リュカ〜私を私にした少年〜
ぞぞ
前編
リュカの容姿は、およそどの人種のそれとも相容れない。暗がりだと浮き出して見えるほどの見事な銀髪なのに、肌は闇に溶けるように浅黒い。瞳は緑色に冷たく冴えている。どれもこれもがチグハグで、しかし、そこにある違和には匂い立つような妖艶さがあった。気を抜くと、瑠美の目はいつの間にかこの異彩を放つ美しい少年型ロボットに引き寄せられてしまう。
リュカのようなロボットが作られるようになったのには、社会的な背景がある。
日本は性暴力に対する意識が低いと言われて久しく、強姦事件や未成年者との淫行の報道が絶えなかった。しかし、政府が数年前に打ち出した画期的な案がその状況を変えつつある。最新のロボット工学の力を性犯罪防止に利用したのだ。
それは、あまりにも馬鹿馬鹿しい計画だった。ロボット工学は少子高齢化に伴う労働力不足解消のために活躍してきた。今は介護施設等での多様なコミュニケーションをも可能にすべく、より人間らしいロボットを求めて改良が進められている。人間の取る行動や表情の変化から精神状態を分析させ、それを模倣する機能をつけた、つまり、ロボットに心を獲得するシステムを与えたのだ。
その成果を流用し、政府は性犯罪を犯す因子を持つとされた人物に、人と同じようにコミュニケーションの取れる慰みもののロボットを配布した。性犯罪の前科者や、アンケート調査で特殊な性的傾向が認められた人々へ、無償でセクサロイドが与えられたのだ。
この政策を批難する声は大きかった。しかし、施行後一年でそれまでの性犯罪件数は半減し、すぐに誰もが認めざる得なくなった。セクサロイドは今の日本社会に必要であると。
瑠美は職場から持ち帰ったリストを眺めていた。リュカのことを視界へ入れないよう、注意しながら。けれど、ずらりと並ぶロボットの製造番号と呼び名、そしてそれを手放す持ち主の氏名へ視線を滑らせていると、つい「リュカ」の文字で目が止まってしまう。するとどうしても、頭の奥へ押し込めていたすぐ側にいる美しい機械の存在が脳の表面へ浮上して、そこへべたりと貼り付いたようになる。仕事にならない。
瑠美は深く息をつくと、観念してリスト用紙を折り畳み、リュカへ視線を向けた。彼も読んでいた英和辞典から顔を上げた。二人の目がカチリと合う。リュカの瞳の緑はひどく澄んでいた。視線がそこへ吸い込まれてしまうほどに。けれど、緑色の表面に自身の姿が映って見えて、瑠美はとっさに目をそらす。腫れぼったい瞼のせいで何かを睨みつけているように細くなった目と、肉の付いた頬。リュカの美しさとあまりにかけ離れていて、羞恥に駆られてしまったのだ。リュカは不思議そうに小首を傾げた。
「すみません。英語を覚えようと思って読んでいたのですが、いけなかったですか?」
「あ、違うの。気にしないで」
言いながら、瑠美はなんとなしに開かれたままの辞典へ目をやった。リュカを預かることになる少し前、カウンセリングで先生に薦められた本を読むために買ったものだ。はじめは自動翻訳機を使おうと思っていたのだが、押し入れの奥から引っ張り出したそれは壊れていて、使い物にならなかった。新しいものを購入する余裕はない。それで仕方なく、ネットで古い辞典を取り寄せた。
テーブルに置かれた本のページはほとんどめくられていて、片側が分厚くなっている。五分足らずで、英和辞典をほぼ読み切ってしまうとは、さすがロボットだ。
「どうして英語なんか勉強してるの?」
「ご主人様は英米文学がお好きですから、ぼくもいつか読ませていただこうと思って」
ついため息が出た。この子はいまだに持ち主の元へ帰れると思っているのか。
「あなたの持ち主は今は意識不明なの。助かる見込みはほとんどないって、お医者さんも言ってたし、あんまり期待しない方がいいよ」
「分かっています」
リュカは瑠美を見た。まっすぐに向けられたその瞳は研がれたナイフのように鋭く澄んでいて、瑠美は怯んでうつむいた。
「でも、助かる可能性もあるのでしょう? だからぼくはここで預かってもらうんだって、仰っていたじゃないですか」
その通りだ。リュカの持ち主は勃起状態の自身のペニスを切り落とすという奇行に走った。それで出血性ショックに陥り、今は病院で生死の淵をさまよっている。望みは薄いということだが、万が一にも助かった時、その持ち物が他人の手に渡っていてはまずい。不要ロボットの処理を担う会社はいくつかあるが、瑠美の勤務先では持ち主の意思が分からない場合、職員の誰かしらが一時的にロボットを保護することになっている。そうして、もしその持ち主がロボットを所有することが間違いなく不可能な状態になった時には、蓄積されたロボットのデータを全て削除し、販売する。
リュカの視線の熱が頬の辺りに貼り付いている。瑠美は彼の問いに、そうだね、と口の中で曖昧に答えてから、もう部屋へ戻るように言った。
三日前に始まったリュカとの共同生活は、瑠美にたいへんなストレスを与えている。彼が何かにつけて、持ち主の話をするからだ。昨夜、夕食の準備をしていた時はひどかった。
瑠美が職場から帰宅するのは夜の七時を回ってからだ。金曜日は、一週間分の業務を報告する作業があり、特に遅くなる。メニューは簡単に済ませられるものがいい。そこで昨日は下味を付けて冷凍している豚肉を使うことにした。
電子レンジで肉を解凍する間に、木綿豆腐を手でちぎる。調味料を合わせる。そのすぐ横にぴったりくっつき、リュカは興味津々といった様子で作業の一つ一つを見つめていた。
「今、ちぎっているものは、何ですか?」
飛んできた質問があまりに素っ頓狂で、瑠美は思わず手を止めた。リュカへ目を向けると、彼はいたって真剣な眼差しで木綿豆腐に見入っている。
「豆腐だよ。木綿豆腐。知らないの?」
「はい」
眉も口元も一切動かさず、けれど目には強い好奇の光を映して、リュカは答えた。
「ご主人様に教えていただいたこと以外、ぼくは何も知らないんです。ぼくみたいなロボットは、みんなそうですよ。でも、ご主人様から教えていただいたことは、全部覚えています」
リュカはそう言い、持ち主から教わったらしい幼女の出てくるアニメの話をし始めた。瑠美もタイトルは聞いたことがある、オタク系の男性に人気の作品だった。何かの時にたまたま目にした絵には、裸にエプロンかと思うような格好をした小さな女の子が描かれていた。
「やめて。話さなくていい」
首筋に、うじ虫の群れが這っていくような悪寒が走り、瑠美は声を上げた。リュカは瑠美に向けた大きな目を丸くして、僅かに首を傾げる。
「すみません。何かお気に障ることを言いましたか?」
リュカの疑問があまりに素朴で、何の含みもなくて、瑠美はがんじがらめの自分の心が恥ずかしくなった。
「いや、いいの。悪いけど急ぐから向こうに行っててくれる?」
リュカは、はい、と答えてすぐに背を向けた。
リュカからあんな話をされたせいだろう。昨夜、瑠美はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。ほとんど裸の格好をさせられた少女が、記憶の中の断片的なその姿だけが、まざまざと蘇ってきたのだ。
白く、子どもらしい丸みを帯びた腕や足。首から下がったスタイで申し訳程度に隠された僅かにしか膨らんでいない胸。明らかにサイズの小さい下着から半分もはみ出してしまっているお尻。そして、大きな黒い目を涙で光らせた綺麗な顔。そういったものを頭から追い出すことができない内に、薄いカーテンが澄んだ朝日の色に染まっていた。
楕円形の錠剤を二つ、手のひらに乗せる。それを口へ放り、コップの水をぐっと飲んで喉の奥へと押し込むと、瑠美は深く息をついた。昨夜のように眠れなくなってしまっては困る。たまたま睡眠薬が見つかって良かった。
彼女は寝支度を整えるため、洗面所にいた。鏡の後ろに内蔵されたカメラが顔色の悪さを捉えたらしく、十分な睡眠を取れだの、鉄剤を飲めだのと、うるさく指図してくる。鬱陶しくて、うつむいた。
すぐ隣のリビングは明かりを落とされてはいたが、まだリュカがいるはずだ。とりあえず何にも触らず、朝までじっとしているように、言いつけてあった。
視線を上げ、鏡を見る。肉付きのいい顔の中で、目鼻が埋もれかけている。瑠美は昔からこうだった。そして昔から、ずっと思ってきた。なんで私はこんな風に生まれてきてしまったのだろう、と。
翌朝、瑠美が起きてリビングへ入ると、途端に甘辛げな香りが漂ってきた。驚いてキッチンへ目を向けると、リュカが菜箸で小鍋をつついている。
「何してんのよ?」
思いがけない光景に、声がひっくり返ってしまった。瑠美の驚きをよそに、リュカは柔らかな笑顔で答えた。
「この間、教えていただいた料理を作ってみました。昨日はご気分がすぐれないようでしたから、元気になってもらおうと思って」
ご気分がすぐれない――。見抜かれてしまった。いつも気持ちが不安定になっても、誰にも気づかれずに過ごしてきたのに。リュカに人の感情を推察する機能が備えられているとはいえ、つくづく思う。ロボットというのは、恐ろしい。
ちょうどできたところです。座っていてください。リュカにそう言われて、瑠美は仕方なく椅子へ腰を下ろした。
数分で、肉豆腐が運ばれてきた。立ち上る湯気を吸い込む。より濃くなった醤油の香ばしさとそれに絡む甘さとが、食欲をそそった。
「おいしそう」
リュカはにっこりと笑う。
「教え方がお上手だからですよ」
いや、瑠美は豆腐を豆腐だと教えただけだ。調理法になど、一つも触れなかった。たぶん、リュカは食材や合わせた調味料の分量を全て記憶していたのだろう。本当に、ロボットとは恐ろしい。
「上手になんか教えてないよ。あなたが勝手に覚えただけでしょ。だいたい、妹なんて、私が教えても全然上手くできなくて、何度も同じレシピ聞いてくるし」
そう、料理は瑠美が持っている唯一の強みだった。唯一、妹に負けないもの。生まれ持った容姿や感じの良さではいくら頑張っても妹に敵わなかった彼女は、学生時代に勉強、スポーツ、手芸など様々なことに打ち込んで特技を探した。そうして自身の料理の腕に気がつき、それを決して手放すまいと磨きをかけてきたのだ。今では手早く済ませても、それなりのものを並べられる。
現在は、料理を全て自動化するオートメーションキッチンも普及してきたが、瑠美はどんなに忙しくても、料理を機械任せにするつもりはなかった。自分の特技と言えるものに、なんとしてもしがみつかなければと思っていた。
豚肉を箸でつまみ、口へ入れる。醤油と砂糖の味がしっかりついた肉を噛むと、豚肉の甘さがその中へ溶けていく。
「おいしいですか?」
リュカは大きな目を三日月形に細めて尋ねてきた。うん、と答える。確かにおいしい。自分で作ったものに、そっくりだ。けれど、ただ一つの自慢だった料理をいとも簡単に再現されては元気が出るどころか、落ち込んでくる。自分が自信を持てるただ一つのことが、奪われてしまったようだ。
と言っても、彼の脳はコンピューター。容量不足を避けるため記憶データの自動削除機能が備わっているはずだ。だから、肉豆腐の調理法など、きっとすぐに忘れてしまう。今我慢すれば、それで済む。我慢だ。瑠美は心でそう呟いた。
リュカは相変わらず頬に丁寧な笑みを浮かべて、じっと瑠美を見つめている。暗い気持ちでいることが知られそうな気がして、瑠美は口を開いた。
「それより、あなたって結構人間らしいよね。そりゃ、人間離れしたところも多いけど、そうやって嬉しそうに笑ってるのとか、本当の人間みたい」
リュカの細まった目の中で、瞳が嬉々と輝いたように見えた。
「それはきっとご主人様のおかげです」
腹にズドンと弾を撃ち込まれたように、胃が縮んだ。
「ぼくみたいなロボットは、たいていご主人様に手にしていただく前は、全く人の感情を持っていないんです。でも、ご主人様と様々なコミュニケーションを取っていくうちに、だんだん人の感情を学んでいきます。だから、ぼくが感情豊かだとしたら、それは全部ご主人様のおかげです」
瑠美は耳を両手で塞ぎたい気持ちを抑えて聞いていたが、とうとう堪えきれなくなると声を上げた。
「ご主人様のことは分かった。でも、どうせご主人様は死ぬの。あんたはご主人様のところには帰れないんだよ。だから、いちいちご主人様の話をすんのはやめなさい」
リュカは不思議そうに目をパチパチさせた。ぼくのご主人様は亡くなるんですか? 亡くなったら、ご主人様の話をしてはいけないんですか? 問いかける彼の真っ直ぐな視線に心まで見透かされそうな気がして、瑠美は顔をそむけた。それでも、リュカは喋るのをやめない。
「もしそうなら、そう言ってくだされば、もうご主人様の話はしませんよ」
いや、ごめん。そういうことじゃないの。自分の声が聞こえた。そうして他にどうしようもなく、瑠美は黙って肉豆腐を箸でつついた。
私はひどい人間だ。瑠美は改めてそう思った。ロボットとはいえ、感情のあるリュカを傷つけるようなことを言ってしまった。しかも、自分にそうさせたのが、精神の深くに根付いた嫉妬だということも分かって、悪寒が骨にまでしみてきた。
リュカの言っていることは、事実なのだろう。きっと彼の持ち主は、彼に優しく優しく接していたに違いない。あの男もそうだった。妹に対する時のあの男は、いつでも溶けそうなくらい柔らかな表情をしていた。眼差しは温かく、けれどその目は優しさとは別の情欲に底光ってもいた。そうしてその視線が瑠美に向けられたことは、一度もなかった。
リュカの話を聞いていると、どうしてもあの時の感情が蘇ってきて、自分の醜さを感じずにはいられなくなった。
カーテンの隙間から冷たい夜の気配が流れ込んでくる。天井から注ぐ寒色系の明かりに照らされ、ベッドの縁から垂れた白い足が闇に浮き出して見えた。覆いかぶさった男の唇がたてる、チュ、チュ、という音の度、白い足は痙攣したように震える。その様子を、瑠美は薄く開いたドアの隙間から、じっと見つめていた。止めなくちゃ。そう告げる理性は、けれど、全く瑠美の体を動かさなかった。彼女の手足は恐怖と、そして自分には差し出されることのない類の愛情を全身に受ける少女への妬みで、硬く硬く強ばっていた。そうしていると、急に、何やらぬるい温度が首筋に触れた。
体に戦慄が走って、目が覚めた。頭の中が痺れていて、上手く考えられない。しかし何度か深呼吸する内に、先程の夢に囚われた感覚が次第に現実の彼女の元へ戻ってきた。そうしてカチリと体と五感が重なった時、
真っ先に気がついたのは、自分以外の体温が同じベッドの中にあることだった。思わず布団を跳ねのけると、リュカがいた。
「何してんのよ!」
ほとんど叫んでいた。リュカは緑色の目をパッチリ開けたまま、すみません、と言う。
「瑠美さんが寝苦しそうにしていたので、様子を見にきたんです。そうしたら、夢にうなされているようでしたから、落ち着けてあげられないかと思って」
「落ち着くわけないでしょ!」
全力疾走した後みたいに、心臓がバクバクいっていた。リュカが瑠美の方へ腕を伸ばす。思わずすくんだ体は、それでも、彼の手を払いのけはしなかった。リュカが同じベッドにいることで緊張しているのか、それともさっきの夢の影響か、金縛りにでもあったように身動きが取れない。細い指が彼女の首筋を撫でる。夢の最後に感じたのと同じぬるさが、肌の上を這った。
「瑠美さんは何かがとても辛いんでしょう。ぼくには分かりますよ。ご主人様もそうでしたから。ぼくはそういうのを楽にしてあげられるんですよ」
リュカはゆっくり瑠美の顔へ顔を寄せた。彼の頬の、人ほど温かくはなく、けれど冷えきってもいない不思議な温度。それが感じられるくらい近づくと、彼はそっと瑠美の左頬に口付けた。
とたん、電気が通ったみたいに体が動いた。瑠美は両腕を伸ばしてリュカを引き離し、声を荒らげた。
「やめなさい! そんなことしちゃ駄目!」
リュカはきょとんとして小首を傾げる。
「ぼくなら大丈夫ですよ。セクサロイドですから」
「そんなの関係ない。子どもがそんなことしちゃ駄目なの」
「ぼくは子どもではありません。子どもに似せて作られたロボット――」
「それでも駄目なの」
今度は意図的に、瑠美は語気を強めた。リュカの目から疑問の色が引いていく。
「それは大事なことですか?」
「そうだよ」
答えると、リュカはにっこり笑って、分かりました、と言った。
「でしたら、もうやめます。でも、」
彼は布団から這い出すと、床に座ってベッドの縁へ頬杖をつく。
「こうして見ていて、いいですか?」
「駄目に決まってるでしょ」
「でも、見ていたいです」
「なんでよ?」
彼の笑顔がぐっと深まった。
「瑠美さんが綺麗だから」
顔面に熱が押し寄せてきた。それを知られまいと、掛け布団を顔まで引っ張り上げる。
「そんなわけないでしょ。とにかく、明日は仕事のイベントで早いの。さっさと行って」
分かりました。リュカは抑揚のない声で答えると、部屋から出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます