21.研究所(5)

 山田の凍てつく視線を受け、加賀瑞樹の身体は蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。


 この場から逃げ出したい気持ちとは裏腹に、すくんだ足は一歩も動かない。


 冷や汗と悪寒が全身を包み、小刻みに震える。なぜか唾が出ず、喉がカラカラに乾く。


 ―――殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。


 加賀瑞樹の頭の中は、その言葉で埋め尽くされた。

 人間が殺された瞬間を初めて目の当たりにして、身体中が本能的に『死』を恐れていた。


 剣を構えた山田が、一歩ずつ近づいてくる。その姿は、まるで大きな鎌を担いだ死神のように感じた。


 忍び寄る絶対的な『死』の足音。

 逃れることのできない『死』という未来。


 ―――それ以上、こっちに来るな! 来ないでくれ! お願いだから、止まってくれよ! 止まれっ!


 加賀瑞樹は、声にならない悲鳴を上げた。


 その時、左足を誰かに触れられた気がした。


 足元を見ると、片手を伸ばした木村小春の指が、左足首のあたりに届いていた。

 いつの間にかに意識を取り戻し、床をはって近づいてきていたのだった。


「お兄ちゃん」

 必死に恐怖に耐えているような表情だった木村小春は強く目を閉じて言った。


「お願い、目を覚まして!」


 その瞬間、左足から全身に何かが一瞬で広がったような気がした。


 静電気がパチっと散ったような感覚が駆け巡る。


 そして、次の瞬間には。


 どくん――。


 心臓が大きく波打った。血液が沸き立ち、燃える。


 黒い炎のようなものが体中の毛穴から立ち上る。


 加賀瑞樹は、思わず叫んだ。絶叫した。


 ☆


 遠のく意識の中、なぜか子供の頃の記憶が蘇る。


 加賀瑞樹の脳裏には、姉と一緒に見上げた星空が浮かんでいた。

 隣には、大好きな姉がいた。


「あれがレグルス。獅子座で一番明るい星」


 満開の桜に囲まれた姉が天に向けて指をさす。


「そこから上に、鎌の形のように連なっている星たち―――」


 そう。あの星たちは―――。


 ☆


 気がつくと、加賀瑞樹は全身に黒い光をまとっていた。


 動悸と震えが自然と収まっていく。

 不思議なことに、心を埋め尽くしていた『死』の恐怖が消えていた。


 ―――なぜだろう。少し懐かしい気持ちがする。


 ノイズが消えた気がした。周りの音が鮮明に聞き取れる。


 そして、自分の周囲に、どんな形の物がどこにあるのか、手に取るようにわかるのだ。まぶたを閉じていても、その存在を感じるのだ。


 ゆっくり顔を上げると、目の前に、右手で剣を振りかぶった山田の姿があった。


「天国に逝きな」

 山田が低い声を吐くと、刃を勢いよく振り下ろす。


 本能とでも言うのだろうか。意識しなくとも自分の手足が動かせるのと同じように、能力の使い方も感覚的にわかっていた。


「止まれぇぇ!」


 加賀瑞樹の体中から黒い光が、どくどくとあふれ出し、輝きを増す。


 山田の振り下ろした剣の先端が、加賀瑞樹の身体を覆う黒い光に触れた瞬間、漆黒の閃光が波紋のように広がった。


 その触れた位置に、刃が静止していた。


「何っ?」

 山田が驚きの声を上げると、両手で剣を握りなおして力を入れた。

「動かない……!」


 しかし、すぐに諦めて握っていた剣を放し、一旦、後方に跳んで距離を取った。


 加賀瑞樹の目の前で、剣が宙に浮いていた。


 いや、静止していた、という表現の方が正しいだろう。


 空中で微動だにしていないのだ。

 そこだけ、写真のように時間が止まっているかのようだ。


「キミのは、不可解な能力だね」


 真剣な表情をした山田が懐から銃を取り出し、加賀瑞樹に向けた。


「でも、これで終わりだ」


 そして、ゆっくりと引き金を引く。


 パン。

 乾いた音が響いた。


「嘘?」


 加賀瑞樹の額から数センチ前方の空中で、弾丸が止まっていた。


 驚愕の表情を浮かべた山田が、慌てて銃を連射する。


 銃声が4回鳴った。


 しかし、加賀瑞樹は倒れなかった。

 4発の弾丸が、黒い光とともに、彼から数センチ離れた空中に静止したのだ。


 加賀瑞樹が手で払いのける仕草をすると、宙に浮いていた弾丸と剣が、すっと落ち、床の上に散らばった。


 口を半開きにしたままだった山田が急に我に返り、銃を懐に入れた。


「これが、ACCの能力……」


 加賀瑞樹は、1歩前に足を出した。


「今度は、僕の番だ」


 瞳を閉じると、先ほど思い出した姉の姿と言葉が浮かんだ。


「……レオズシクル」


 言葉を唱えると同時に、加賀瑞樹の右の手のひらから大量の黒いオーラが湧き出す。


 斜め上に掲げた右手から、オーラを左手でつかみ取るように握って、力強く左下に引いた。

 左右の手を結ぶ空間に黒い線が描かれる。

 さらに、上げていた右手で大きな円弧を描く。


 目の前に、刃が自分の身長ほどもある巨大な黒い光の鎌が生まれた。


 加賀瑞樹は、柄の部分を両手で力強く握り、キッと前を向いた。


「おいおい、そりゃ、シクルじゃなくて、大鎌サイズだろ……」

 鎌の大きさにツッコミを低い声で入れた山田の顔には焦りの色がうかがえた。


「いくぞっ」


 右手で鎌を背中に担ぐと、加賀瑞樹が駆け出した。


 ―――なぜだろう。力の使い方、戦い方を自分の身体が知っているみたいだ。身体が自然と動いてくれる。


 一瞬で間合いを詰め、鎌を両手に持ち替えて振り下ろす。


「さっきまでと動きがまるで違う、だと……?」


 山田が身体をとっさにひねり、間一髪で鎌を避ける。


 そのまま走り抜けた加賀瑞樹は部屋の壁を蹴って折り返し、2撃目を水平方向に斬る。


 山田が後方にジャンプしながら背中を反らせ、バク転で、その斬撃を跳び越える。

手での着地と同時に地面に落ちていた自分の剣を握り、身体を1回転させて起き上がったときには、すでに剣を構えていた。


「ふふっ。楽しくなってきたねー。ゾクゾクするね」

 そう言った山田の目は全く笑っていなかった。


「オレの名前は山田ジロー。キミの名前は?」


「……僕は、加賀瑞樹」


 加賀瑞樹は答えると、再び鎌を振り上げてから前方に跳躍し、全身全霊の力を込めて両手で切りつけた。


 山田は両手で握りなおした剣で、それを受け止める。


「くっ」


 そして、何かを悟ったように笑った。


「加賀くん、どうやらキミの能力とは相性が悪いようだ」

 そう言うと、山田は剣を握っていた手を離し、後方に跳んで距離を取った。


 手放された剣は、その位置のまま空中に浮いていた。


 山田が左手の手首をちらっと見た。腕時計が淡く金色に光った。


「そろそろ10分経つかー。残念ながら、時間切れみたいだねー」


 山田は、生産ラインの終点の台にあったケースをひょいと持ち上げて、脇に抱えた。ケースの中に入っている数十個のアビリティシリンジが揺れる。

 そして、加賀瑞樹に視線を戻した。


「できることなら、キミとは、また殺し合いたいな」

 言い終わると同時に、部屋の出口に向かって走り出した。


「逃がすか」


 慌てて加賀瑞樹が鎌を振ったが、軽々とかわされてしまった。


「ここで死なないでねー」


 その言葉を残して、風のように山田は部屋の外へ消えてしまった。


 ふぅ。

 大きく息を吐くと同時に、張り詰めていた緊張の糸が切れたらしく、体中の力が抜けた。


 全身にまとっていた黒い光が消える。


 助かった……、のか?


 手足が鉛のように重く感じ、足元がふらつく。自分の身体が自分のものではないような感覚だ。


 ひざに力が入らず前のめりに倒れ、床に両手をつく。


「もう、少しも力が残ってないや……」


 苦笑いした時、足元が揺れた。


 振動と一緒に、大きな爆発音が連続して響く。

 部屋の壁や天井のいたるところに、稲妻の形のような大きな割れ目が入り、爆発音が繰り返されるたびに裂け目が拡大していく。


「ここから逃げなきゃ……」


 加賀瑞樹は、ひざをついてから、ゆっくりと立ち上がった。


 部屋の床には中沢美亜と小泉玲奈が意識を失い倒れており、全く目覚める気配がない。


 もしかしたら、死んでいるのかもしれない。


 最悪の可能性が頭をよぎった。


 部屋の隅には、すでに事切れている忌野の亡骸があった。


「まだ死にたくない……」


 加賀瑞樹は、ふらふらと部屋の出口に足を進める。


「……お兄ちゃん」


 部屋の天井が少しずつ崩れ始める音の中、背後から木村小春の弱々しい声が聞こえた。


「お兄ちゃん、助けて……」


 その声に加賀瑞樹は足を止めたが、後ろを振り向けなかった。


 自分の残りの体力はわかっていた。

 今の状態で誰かを抱えながら逃げるなんて無謀だ。


 それに、仮に抱えられたとしても、たった1人だけ。


 木村小春を助けるということは、中沢美亜、そして、小泉玲奈を殺すということだ。


 自分の意志で2人を殺すということだ。


 ―――誰も選ばなければ、僕が殺したことにはならない。みんな、極東軍に殺されたんだ。僕のせいじゃない。


「……ごめん」


 加賀瑞樹は、後ろを振り返らず、再び足を進めた。

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