18

 首根っこを押さえられたように、アンの背中は硬直する。ルーカスが、腕組みをして立っていた。エリオは落ち着いた態度で深々と頭を下げた。

「下がりたまえ」

 一言でルーカスは追い払うと、アンの手を乱暴に握り、テラスへと連れ出した。痛みを感じる掴み方に、さっと血の気が下がったが、しかしあっという間に怒りへと変わった。人目が遮られる影に来ると、勢いよく彼の手を振り払い、睨みつけた。けれど、自分でも分かっていた。これは、開き直った悪い女の態度だと。

「今の誰?」

「……エリオ・モクソード氏」

「どこの人?」

「知らない。外国じゃない?」つんと素っ気なく言うと、ルーカスは深々と、これ以上なく耳に障る息を吐いた。

「知らない男の誘いに乗るの、君は」

「ええ、そうね。キャサリンとちがって、私はそういう軽い女なのかもね!」

 ルーカスがきょとんとした。そうして理解できないというしかめ面をして、やがて、不思議な言葉を聞いたようにぎゅっと眉を寄せる。アンは腕を組んで黙っていた。何を言っても、応戦する準備がある。

 さあ、何か言ってごらんなさい。きつい目をした顔を上げると、ものすごく驚きの表情にぶつかった。

「もしかして、嫉妬したのか? 君が!」


 アンの中で感情が一瞬にして爆発した。


「……身分や権威がなによ!」


 夜空にそれはうまく響かず、獣の唸り声に似て、物をぶつけるように勢いよく投げられる。

「私だって人間よ、王女でも、嫉妬くらいするわ! でも王女なんて身分、人の目をくらませて、真実を覆い隠して、私にいいことなんてひとつもない! どうしてうまくいかないの、私は自分の足で生きていきたいだけなのに。私はね、これまで自分の養育にかかったすべての費用を計算して、分からないところは試算して帳簿につけてあるの。すべて返済すれば、私は自由だわ!」

 両手を振り回し、駄々をこねるように叫ぶ。止まらない。根深く刺さった棘から、吐き出しきれなかった様々な思いが噴き出してくる。視界が滲むのは涙のせい。痛む火傷は、自分でもすべて溶かしきれない過去の氷、あるいは消せない熾火によるもの。

「いらない、王女なんて身分はいらない! あなただって、私が王女でなければ見向きもしなかったわ!」

 喉が燃えるように熱かった。目も。胸も。思考ですら焼き切れる寸前で、すべて悪いのは自分だった。自分のコンプレックスや、妬み、嫉みといった感情が、ぶつけるべきでない相手に放たれた。取り返しはつかない。言葉はそういうものだから。アンに唇を噛ませたのは後悔で、弁明も釈明も言えないのは、自ら折れることを認めようとしない歪んだ性格のせいだった。素直になることは、己を曲げるようでできなかった。

 夜は冷たい。十六の歳から、ずっと、夜は冷たかった。涙で星は滲み、月まで連れていってくれる手はない。きらめく愛の言葉は聞こえない。全部、私が悪い。私が、王女に生まれたのが……。


 ルーカスが俯くアンの、髪が風に揺れるのも、激しい呼吸で胸が上下するのも、振舞いのすべてを見逃さないような、真っすぐな目で見ている。彼には怒る権利があった。僕に言っても仕方がないよ、と。笑う権利もあった。僕に関係はないけれど、とも。つまりアンを嫌う理由があるということだ。謂われない怒りをぶつけられれば、アンはきっと、相手を嫌うだろう。突拍子なく、穏やかで、気遣いのあり、アンを予測もつかない驚きで満たしてくれる彼でも、きっと彼女と同じところがあるはずだ。これがそうでないと、誰が言えるか。



「そう、僕たちが出会うこともなかったね。だから運命に感謝しよう」



 アンはじっとルーカスの顔を見つめ、目をゆっくりと一度瞬かせた。

 ルーカスは笑っている。


「こう考えられない? 君がクイールカントに生まれついたのは、僕に出会うためだった、って。だから君が王女として生まれたことは僕にとって喜びだ。君の運命には、僕しかいないんだよ」


 突然、頬を雫が流れた。怒りは凝結して涙になったらしい。そのことにびっくりした。まさか泣き出すことになるとは思わなかったからだ。

 切り込むよりも鮮やかに、ルーカスの言葉は降ってきた。どうしてそんなに楽しそうに言えるのだろう。ずるい。なんてことのないような顔で、私を解放しないで。大事に持っていた傷を、謎を解くよりも簡単に癒したりしないで。

 流れる涙が温かく感じられる。彼がいつでも彼女を抱きとめられるように待っている。笑うことはまだできないけれど、溶けた悲しみを止めようとは思えなかった。感情に身を任せるのは心地よく、ようやく胸の奥のしこりがなくなっていく。風が通る。花の香りが、鼻をくすぐる。何故泣いているか分からずに、彼が困惑していないといいけれど。


「それで? 王女に生まれて……何があったの?」

 ハンカチを渡される。息を吸い込んだ。尋ねられたのなら、彼がアンをこうしたのだから、話すべきだ。「……ハイスクールで」シャドウやライン、ファンデーションがつくことを恐れて、少しずつ拭いながら、口を開いていた。

「好きな男の子がいたの。あなたも、もしかしたら知ってるかもしれない。ひとつ年上の子。彼と付き合ってたわ」

 学内で人気があった人だった。テニスが趣味で、数学がよくできた。授業中だけ眼鏡をかけて、遠くの物を見るとき目を細めるくせがあった。君を大切にしたい、彼がそう言ったところは、学校の非常階段。生徒たちが下校するのがよく見えたから、しゃがんで、壁に隠れて初めてのキスをした。綱を引くように思い出せば、意識しなかった記憶まで現れて、アンを苦しみでいたぶった。

「あるとき、彼と彼の友人たちが話しているところに通りかかったの。彼らは私に気付いてなかった。私、驚かそうと思って、隠れて聞き耳を立ててた」

 鼻がつんとする。深く息を吐いた。

「彼は」

 これが、私の過去。他愛ないかもしれなくとも、ずっと痛み続けた過去だ。

「『恋人が王女だと箔がつく』と言ったのよ」

 そうして続く言葉はこうだった。「『王族入りもいいけど、不自由になるからな』。そう言って、他の女の子の話をしていたの」そのあとに続く言葉の下劣さは今でも表現出来るが、止めておいた。ハンカチの中に悲鳴を殺して、アンはじっと感情の波に耐える。

 その十六の出来事まで、王女という身分をさほど不自由だとは思わなかった。義務や責任として、背負っていくつもりだった。しかし、王女であることが、人々の真実の心を隠してしまうのなら、そんなものはいらないと十六歳のアン・クイールカントは思った。私が欲しいのは、心から信じられる思い、その言葉を信じさせてくれる人。真実の愛。


 これまでじっと聞いていたルーカスが、深く息を吐いた。

「助かった。そんな馬鹿に君を取られなくて」

 アンが口元をハンカチで押さえたまま見上げると、脱力するように肩を落とし、腕を組んで、しみじみと笑っていた。

「馬鹿な男と結婚しなくてよかった」

「本当にそうね。本当に」

 アンも笑った。笑うことができた。それは月星のせいかもしれないし、夜闇のおかげかもしれなかった。もしかしたら彼の貸してくれたハンカチが嬉しかったのかもしれなく、彼がアンの傷について何か言うのではなく、これからのことを考えていたようだったからかもしれなかった。彼は、私を自分の物にする気があるようだわ。いつもなら口にする反発も、涙で弱っているからか、笑うだけになってしまった。無邪気な幼児を見たような微笑みがアンの口元に浮かぶ。本当に、抱いていても仕方のないものを抱いていたものだ。

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