22
カフェの店内には、カップルがいた。金色の髪をした、後ろから見ても麗しいだろう二人。瞬間的にそれが誰なのか分かってしまったのが不幸だった。笑い声が、耳に届いたのが絶望だった。
引き止める力は強くなり、目を険しくしながら振り返る。
「デートで鉢合わせなんて素敵な偶然ですわね、殿下」
追ってきたのは、キャサリンの隣に座っていたルーカスだった。
アンは苛々と腕を組んだ。顔にはこれ以上ない笑みを貼付け、柄にもなく可愛く肩をすくめてみせさえする。
「私用。確かに私用ね。デートなんですもの」
「二人で出掛けたことは否定しない」ルーカスは笑いもしない。苦悩も見て取れない。まっすぐな目に、アンの仮面は剥がれそうになる。
「だったらどうぞ、楽しまれて」アンはなんとか微笑み、背を向けた。しかし、その手を引き止められる。
「泣きそうな君を放っておけない」
どの口がそれを言う。思ったときには勢いよく振り払っていた。
「王女だった一般市民より、公爵令嬢の方があなたにふさわしいわ! 文句なんてあるもんですか!」
「僕が何のためにサラバイラからこちらへ来たと思っているんだ」とルーカスはもう一度アンの手を捕らえた。まさに捕まえると言うのが似合うくらいに、きつく。
「君に会うためだ。国に帰って、君に会いたくてたまらなくなった。これを恋と呼ばずになんと呼ぶんだ?」
今更そんなことを言われても答えが出せない。自分を放って違う女性と会っていたなんて、簡単に受け流せるほどできた女じゃない。できるのは、被さってくるルーカスの唇を泣きたい気持ちで受け止めるだけだ。アンは離れていく熱に浮かさず、濡れた唇を噛み締めて、言った。
「……キャサリンともこうしたくせに……」
次の瞬間、ルーカスの頬を張り飛ばした。よろめいたルーカスから逃れたアンは、身を翻しながら引きつれた叫びをあげた。
「……あなたに恋ができると思ったのに!」
絶望的だ。走りながらアンは思った。ひどい、こんなのってない――相手が離れそうになって思いを自覚するなんて、こんなひどい仕打ちがあるだろうか。アン・マジュレーンは間違いなくルーカス・ジークを愛している……。私だけを見てほしいと思っている愚かな自分が、駄々をこねて泣き叫んでいる。ずっと感じていたじゃない、彼にさらわれてもいいと思っている自分に。思っていたじゃない、もう逃げずにすむかもしれないと。答えを渋ったのは、彼を待たせたのは私。わがままが過ぎるほど甘えて、辛い思いをさせたのなら、彼はアンを拒否する理由がある。
信じてくれなければ花は枯れてしまうと、ルーカスは言った……。
おあつらえ向きに雨が降り始め、温い空気はあっという間に冷え込んだ。全身はみすぼらしいくらいに濡れそぼち、今なら、強い雨に打たれた双葉よりも簡単に手足を投げ出せた。泣きたい気持ちは、髪に、顎に、指先に、雨の雫となって落ちていく。
みじめだった。すべて自分が悪いから余計に。もう少し素直であれば。もう少し可愛らしければ。あのとき、もう少し違った答えを出せたら。もう少し、もう少し……尽きることのない『もし』が後から現れては全身を凍えさせた。ここにいるアンは、今、思い描いたことをしてこなかったのだ。
激しい雨に、古い街はみるみるうちに灰色に包まれた。銀色の雨は石のように重い。大地の水は濁り、無造作に車のタイヤにはね飛ばされた。ふらつく足は行く先を知らない。アンは立ち尽くし、しかし理性が働いて、タクシーを拾うことを考えた。キニアスが、心配するかもしれない。
足を踏み出して、水の入った靴が滑り、よろめくと、腕を掴まれた。雨が止む。傘を差し掛けたキニアスがいた。
「帰りましょう」
彼は自分が濡れるのも構わずに、アンに傘を差し出し、濡れた彼女を支えて、帰城した。
ローリーにアンを託した彼は、アンが風呂で身体を温め、髪を乾かし、着替えをした頃にやってきて、温かいコーヒーを入れてくれた。
「暖かくしましょう。寒いと、悲しくなりますから」両手をとってカップを握らせてくれる。カップから伝わる暖かさと、彼の手の温もりが優しく、湯気からも彼の気持ちが伝わってきて、うっすら視界が曇ってくる。突風のような悲しみが、やがて海のように溢れかえると、その悲嘆は穏やかになる。静かな悲しみの中で、カップに口を付けた。
「……おいしい」
香り高く、ブラックなのに透き通った雰囲気のある、とてもおいしいコーヒーだった。ユースアで飲んでいたコーヒーは、泥水も同然に思え、あの味も懐かしくなった。たった十数日なのに、時間も、気持ちも、まったくちがうものになり、アンはまるで別の世界に放り出されたような頼りない気持ちになった。
「あなたに恋をしたら、幸せかしら」
キニアスは微笑む。嬉しそうに。
「わたくしに恋心を抱かれても、それは殿下に恋をするのと同じこと。わたくしの行動は、すべて殿下がアン様になされることです」
アンはがっくり椅子にもたれた。「その台詞がなかったら、恋してたんだろうけど」主従愛も過ぎれば毒だ。彼に恋をする人は大変だろう、と見知らぬどこかの女性に思いを馳せた。
「アン様を傷付けた手前、主を庇うことは気が引けますが……」キニアスは微笑んだ。「殿下にはお考えあってのこと、というのをお伝えしておきます。このままあなたに嫌われてはお可哀想だ」
「嫌われたのは私の方」アンは膝を抱えて顔を埋めた。「ひっぱたくつもりなんてなかったのに……」
「あの方は一度ひっぱたかれるくらいがちょうどいいのですよ。気になさらないでください。女性の怒りを受け止めてこそ男の価値がある。そもそも怒らせないのが一番ですが、残念ながら、男という生き物は、愛する人の様々な表情を見て胸をときめかせてしまうものなので」
アンはちょっと顔を上げて、笑った。
「あなたでも?」
「わたくしでも、殿下でも」
あの二人にそう言われるのなら女性冥利に尽きるな、とアンは微笑んで、コーヒーを飲み干した。
「ありがとう。でも、もうだめよ。気付いてしまったもの」
亡くなった母の父、つまり前リカード公爵は、前国王の従妹を妻にしている。その従妹は、アンの曾祖父の妹の娘に当たり、ハーレン・リカード公爵はれっきとしたクイールカント王家を引いている。その娘にも、青い血は受け継がれている。王女だった一般市民より、公爵令嬢の方があなたに……。彼にぶつけた言葉は、あっという間に跳ね返ってきたのだ。
キニアスに明かせば、ルーカスの耳に入る。キニアスの目は彼の目になり、耳は彼の耳になるのだ。それでも、真実の言葉は彼自身にささやく方を選ぶけれど。
ようやく気付いたのは苦しい恋だった。その恋の罪悪感や絶望がまるで嵐のように吹き付ける。心が磨かれるならそれもいいかもしれないけれど、そのさきがけっして幸せにつながるわけではないことが、悲しく辛かった。
アンはコーヒーの礼を言って、立ち上がった。スーツケースを開け、出しっぱなしにしてあった荷物を詰め込んでいく。
「アン様」
アンは肩をすくめた。「ユースアへ帰るわ」
キニアスは目を見張ったが、それも軽く、次の瞬間には落ち着いていた。「お考えになられたことは大体想像がつきますが、もう少しお待ち下さい」
「想像がつくの?」アンこそ驚いて手を止めた。
「大方は。……キャサリン様は王家の血筋でいらっしゃいますから」
彼には隠し事はできないようだ。感心してしまった。
そこへ、電話が鳴り響いた。キニアスが取りに動いたが、アンはそれを制して受話器をあげた。
「はい」
『殿下、サラバイラのルーカス殿下が』
キャサリンを送ってから来たわね、とアンは予測を付けた。
「お断りして」
『それが、いらっしゃった王妃陛下がお通ししてしまい……』
恐縮しきった侍従の声と、扉が開けられるのが同時だった。濡れた状態でやってきたルーカスが、アンの姿を認めて言った。
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