ラフィアの翼

蒼井七海

Ⅰ 神話の再開

序章 運命の年の晩夏から

第1話 夏の終わり

 ――心明るく、勇敢な者たちに、我が翼の力を授ける。

 我の耳目じもく、手足となること。汝らの役目はそれのみである。

 干渉はせぬ。強制もせぬ。心向くまま世を見るがよい。



 月のない夜だった。それでも空は晴れ渡り、星ぼしは眠る月に代わって茫洋と地上を照らし出す。


 口笛の響きが空を揺らす。紺碧の夜に陽気な旋律は不釣り合いだ。鉄錆の臭いが立ち込める地上には、なおのことそぐわぬ旋律である。それでも、その場でただ一人命ある者は、口笛をやめなかった。


 尖った靴の先が、赤い水たまりを踏んで飛沫しぶきを立てる。旋律に合わせた足取りは軽やかだ。石造りの床と壁が血まみれでなければ、楽しげなこの者の様子は、ほほ笑ましくも見えただろう。


 その者は、立ち止まった。足もとには、大きなものが横たわっている。ほんの数分前まで、神に祈りを捧げる者であった、人間の男の体。見開かれた目に光はなく、腹の穴からこぼれ落ちていた血すらもはや尽きて、その名残が赤黒くこびりつくばかりだ。ただ一人、男を見おろした者は、フードの下で唇を歪めた。


「神への祈りか。不愉快だね。祈られたところで、神は君たちを助けはしないのに、なんという無駄なことを」


 男は反論するどころか、声を聞くことすらできない。それを承知の上で、その者は、男に嘲笑を浴びせかけた。


「でもまあ、こうして君を殺すのは楽しかった。ありがとうね、神父様。……だけど、肝心の情報はなかった。もう少し人の多いところに行かないとだめか」


 その者は、誰に向けて言うでもなく呟いて、きびすを返す。


「あいつら、面倒くさいからな。怒られる前に次行こう、次」


 血に彩られた夜に不似合いな声。それは、ただ彼のためだけに天へ響き、そして消えた。



 汝らはいつか、敵対者と相対すことになるだろう。

 そのときは、選択せよ。そして、汝らだけの武器をとれ。

 汝らに心ある限り、我は加護を授けよう。


 神代かみよの終焉が訪れる、その日まで。



     ※



 金属と靴の音が、木々の狭間を駆け抜ける。あちらこちらで鉄のぶつかる高音が響く中、少年少女は全身を汗で濡らし、熱のこもった空気を発散しながら走り続けた。燦々さんさんと輝く太陽の光と肌を焼くほどの獰猛な熱は草葉の天蓋てんがいで多少さえぎられるが、緊迫した空気の中で体を動かし続ければ、暑いことには変わりない。


 森を行く数多の少年少女の集団。そのうちの、ひとつ。男子二人、女子二人という、ほかと変わらない取り合わせの一団は、黒髪の少年の号令で足を止めて、木陰に身を隠した。直後、木々の狭間に小さく赤い光が灯る。やや遅れて突風が吹きつけた。乾いた爆音が四人の耳朶じだを震わせる。


 先ほど号令をした少年の隣で、木の幹に背を預けている少女は、暴れる栗毛を押さえつけながら彼を見上げた。


「ちょ……今の何!?」

「銃。多分、帝国軍の制式銃と同じ型の」

「え、これってそんなもの持ち出していいわけ? 制式銃だって、導入されてからそんなに経ってないでしょ」

「入ってるのは実弾じゃないから、いいんだよ」


 目を丸くする少女に、少年は不敵に笑いかける。それから、別のところへ目配せした。男子の二人目、明るい茶髪に蒼い瞳の少年が、いたずら小僧のように笑いながら金属の塊を担いでいる。それが何かを察した少女は、すでに大きく開いていた目をさらにみはった。


「こっちだって持ってるしー」


 意気揚々と肩の銃を持ちなおして、照準器に目を近づける茶髪の少年。それを見た少女は、頭を抱え「いつの間に……」とうめいた。その間にも少年は、楽しそうに照準を合わせている。木立の先に銃口を向けて、鼻を鳴らした。


「使ってくるってことは、使われる覚悟も当然できてる、ってことだよな」


 さすがに、黒髪の少年が呆れたように目を細める。だが、彼はすぐ少女を見た。


「ステラ」


 名を呼ばれた少女は、一気に表情を引き締める。少年は、立てた親指でもう一人をぞんざいに指さした。


「あれに入ってるのは、発煙弾だ」

「……ほお。あの子が好きそうね」


 ステラがあの子と呼ぶのは、ここにいない最後の一人のことである。


「ああ、嬉しそうに作ってた。まあそれはいいとして、つまりだ。あいつが引き金を引いたら、煙が出る。おまえ、その煙にまぎれて突撃かませ」


 あんまりな無茶ぶりに、ステラは息をのんだ。しかし、幼さの残る口もとに浮かんだのは、大胆不敵な笑みである。彼女は細い手を腰に伸ばし、そこにある金属の冷たさに触れる。


「了解、任された」

「ああ。いつもながら頼もしいもんだ」

「あたしには機械のことはわからないからね、せいぜい得意分野で頑張るとしますよ」


 ステラは軽口を叩きながらも、いつでも抜剣できるように身構えた。指の動きだけで送った短い合図を受けて、茶髪の少年が引き金に手をかける。


 両足に力をこめた。引き金が、引かれた。


 風船から空気が抜けるような細い音。それとともに、丸い何かが飛んでいき、茂みの中に落ちる。間の抜けた破裂音を響かせて、色つきの煙が吹き出した。少年少女の悲鳴が聞こえる。


 その悲鳴を耳に入れるより前に、ステラは駆けだしていた。木の根を飛び越え、草葉をまたぎ、煙の中で剣を抜く。風に流され薄くなった煙のむこうに、少年がいた。あまり話したことはないが、見覚えのある彼は、敵襲を警戒してはいたらしい。しかし、彼が『敵』の存在に気づくより、ステラが飛びこむ方が早かった。彼は、剣の光と少女の顔を認めると、顔を引きつらせて叫んだ。


「やべえ! イルフォードが来た!」


 言葉が終わると同時、剣が高い音を立ててぶつかり合う。華奢な少女と頑健な少年の力は拮抗きっこうしている。その事実が、ほかの子らの動揺を誘った。剣が震えるつばぜり合いの中、汗だくの顔で『敵』の少年がステラをにらむ。


「くっそ、かち合ったの、おまえらの班かよ! どうせならレクシオんとこ行けよ!」

「え、やだ。それつまんない。いっつも手合わせしてるもん」

「だああ! 仲良しだな優等生ども!」


 刃が高らかに鳴り、離れる。その頃にはすでに、ステラ以外の三人も飛び出してきていて、周囲は小さな戦場になっていた。


 狼のごとく駆ける黒髪の少年に向かって、『敵』の班員が矢を放つ。銃器は貴重だ。そう何丁も持てるものではない。風切り音とともに先のつぶれた矢が飛来し、それはステラさえも狙った。


 けれど、矢は落ちるべきところに落ちる前に、ぱんっ、と高い音を立てて弾け飛んだ。正確には、空気のかたまりに弾き飛ばされた。


「ふっふーん、甘い甘い!」


 元気のいい声が降ってくる。木々に隠れた崖の上から、丸顔の少女が器用に身を乗り出していた。眉毛のあたりで切りそろえられた金髪とその下の碧眼が、陽光を受けてわずかにきらめく。黒髪の少年が、彼女を一瞬見上げ、不敵に笑った。


「助かる、ケイリー!」

「あたしが使える術なんてせいぜいこの程度だけどさ、役に立つんなら結構。さあ、デイヴィもステラも行った行った!」


 ケイリーは、崖の上で指揮者のように手を振った。途端、白く変じた空気のかたまりが、森の中に降り注ぐ。ステラに相対していた少年が、眉をつり上げた。


「魔導術とか、反則じゃねえ!?」

「いいんじゃない? あの程度なら」


 言い終える前に、ステラは一歩踏み込んで少年に斬りかかる。彼は寸前で後ろに跳ぶと、斬撃がくうを切ったところを狙って、突きを繰り出した。ステラはとっさに身をひねり、剣を斜めに構えて一撃を受けとめる。


「だいたい、実戦では魔導士と組むことだって、魔導士と戦うことだってあるんだから。いつでも自分の舞台で戦えるって思っちゃだめでしょ」


 ステラの冷たい声は、刃鳴りの間を縫って、相手の少年に届いたようだった。彼が歯ぎしりをしたそのとき――遠くから、甲高い笛の音が響く。


 戦場が静まり返った。少年が舌打ちして剣を引くと、ステラも静かに得物を収めた。


「あ、演習終わりだー」


 ケイリーが器用に崖を滑り下りてくる。着地と同時に、黒髪の少年ことデイヴィッドが、彼女の髪にくっついたままの葉っぱを取った。


「さて、戻るか。戻りながら今回の作戦の評価だな。アーネスト、撤収準備」

「うっす!」


 茶髪の少年が、答えるなり凄まじい速さで銃と弾を片付けはじめる。ステラがふと後ろに視線をやると、相手の班も素早く撤収準備に取り掛かっていた。――さすがに、高等部ともなるとみんな手慣れている。


 自分もいつでも動けるように、と武器を確かめていたステラのもとに、デイヴィッドがやってきた。


「窮屈な思いさせて悪かったな。おまえなら、エルデと動いた方がやりやすいだろうに」

「何言ってるの」


 ステラは、歯を見せて笑う。


「誰と一緒になっても動けるようになっとかないと、騎士にも軍人にもなれやしないでしょ」


 苦笑するディヴィッドに、ステラは拳を向けた。


「いつもと違う人と一緒になって、学ぶことも多かったわ。この三週間、ありがとう」

「こちらこそ」


 ステラの拳に、一回り大きい少年の拳がぶつかった。


 少年たちは森を駆ける。この年の、クレメンツ帝国学院・高等部武術科の合宿が終わろうとしていた。


 彼らの夏の終わりも、また近い。

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