Epilogue

26

 クイールカントの春は終わり、緑萌える初夏に入った。雪解けの終わったティタスの山は空の青や海の青よりもっと深い色になり、広がる蒼穹は澄んで、これから涼しいけれど日差しの強い夏を予感させる日よりになってきた。行き交う人々の服装は薄着になり、地面はよく乾いて、風が涼しい。聖堂に満ちる空気も、影は冷たく、光は暖かい。十二芒星を席に座って見上げ、アンは差し込む光と影に目を細めた。一ヶ月。そう、もう一ヶ月経ったのだ。


 痣や打ち身はほぼ完治し、アンの原稿もすべて終わり、あるべきところにある状態だ。ユースアへ帰るかクイールカントに残るかはまだ決めかねている。何故なら、約束の一ヶ月がまだ終わっていなかったからだ。今日がその日、その約束の日だった。誰にも告げずここへ来たのは、キャサリンが耳飾りに対して行った賭けのようなものだった。彼がやってくれば可能性は上がるかもしれない、という程度だったけれど。


 扉が開く。


「女神がごらんになっている」

 声がした。やって来た人物は、星の紋章を見上げ、立ち上がったアンを自らの目前に誘い、敬虔に目を伏せた。

「真実を語ろう」


 すべてマリアンヌの指摘通りだった、とルーカス・ジークは語った。


「我々の国は中立国だけれど、やはり世界的に認知される必要があると、僕たちは考えた。このままでは、将来的にユースアやイグレンシアに介入されるのは目に見えていた。特に、クイールカントは。だったら両国の手を合わせるべきなんじゃないか、と、マクシミリアンは僕に話を持ちかけたんだ」

「どういう話か、聞いても?」

「単純なんだよ。妹と結婚したいなら協力しろ、ってね」彼はそれを笑った。「シンプルだろう?」

 簡単明瞭だが、言った人間を兄に持っている身としては笑えない。「続けてちょうだい」

「マックスは、最初、国王命令で君を帰国させるつもりだったみたいだ。それで、君が帰国しているうちに僕に君を口説き落とすように、と言った。でも、予想外のことが起こった。銀星の耳飾りの件がね。僕たちは慌てた。両国内は混乱したし、その収拾に当たって、策略どころじゃなくなったんだ」

 でも、とルーカスは息を吐く。「国王陛下もマクシミリアンも、賠償について知って、これは使えると考えた。君を帰国させる口実になるし、結婚も面倒な接触……僕としてはその過程こそ必要だと思っていたんだけど……それを省いて、義務的に行えると。耳飾りの捜索はしていたはずだよ。僕は他国の人間だから憶測であんまり物は言えないけれど、でも多分、貴族が関わっているということで、多少なりとも順調ではなかったはずだ」

「兄は、ユースアにいた私へのメールに、帰ってこなくていい、というようなことを言っていたけれど。母がユースアへ行ったらしいってメールのときよ」

「タイミングの問題かな。まだ今後の策を練れていなかったし、マリアンヌ陛下が何を知ってユースアへ向かったが想像がつかなかったから。余計なことを喋っても君が本気に取らないよう、手を打ったんだと思う」

 すべて父と兄の手のひらの上だったのか。ここ数日、銀星の耳飾り遺失の件やリカード公爵令嬢襲撃事件の対応に追われている二人を思う。でも絶対、アンから逃げる意味合いでも忙しくしているに違いない。

「このこと、サラバイラの両陛下はご存知?」

「いや。僕とマックスの間での取り決めだった。僕は二人に、サラバイラとクイールカントが結ぶことでどんな利益不利益があるか話し合っただけだ」

「そして認めさせたわけね……ひどい人」

 知ってる、とルーカスは自嘲した。

「それから最後に弁明を。キャサリン嬢と出掛けたときのこと」ルーカスは顔を覗き込んだ。「聞いてくれる?」

「ええ、いいわ」今度こそ、アンは覗き込んだ瞳から目を逸らさなかった。

「途中から彼女が怪しいんじゃないかとは思っていた。彼女のために言わなかったけれど、許可をもらったから言うよ。……実はプロポーズされたことがあるんだ」

 あんぐり口を開けた。言葉が見つからない。「キャサリンに!?」

「丁重にお断り申し上げたけどね。でも、あの日耳飾りが消えて、僕は誰と結婚しなければならないんだろうと考えたとき、王家に連なる女性として君と、キャサリン嬢が浮かんだ。それで彼女が気になっていたんだ。彼女には少し話を聞くつもりで一緒に出掛けた。途中でキニアスから電話が入って、もしかしたら公爵なのか、とも思ったけれど。君に見られたのは失敗だったね。彼女にも悪いことをしてしまった」

 銀星の耳飾りはサンの聖堂に安置されたままだった、という報道が流れていた。リカード公爵の手落ちだった、と。己と娘、すべての責任を負った彼が、自ら責を被ると言ったのだ。また、キャサリンは襲撃を受け、表立っては静養、真実は謹慎という形で屋敷にいる。あの男性には、きちんと話を付ける、と約束して。

 あの夜、彼女はアンを抱きしめ、「あなたがいなくならなくてよかった」と声をあげて泣いてくれた。怖かった、とルーカスの前で泣くのではなく、アンのために。だからこそ、彼女は守らなければならない、心優しく美しい従妹なのだった。アンは息を吸い込んだ。

「耳飾りがなくなった。私じゃなくてもいいと分かったのなら、キャサリンにしようとは思わない? 私みたいな、素直じゃなくて、面倒で、王女らしいことを何ひとつしてこなかった女を、王太子妃に迎えようっていうの?」

 ルーカスは手を取った。その甲に口づける。

「君以外の誰を愛せというんだ? アン、君を愛している。耳飾りはなくなり、女神も認めた。君はもう僕のものだ。約束の一ヶ月が経ったよ。さあ、君の言葉を聞かせてくれ」

 アンは深く息を吐き、女神の紋章のひとつを見上げた。十二芒星。人間を照らす光で、最もかれらに近い光。アンを照らしていたあの冷たかった夜の輝きは、今は彼の宝石の青、北極星のように、彼女の中で輝いている。その胸の中をひたと見つめ、アンは答えを口にした。


「女神に嘘はつけない」


 ルーカスが絶望の息を吐く。

「アン……」

「あなただってそうでしょう? 私だってそうよ」

 ユースアに行き、いつの間にかミシアの教えで考えている自分がいた。女神の『真実を尊べ』という教えは、アンの身に染み込んでいる。だから真実を告げなければならない。アンは、ルーカスを真っすぐに見つめた。

 彼の瞳は、どんな星よりも鮮やかだ。ミシアの十二芒星が人間に最も近い光ならば。ルーカスの双眸は、ずっと側で、アンだけを照らしてくれる、彼女だけの輝き……きっと、これからも。


「私は、あなたを愛してる」


 ルーカスは目を丸くした。端麗な顔いっぱいに驚きが広がり、アンは笑みをこぼした。

「アン、もう一度言って」

「愛してるわ、ルーカス」

 自然と浮かんだ表情は、喜びの笑みだった。どちらとも。今私が浮かべるこの表情こそ、素直な愛なのだとアンは思った。お互いに腕を伸ばし、もどかしく相手を抱きしめ、きつく、隙間を埋めるように身体を抱え、その唇にキスを贈った。甘い熱と、爽やかな香り。どこからか、あの白い花の香りがするのだった。そして何度も交わし伝えあう唇は、これからの幸せを予感させるキスだった。

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