第26話 ある侯爵令嬢の事情

 ステラの実家、イルフォード家は帝国が王国だった頃から存在する貴族の名家だ。北の国境まわりの守りを任せられており、一代に一人は騎士や軍人を輩出してきている。家の性質上、貴族らしいきらびやかな生活とは縁が薄いのだが、ステラの父の功績により二十年前に侯爵家となり、その名声は高まる一方だった。


 だが、崩壊は突然訪れる。今からおよそ十二年前。イルフォード家のみならず、帝国全体を震撼させる出来事が起きた。

 当主夫妻――ステラの両親が亡くなったのだ。


「その話なら、お母さんから聞いたことがある。確か――」


 ナタリーが言いかけて、しかし口ごもった。その理由を理解できるステラは、笑みをつくって鞄を持ち直す。心を固定するための一呼吸。そののち、続きを引き取った。


「殺されたの。犯人の詳細はわかってないけど、父が家に招き入れた旅人だったらしいわ」


 両親の顔と声は、今となってはおぼろげにしか思い出せない。しかし、その人となりは不思議と強烈に覚えていた。父はいつも明るくて、困っている人や弱っている動物を見るとすぐに助けようとする人だった。おそらくその旅人にも、いつもの調子で手を差し伸べたのだろう。


「なんだよ、それ。ひどい話だな。恩をあだで返したってことだろう」

「何があったのか詳しく知らないから、なんとも言えないわ。あたしはそのとき、兄と一緒に帝都へ出ていたから」


 憤然とするトニーを見て、ステラは苦笑した。だから、その前でレクシオが少し目を伏せたことに気づかなかった。


 三人ほどの女子生徒が話しながら歩いてくる。五人は、少しばらけて立ち止まった。彼女たちは五人に気づくと「あ、さようなら!」と無邪気に手を振って駆けていく。それに手を振り返してから、五人はまた固まって歩き出した。


「事件の後には当然、後継者をどうするかということが問題になった。とりあえずは隠居していた祖父が代理として立ったけど、いつまでもその体制を続けているわけにもいかないからね。後継者候補として、あたしと兄に注目が集まるようになったわ。弟もいたけれど、そのときはまだほんの赤ん坊だったから、候補とはみなされなかった」


 順当にいけば、兄が次の当主となることは確実だ。ステラにしても、そのときはまだ四、五歳かそこらだったのである。候補とするには幼すぎるのではないか、という声も上がっていたらしい。それでもステラが跡継ぎ候補とみなされたのはなぜかというと――当の兄が、ステラを推したからであった。


 あえて妹を推挙した理由を兄は誰にも語らなかったらしい。ステラ本人が舌足らずな言葉で尋ねても、笑ってごまかしただけだった。


「その日を境に、あたしと兄の環境は一変した。もともと厳しかった稽古がさらに厳しくなったし、何をしていてもお互い比べられるようになった。その頃のあたしには、それが本当にしんどくてね。だんだんふさぎ込んで、人を避けるようになって、あるとき――ああ、もう無理だ、ってなった」


 何がきっかけで張り詰めた糸が切れたのかはわからない。ただ、甘えられる人が一人もいない状況下で、大人以上に大人扱いされて覚悟を求められることに、彼女は耐えられなかった。それだけの話だ。


「だから家を飛び出したのか。……もしかして、それで帝都まで行ったのかい」


 話を受け止めて投げ返すジャックの声に、小さくない驚きが含まれている。ステラは「そう。自分でもびっくりした」と笑った。


「お金だけはあったからねえ。あと、行き方を知っているのが帝都だけだったから。列車とやっすい乗合馬車を乗り継いで、帝都に着いた。だけど、着いた頃にはそのお金も底をついてた。稼いだわけでもないから、当然よね。お腹は減ったし、疲れたし、足は汚れてぐちゃぐちゃだし、もうやだーってなってたところで、ミントおばさんに声をかけられたの」


 その後、彼女の孤児院で事のあらましを話した。当然すぐに身元と所在がばれて、家から連絡が来る。ステラはそこで、「絶対家に帰りたくない」とかたくなに言ったのだった。


「今思えば、なんであんなに頑固だったんだろう、って感じなんだけど。そのときは、ただただ家に帰りたくなかったんだよね。多分、兄も祖父もかなり参ったと思うけど――何日かしたところで兄から連絡が来たの。兄はあたしにひとつ条件を出してきた」


 その条件こそが、「家に帰りたくないならクレメンツ帝国学院に入れ」というものだったのだ。とにかく家に帰りたくなかったステラは、死に物狂いで勉強をし、初等部の試験にぎりぎりで合格して、入学したのだった。


「そういうわけだから……跡継ぎ候補の務めを放棄した、って言われると言い返せないんだよねえ」


 ステラが頬をかくと、空気がわずかに弛緩しかんする。


 トニーが一度かぶった帽子を外して、手もとでくるくると回した。


「でもさ。しょうがないっていうか……そんな頃から、覚悟だの責任だの言われても、どうしようもなくね? まだ四歳とか五歳とかだろ?」

「上流階級だと、小さい頃からそれらしい振る舞いを求められるものだからね。難しいものだよ」


 ジャックの口から出た言葉は、彼自身が上流階級出身者であるがゆえのものだろう。それをなんとなしに聞きながら、ステラはシンシアのことを思った。あの少女も、「難しい」世界の中でもがいている一人なのだろうか。貴族の社交場や学院で、ステラとイルフォード家の噂を耳にしたとき、彼女はどう思ったのだろう。


 昼間に向けられた鋭い視線が、今頃になって少女の胸に突き刺さる。


 避けられない痛みを受けて、それでも彼女はほほ笑んだ。


「訂正する機会があるといいけどなあ……真っ赤な嘘の部分は、特に」


 この場にいる誰にも聞こえないような声で、ステラはそっと呟く。四人の中で一人だけ、レクシオが彼女を一瞥して、笑みをひらめかせた。



     ※



 うっそうと木々が茂る森の奥。空はまだ青く、間違いなく昼間であるとわかるのに、そこは異様な暗がりに沈んでいた。木々の狭間、湿った土を踏みしめて、男が一人立っている。


 彼もまた、奇妙ないでたちだ。身じろぐだけで木々をなぎ倒してしまいそうな巨体を、真っ黒い布で覆っている。草木や土がついたとしても、払おうとするそぶりは見せない。それどころか、微動だにせずそこに佇み続けた。


 それから、どのくらい時が経っただろう。空の青が黄金色の光に侵食されはじめた頃、静寂の森にカラスの鳴き声が響いた。濡れ色の使いは、木々を器用にすり抜けながら男のもとに到達し、そのたくましすぎる肩で羽を畳む。


 カラスの両目が、薄暮はくぼの中で鈍い金色に輝いた。


『ヌン』


 低い声が波紋のように響き渡る。男は初めて体を動かした。のっそりと首を回してカラスを見る。


『干渉は、できたか?』


 カラスから響く声に、男は獣のようなうなり声で応じた。同時、森のそこかしこから声が聞こえて、薄く広がる。


 くすくす、くすくす。


 笑うそれは、無邪気な子どものようであり、怨念をこめたささやきのようでもあった。


 カラスを通して彼を見ている者は、それで男の言いたいことを理解したらしい。『よし』と言うと同時、カラスがくちばしで羽を整えはじめる。


『その調子で続けておいてくれ。あとで私も合流する』


 男は――ヌンは再びうなった。それを聞き届けると、カラスは大きく羽ばたく。そのまま空へと去っていった。


 男はまた、沈黙の中に佇む。


 その背後で、暗く無垢な笑い声が響き続け、それはいつまで経っても消えなかった。

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