて……でも、『女神の翼』は実在したんですね」

「知ってたんだ」

「おそらく、エドワーズ神父ほどには詳しくないです。まだ、断片的にしか教えてもらえないと思うので」


 カーターはうかがうようにステラの方を見ていた。さて、神官の卵にどういう言葉を返すべきか。しばし頭をひねってから、少女はしかつめらしく言い放った。


「変に敬語使ったり、恭しくしたりしなくていいからね。あたし自身、まだ結構戸惑ってるんだから」


 カーターは虚を突かれたようにまばたきする。それから、鼻の頭を少しこすった。苦笑の気配が伝わってくる。


「そうなんですか。……まあ、そうですよね。女神の代理人なんて立場をあっさりと受け入れられる人は、ちょっとどうかしてます」

「未来の司祭様にそう言ってもらえると、安心するね」


 ステラがおどけると、カーターは軽く声を立てて笑った。


 それから、また二人で歩き出す。オスカーたちに話すのか話さないのか、と彼は尋ねてこなかった。ステラにとってそれは不思議であり、ありがたくもあった。


「そういえば。あたしのことは、名前で呼んでくれてもいいからね。多分、これから顔を合わせる機会も増えるだろうし、仰々しいのは無しにしましょう」

「えっ……あ、いいんですか。じゃあ、僕のことも呼びやすいように……」

「うーん、じゃあ、カーターでいい?」


 穏やかな日差しが降り注ぐ、休日のお昼過ぎ。学生二人のゆるい会話は、路地の静寂にまろやかに溶けていった。

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