第11話 覆水盆に返らず
「その接着剤の中和剤があればいいんだがな。まぁ、時間が経てば自然と取れるかも知れないし」
やっと落ち着いた桃弥が壺を抱いたまま正座し、桜雅が茶を飲ませてやっている光景を、なるべく見ないようにして泉李が言った。
当然、莉己は再び肩を震わせている。
「最悪取れなくても、明後日には景雪が到着するだろうから、」
もう少しの辛抱だと言いかけて、ぎょっとする。
「こんな姿を見られるくらいなら……! 俺は…俺は…!」
壺を抱えたまま窓から飛び降りようとする桃弥を2人が必死に止めていると、(莉己は卓にうつぶせになって笑っていた) 廊下からこの家の主人陵才の声がした。
「陵才か? ちょっと待ってくれ!」
泉李が返事をしている間に、桃弥が隣室に飛び込み、足で扉を閉めた。
その動きの素早さに再び莉己が肩を震わせ、そんな莉己を軽く叩いてから、泉李が廊下の陵才に声をかけた。
中に入ってきた陵才は、桃弥の姿が見えない事を不思議がった。
「ああ、彼でしたら そこに飾られていた壺があまりに見事でしたので、静かな処で心行くまで堪能したいと奥の部屋に。気にしないで下さい」
人の良い笑顔でそう言う莉己を改めて怖いと思った桜雅だった。
陵才は納得したように頷き言った。
「あの壺は桃弥君が喜ぶだろうからと言って、景雪殿から送られてきたのですが」
ここまで言って陵才が少し笑った。
「あの底の紙は景雪殿の悪戯でしょうけど、桃弥くんは気を悪くしていませんでしたか?」
まさか飛び降りかけたとも言えず、
「あの程度はいつもの事だから、大丈夫だ」
泉李が笑顔で答えた。
「はははっ そうですか。なら安心しました」
「あの壺をそこに飾ったのは?」
「ええ、私です。高価な品とお見受けしましたので、私自身がそこに飾らせて頂きました。そして指示どおりに艶出しの薬を塗りました」
……それだな。4人ともそう思ったが、口には出さない。陵才が艶出しの薬と疑っていないからだ。
「その薬はまだ残っていますか?」
「ええ。3日に1度塗り直すと良いそうで、明後日にでもまた塗り直しに参ります」
「あーそれなら桃弥に任せるといい」
「承知致しました。では、あとでお待ちします」
陵才が部屋を出ていくと、桃弥と壺が現れた。
「明後日かー。微妙だな」
自分の到着日に合わすのはもちろん計算してのことだろうが、景雪到着より先に効果が切れるのは難しそうだ。
「俺は2、3日、用事で出かけますから。兄には宜しくお伝えください」
景雪から中和剤を受け取る気は全くない桃弥に3人は溜息をもらす。
「そう言うと思った。わかったから短気をおこすな」
ここは4人の中では一番の兄貴的存在 泉李の出番だった。
「両手が使えないお前が1人で何が出来るんだ? 明日一日の我慢だろ。壺を抱いたお前が外をうろつくと間違いなく注目を浴びるぞ。噂が広がり、結果、余計あいつを喜ばせることになる」
「ぐっ……」
「とにかく、あいつにはお前は出掛けていて、2~3日戻らないと言っておくから ここにいろ」
桜雅にも慰められ肩を落としていた桃弥だったが、やがて諦めた。
「泉李様、莉己様、桜雅の護衛、お願いします。足引っ張って、本当に申し訳ありません」
深く頭を下げ、桃弥は部屋の奥へ消えて行った。
自分の本来の役目を思い出した事は褒めてやってもいいが、壺が取れるまで丸2日ある。
「人の心配している場合かよ」
食事はともかく、用を足す時はどうするのだろう?
顔を見合わす3人。
「私はパスです。男性の下着を脱がせる趣味は残念ながらありません」
心の中で「俺もない」と桜雅は呟いた。
確かに絶世の美貌を誇る莉己のそんな姿は想像出来ないし、したくなかった。何より桃弥が受け入れないだろう。
そして
「俺はいいが、桃弥が嫌がる」
桜雅がそう言って苦笑した。
普段は王族である自分にも気さくな物言いをする桃弥だが(秦家の特徴か?)本当は身分に対するこだわりは桜雅より強い事をよく知っていた。いくら幼馴染でも許さぬ一線があるだろう。寂しい気もするが、仕方がないと桜雅は思っていた。
「しょうがないなー、俺が面倒見てやるよ。あいつには色々楽しませて貰ってるからな」
泉李が奥の部屋を見つめ、いじけているでだろう弟分を思いながら言った。
結局その日1日、莉己の笑い声が切れる事はなく、桃弥にとっては一生忘れられない日となったのである。
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