とある教会の話③
——何が起こったのか、確認するまでもなかった。
視界いっぱいに広がる、どこまでも漆黒の霧……。
「ノ、ノクスロス……!?」
シャオリンの震える声が聞こえたが、何も見えない。
視界が真っ黒に塗り潰され、金縛りにあったように身動きができなかった。
「シスター! シスター!!」
動揺するシャオリンを早く遠くへ避難させてあげたいのに、声すら出せずに焦るばかりだ。
動かない身体は、先ほどまでの熱さが嘘のように、芯まで冷えていた。
……熱い、何かのエネルギーが、流れ出た後かのように。
ぞわり、とした。
何が、流れ出たのだろう。
視界には、黒しかない。
——早く、逃げてっ!
心の中で叫ぶ。
この黒い霧が、異形になってしまう前に。
「いゃぁぁあああっ! 誰かっ! 誰か……シスターが……っ…………!」
暗黒が急速に収束し、薄靄の中で大きな牙が見えた。
瞬間、風が吹いたように目の前が一掃され、輪郭の曖昧な獣が、ただ口だけを大きく開けて、立ち竦むシャオリンに喰らいつくのが見えた。
ぐしゃり、と。
鋭い牙が、華奢な彼女の身体を深く穿つ。
「っあぁぁああああっシャオリン……っ!!!」
唐突に、声が出る。
が、遅い。
彼女の身体から迸る鮮血が、長い年月をかけて磨かれた廊下を、しとどに染めていく。
だらりと力の抜けた身体が、黒い獣の牙だけを軸に、ぶらぶらと揺れた。
「————————っ!」
慟哭に、言葉が出ない。
愛らしい彼女の顔は真っ白に色を無くし、代わりに真紅の飛沫が頬を伝った。ぼんやりと焦点を失った双眸は、力なく瞼の奥に消える。
ずずず、と、獣の姿を借りたノクスロスが、シャオリンの命を啜るように、赤く流れ続ける液体を吞み下した。
「ひぃ……っ…………」
凄惨な光景に、胸が鉛のように重く冷たい。
だというのに、身体がまた熱いのだ。
未だに黒い霧が纏わりつく下肢から伝わってくる熱が、冷えたアミナの身体を温めていた。そしてそれは非常に心地よく、この状況で感じることが不謹慎なほどに、充足感を与えるものだった。
これは一体なんなのだ。
ゾクゾクと這い上がってくる暖かさが、アミナの身体を満たしていく。
力が漲ってくるような、例え様のない愉悦に、病み付きになりそうな怖さを感じた。
視線の先の少女の身体は、もう鮮血が溢れる勢いもなくなっている。それを喰らいつくさんとばかりに、黒い獣が何度も何度も、柔肌に牙を立てていた。
——その度に。
獣の牙が少女を穿つ度に、纏わりつく黒い霧が熱く鼓動する。
そしてアミナに流れ込んでくる、快感。
頭の芯がボォっとしてきて、何も考えられなくなってくる。
恍惚の中で、ただただその場に立ち尽くした。
ぴちゃり、ぴちゃりと、生々しい音だけが響く教会……。
と。
「……シスター・アミナ?」
裏口に繋がる扉から、幼い少女の声がした。教会の養い子の一人だ。
普段より遅いアミナを心配して探しにきたのだろう、不安そうな声音でそろそろと歩いてくるのがわかった。
——ぁぁああ……っ!
何で、何で裏口の鍵を閉めておかなかったのだろう……!
先に施錠しておけば、せめて、せめてこの子だけは巻き込まないで済んだのに。
「……まだ祭壇にいるの……?」
——来ないでっ!!
心の中の叫びは声にならず、小さな足音が祭壇へ繋がる廊下を踏み締めた。
寝間着姿の幼子が、こちらを向いて硬直する。
黒い霧が、二人目の獲物を見つけ、嬉々として牙を剥いた。
恐怖に目を見開く養い子。
覆いかぶさるように少女へ迫る黒い霧を、それ以上見ることが出来ず、ぎゅっと瞳を閉じた——。
「…………っ!」
しかし。
「……………………?」
いつまで経っても、衝撃音は聞こえなかった。
「——っぶなー……」
代わりに聞こえたのは、見知らぬ若い男の声。
幾分呑気な、この惨状にはあまりに場違いなものだった。
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